Case2:朝倉小夜子 NCT研究所、LAFIセカンドモニタールーム
小夜子はLAFIセカンドを使いこなせるように奮闘中だった。岸田博士の指導のもと、毎日遅くまで専用のモニタールームでLAFI独特のプログラムと格闘していた。どれだけ時間がたっただろうか。
「根詰めすぎたかな」
盲目の小夜子が使うのは専用の点字モニターだ。点字モニターでの作業は目を酷使するわけでもなければ、作業中の姿勢が悪くなることもない。それでも肩こりは他の職員と同じようにする。
「はあ、疲れた」
思い切り体を伸ばしてこりをほぐしていると、ふと人の気配を感じた。
「あっ、気づかなくてすみません。みっともないところをお見せしました」
小夜子は慌てて姿勢を正す。誰もいないと思ってかなり自由なポーズを取っていた気がする。
「気にするな。ストレッチは伸張反射の感受性が低下することで効果がある。科学的根拠もある動作だ。どんな格好をしていても恥じることはない」
普通に考えれば恥じるような格好をしていたと言うことだろうか。小夜子は赤くなったり青くなったりしていたが、ふとおかしなことに気づく。
いまの声は小夜子のいる部署の誰でもない。岸田博士でも伊達でもない。なにより声は少女のものだ。誰かはすぐに解ったが、彼女が小夜子の目の前に現われるはずはなかった。
「あの、もしかしてですけど、由宇さんですか?」
「邪魔だったか?」
近づいてくる足音も間違いなく由宇のものだ。いつのまにかすぐ目の前に立っていた。
「邪魔なんてことは決して……、いえあの、その前に、由宇さん、ですよね? 部屋から出る許可が下りたんですか?」
それはとてもすばらしいことだ。本来なら小夜子は手放しで喜ぶところだったが、なぜか不安が先だった。
「もしかして脱走してきた……とか?」
不安の正体をそのように判断した。許可を受けた、あるいは解放されることになったのなら、LAFIセカンドを管理している自分のところにも連絡がきそうだからだ。
返事はなかった。不安がより大きくなる。
「も、もちろんここに来たことは黙っています。何も聞いていません、はい」
突然現れた由宇を前に慌てる小夜子だったが、由宇は何も動じていないようだ。
「LAFIセカンドの扱いで悩んでるようだな」
「は、はい。あ、いえ、大丈夫です。使いこなしてみせます」
「しかし行き詰まっているから、根を詰めているのだろう」
由宇はモニターの情報を見て言ったらしい。小夜子は点字モニターだけあればいいが、他人とのコミュニケーションで必要になるので通常のモニターも常に表示させていた。
すぐ間近に由宇の体温を感じる。モニターをのぞき込んでいる由宇の顔がすぐそばにある。
――ど、どうしよう。
同性であるはずなのになぜか鼓動が早まった。由宇の行動はいつも頼もしくて、それでいて優しくて、まるで童話に出てくる王子様のようだ。
「これは海星の捕虜になっていたLC部隊の隊員の現在のデータか。ブレインプロテクトとリーディング能力の関係性は一考に値する」
由宇がすぐに状況を察し、彼女らしい冷静な分析を見せる。しかし冷静に感じる言葉の中に、苦しむ兵士をなんとかしたいという優しい心があるのを、気配に敏感な小夜子は感じ取った。
気を引き締めて小夜子は大きくうなずく。
「はい、彼らの症状をどうにかできないかと思って」
先の海星との戦闘で特殊な症状に見舞われて苦しんでいる人達がいる。マモンにリーディングされたさい、ブレインプロテクトの弊害で正気を保てないほどの記憶障害が起こってしまったのだ。
「回復の方法はあると思います。治療方法を見つけたいんです。LAFIを使いこなせれば、医療シミュレートもはかどります」
「そうか、そうだな。私も彼らのことは気になっていた」
「やっぱりそうですよね。絶対放っておけないって思ったんです。見たところ、特定のシナプスパターンが見られます。本来のシナプスの接続を阻害する形になってしまっています。じつに大脳皮質の22パーセントも」
さらに顔が近づいた気がした。呼吸がかかる距離だ。取り繕った気持ちはあっさり瓦解しそうになった。
由宇の顔は一度だけ見たことがある。LAFIファーストとエレクトロン・フィージョンで接続した際、様々なデータが脳に流れてきたが、その中に由宇に関するデータも数多くあった。
長い絹糸のような黒髪に、息を呑むほど美しい顔立ちは忘れられない。加えてきりりとした大人びた表情は、年下のはずなのに思わず、お姉様と言いたくなるカリスマ性があった。
いま目の前に由宇がいる。
そもそもお姉様と言って何が悪いのだろう。由宇は大人びているし、自分よりはるかにハードで経験豊かな人生を送っている。
夢見る少女のように、見えないながらも由宇を見上げて、消えそうな声でつぶやく。
「あ、あの、由宇お姉さ……」
ふいにドアが開いた。
「朝倉君、この前の手法なのだがあまり効果がなくてね」
「うあっきゃああ!」
悲鳴なのか奇声なのか、自分でも驚くくらい珍妙な叫び声が出てしまった。
部屋に入ってきたのは岸田博士だ。彼の気配はいつも穏やかで好ましいものだったが、いまはただただ心臓に悪く、鼓動が数倍に跳ね上がった。
「おや、もしかして集中していたのかな。それは悪いことをした」
最初は驚いた様子だった岸田博士は、本当にすまなそうに言う。
「いえ、これはその、誤解なんです! 由宇お姉さ、ま……じゃなくて、由宇さんは悪くありません。そう、私が無理やり連れ込んでしまったんです!」
由宇がここにいることを、なんとか言い訳しなくてはいけない。しかし無理やり連れ込んだとは、とっさにとはいえ、はしたないことをしているような気持ちになって、小夜子は思わず頬を赤くした。
「由宇君? 連れ込んだ? なんのことかね?」
だが岸田博士は由宇のことを追及するどころか、小夜子の言葉を不思議に思っている様子だ。
「え、だって……、あら? え?」
由宇の気配はどこにもなかった。現われたときと同じように、忽然と消えてしまった。もしかして幽霊か幻だったのだろうか。急に怖くなり顔が青くなる。
「ところで朝倉君は年上なのに、由宇お姉様と呼んでいるのはなぜかね?」
しっかり聞かれていて、さらに血の気が引いた。