Case1:八代一 サルベージ船、減圧室

「うわああぁぁぁっ!」


 マモンが悲鳴を上げて飛び起きる。八代がそれを見るのはこれで四度目だった。青ざめた顔で肩で息をしている少女の姿は、怪我で衰弱していることを差し引いても尋常ではない。

 海星との最終決戦で減圧室に閉じ込められて五日目、ほぼ毎日と言っていいほどマモンはうなされ悲鳴をあげては飛び起きていた。

 どうしたのかと聞くと殺意のこもった眼差しを向けられるので、八代は極力、気づかないふりをしてマモン――六道舞風に笑顔を向ける。


「おはよう。はい、今日の朝食だよ」


 二人が閉じ込められた減圧室は、基本的に外と行き来できないが、食料などを受け渡しできる小さな窓があった。

 トレイにはオムレツとベーコン、パンにサラダ、そしてコーヒーと絵に描いたような朝食が並んでいる。

 八代はマグカップを手に取ると、


「今日はコーヒー豆の差し入れがようやく届いてね。淹れたてだよ。僕の好きなエチオピアの中煎り、ワインのような香りとベリーのような酸味があるんだ」


 蘊蓄を披露しながら、しばし香りを楽しんだ後、いかにも美味しそうに飲んだ。


「うん、朝はやっぱりこれだね」


 何かのCMのようにうなずいている。


「へー」


 対しマモンは自分の前に置かれたカップを手に取り憮然と答えた。


「僕の飲み物は、オレンジジュースの味がするんだけど」

「当然じゃないか。オレンジジュースなんだから」

「どうしてあなたがこだわりの珈琲で、僕のはファミレスででてきそうな安いオレンジジュースなの?」

「子供に珈琲はまだ早いだろう?」


 マモンはにっこり笑うと八代の頭上でオレンジジュースのカップを逆さにした。




「はあ、頭の上にぶちまけることはないのに」


 シャワーをあびオレンジジュースを洗い流し、体を拭きながらため息をつく。

 しかしそのため息はジュースをかけられたせいだけではなかった。

 マモンの目覚めるときの様子が心配だった。あの様子には心当たりがある。ひどい戦場経験のトラウマからPTSDを抱えている兵士と同じだった。

 ――どうしてみんな頭がおかしくなるんだよ!

 悲鳴の合間に挟まれた悲痛な言葉。何を意味するかは解った。マモンは相手の記憶を読めるリーディング能力の持ち主だ。しかし能力を制御しきれず、リーディングは双方向。読む相手の脳にもマモンの記憶が強制的に書き込まれてしまう。その結果、二つの記憶がコンフリクトし、マモンに心を読まれた人間は誰も彼もおかしくなる。

 自分の特異な能力を楽しんでいるように見えて、その実、無理をしていたのだ。それがあの悲痛な叫びなのだろう。


「どうしたものかな」


 海星との最終決戦で八代はマモンを減圧室に誘い込み、二週間閉じ込めることに成功した。その間、減圧室の内外の気圧差から誰も出入りすることはできない。出られるまでまだ一週間以上ある。小さな部屋が円環に連なっているとはいえ減圧室はさほど広くない。

 あの悲鳴を毎日聞くのはつらい。本人はもっとつらいはずだ。

 悩みながら、八代はシャワールームを出て上半身裸のまま搬入用の小さな窓がある部屋に向かう。

 今朝、加圧作業が済んだ搬入棚には、先ほどの朝食以外に数冊の本しかない。限られた棚のスペースで受け渡しできるものはそれほど多くない。現在進行形の問題は着替えの予備がないことだ。ジュースでベトベトになった服をまた着るわけにはいかない。

 だからといって、シャワー後に上半身裸のまま戻りでもしたら、マモンにどんな反応をされるか容易に想像できた。


「変態、近寄るな、あっちいけってチェスの駒を投げつけられそうだな」


 服を頼んでからここに来るまで、半日はかかるだろう。


「どうしたもんかな……って、え? あれ?」


 突き当たりの通路を曲がる後ろ姿が見えた。薄暗くてよく見えなかったが、減圧室には八代とマモンしかいない。人影が誰なのかは明白だ。


「舞風君、もう動けるようになったの?」


 あんなに歩けるようなるまで回復したのなら嬉しいことだ。八代はマモンと思しき影を追う。しかし追いつけないまま元の部屋に行きついてしまい、そこにはベッドで横になったままのマモンがいた。


「あれ? 舞風君、さっき……」


 八代が言い終わらないうちに、マモンは毛を逆立てた猫のような表情になり、


「変態っ! 近寄るなっ、あっちいけっ! ロリコンは死ねっ!」


 とベッドの横のチェス盤を投げつけてくる。

 投げつけられたチェス盤を受け止めそこねて顔面をのけぞらせながら、予想より一言多かったし、駒じゃすまなかったなと考えていた。


「なんなの半裸で。近づかないでよ、変態!」

「半裸って、君が服を駄目にしたんだよね」

「鼻血まで出して、下心が丸見えだよ」

「君がチェス盤を投げつけたせいだよね」


 やはり理不尽だ。しかしいまは先に確かめることがあった。


「舞風君、いつのまに動けるようになったんだい?」

「え、なんのこと?」


 マモンが険しい顔のまま答える。


「立って歩けるようになったんでしょう?」

「だからなんのこと?」

「だってさっき、向こう側の部屋にいたよね?」

「なに寝ぼけたこと言ってるの? 僕はずっとここでごはん食べてたけど?」

「いやだって……、じゃああれはいったい……?」


 はっきりとは見えなかったが、完全に密室の減圧室で人影があったなら彼女以外に考えられない。

 首をかしげる八代にマモンが疑惑と嫌悪感の入り混じった冷たい眼差しを向ける。


「ああ、そうか。やだね男って。下心が丸見えだよ。幽霊がいるかもって怖がらせて、体を密着させようって魂胆だね。言っておくけど僕は未成年! 手を出したら犯罪だよ」

「そんな安っぽい手は使わないよ」

「もっと凝った手を使うってこと?!」


 立ち上がろうとしたマモンがよろける。その様子は演技には見えなかった。八代が見た人影はあっというまに通路の奥に行ってしまった。

 よろけるマモンをとっさに支えようとしたら、


「だからそんな恰好で僕に近寄らないでってば、変態!」


 とこっぴどく振り払われたので、おとなしく隣の部屋に行くことにする。衰弱しているとはいえ、八代を突き飛ばす力はそこそこ強かった。これだけ元気が出てきたのなら、しばらく一人にしていても大丈夫だろう。

 念のため外へ通じるドアを確かめるが開閉された様子はなかった。外界と唯一繋がっている棚は子供でも入れない小ささだ。


「長時間の加圧状態で幻覚症状を見るなんてあったかな?」


 少し休んだほうがいいかもしれない。


「僕も疲れているのな」


 戦場で戦い、休む間もなくここに閉じ込められてから毎日マモンの看病もしていて、あまり寝ていない。

 簡易ベッドのある部屋に戻ろうし、ふと気配を感じた。振り返ると、すぐ目の前に一人の少女がいた。ショートカットに青い瞳のマモンではない。髪は腰に届きそうなほど長く、黒曜石の瞳がこちらをじっと見ている。


「え? 由宇君……?」


 絶対ここにいるはずのない人物が目の前に立っていた。



 峰島由宇は先の海星との戦闘のあと、NCT研究所の地下1200メートルに戻ったはずだ。こんなところにいるはずがない。


「どうして君がここに?」


 由宇は暗い眼差しでじっと見返してくるだけで答えない。


「それにどうやってここに?」


 彼女ならば減圧室に入る方法くらい思いつくかもしれないと一瞬思い、しかしすぐに否定する。いかに峰島由宇とはいえさすがに無理だ。そもそもここにくる理由もない。


「私は地上に出るべきではなかった」


 由宇が唐突に口を開いた。


「え、な、なに?」

「地上に出なければ、自由に焦がれることもなかった。海星に狙われることもなかった。大勢の人間が争い、無益に死ぬこともなかった」

「ちょっと、ちょっとちょっとちょっとストップ! 突然現われていきなり内罰思考全開なのやめてくれる? そんなことないから。というかここ完全に密室だよね? どうやって入ってきたの?」


 うなされるマモンに内罰的な由宇がそろったら、もう完全にキャパオーバーだ。

 八代の言葉を聞いているのかいないのか、由宇は部屋の隅にうずくまり、うなだれて膝を抱える。


「私は、地下1200メートルのあの部屋に、永遠にいるべきだった」

「由宇君、ここにきてまで膝を抱えてるの? それなら地下でもいいよね? わざわざ海上のこの船の減圧室の中まできて、なんで同じことしてるの?」

「遺産技術は大勢の運命を狂わせた。私にはどうにもできない」


 なぜ由宇がここにいるかはともかく内罰的な部分を多く見てきた八代は、彼女はいまなおこれほど深い悩みを抱えているのかと思うと何も言えない気持ちになった。

 由宇はますます膝を抱え、空虚な眼差しはぼんやりと床に注がれていた。


「私は無力だ」

「由宇君……」

「冷静に考えるなら、八代ごときの手を借りなければ遺産のネズミ一匹殺せない私に、世界中に散らばった遺産の始末などできるわけもないのに……」

「まって、いまサラっと、八代ごときって言った?」

「そもそも、あいつが報告書に私の能力を書かなければ、私の人生はもう少しマシだったはずだ……」

「ちょっと待って! 内罰的に見せかけて僕のことディスってない? やっぱり僕のこと恨んでるの? そうなんでしょう」

「十二歳の私の四分の一以下の戦闘力しかないくせに。なんだあのうさんくさい笑みは」

「内罰的の偽装すらしなくなった。もうただの悪口だよね! 戦闘能力と笑顔は関係ないよね!?」

「モグラのお姫さまという呼び方も不可解だ。センスの欠片もない。真目家の関係者は全員ネーミングセンスが悪くなる呪いでもかかっているのか」

「僕けっこう気に入ってたんだけど。でも呪いなんて非科学的な言葉使うんだね。あと真目家の関係者ってワードやめて」

「伊達も面倒くさい。チェスはさほど強くないくせに、何度も挑んでくる」

「伊達さんへの不満、そこなんだ。てかチェスなんてしてたの?」

「岸田博士、太りすぎ」

「もっと言うべき言葉あるよね。事実だけど、正しいけど、いまこぼす愚痴それ?」


 由宇はゆっくりと顔を上げて、


「男のくせにうるさいぞ。黙れ」


 といかにも鬱陶しそうに言う。内罰的な要素は、もはや完全に皆無だ。


「男のくせにとか、いまはもう問題発言だからね! 社会的に抹殺されるからね。もう抹殺されてるって返しはなしだからね!」


 そのとき、背後から大きな物音がした。


「ちょっと、なに独り言言ってるの? 怖いんだけど」


 振り返るとマモンが隣の部屋から顔をのぞかせ、怪訝そうにしていた。


「独り言じゃない。いまここに……」


 指を指し振り返ると由宇の姿はなかった。現われたときと同じように唐突に消えていた。

刊行シリーズ

9S<ナインエス> XIII true sideの書影
9S<ナインエス> XII true sideの書影
9S<ナインエス> XI true sideの書影
9S<ナインエス> X true sideの書影
9S<ナインエス> IXの書影