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空がある。
晴れた、朝の空だ。青の色には薄白い月が二つ浮かび、澄んだ空気の下には青黒い山渓の波が遠くまで重なっている。
山岳部、緑の多い山々の上に広がる空だった。
空には、柱にも見える区分けが幾つもなされていた。地上から天上の間に、柱のような形をもって区切られた部分があるのだ。広大な、しかし幾つもあるその柱状区分は、空を行く雲や風が見えない壁によって消えることや、地上側の植生差で己の存在を誇示している。
区分けは無数にあるが、位置関係はまばらで、広さもまちまちだった。
そんな風に区分された空は、三つのものを持っている。
一つは風だ。山岳部の気流は絡み合うように立ち上がり、雲を生んでは消えていく。
そしてもう一つは、波だった。空を波が走っている。雲ではなく、波濤の線が幾つも、八の字を書いて空に伸びている。その波は水で出来ており、風によって霧に飛沫いていた。
空にあるもの。最後の一つは、雲の間を行き、波を作るものだ。
船だった。
山を越える空、区分けの柱の間を、波音を立てて八つの白い船が行く。
表層部に町や自然公園を乗せた航空都市艦は、それぞれの影を群にして山に落とす。中央に前後二艦、左右に前後三艦を列した艦影群の影は、その先頭から後尾までで、数キロに亘る山渓一つを包むものだった。
船はどれも、艦首側から空に波を作り、波濤の響きをもって高空の位置を進んでいく。
波を砕いて空を進む船は、どれも近くの艦と数十本の太縄で連結していた。時折、艦群がわずかに進路を変えるとき、連結の縄が巻き取られたり引き出されたりしている。
八艦の艦首には、艦名があった。まず、どの艦にも〝武蔵〟という名が黒の字で書かれている。その次に、それぞれの艦名がやはり黒の字で書かれていた。
右舷一番艦〝品川〟
右舷二番艦〝多摩〟
右舷三番艦〝高尾〟
中央前艦 〝武蔵野〟
中央後艦 〝奥多摩〟
左舷一番艦〝浅草〟
左舷二番艦〝村山〟
左舷三番艦〝青梅〟
これら八艦は、左右三艦を双胴とした中央二艦という構成で空を行く。
そして、音が響いた。
音は、歌声だった。
ゆっくりとした声の響きは、奥多摩の艦首側、表層部の墓地から童謡の歌詞を奏でる。
「──通りませ──」
通りませ 通りませ
行かば 何処が細道なれば
天神元へと 至る細道
御意見御無用 通れぬとても
この子の十の 御祝いに
両のお札を納めに参ず
行きはよいなぎ 帰りはこわき
我が中こわきの 通しかな──
歌は大気を通り、やがて消える。
その代わりに、新しく響く音があった。船行く波音の他に響くのは、連続する鐘の音だ。
一つ二つ三つと鳴り、音楽のように続く時報の鐘の音には、放送の声が被っていく。
『市民の皆様、準バハムート級航空都市艦・武蔵が、武蔵アリアダスト教導院の鐘で朝八時半をお知らせ致します。本艦は現在、サガルマータ回廊を抜けて南西へ航行、午後に主港である極東代表国三河へと入港致します。生活地域上空では情報遮断ステルス航行に入りますので、御協力御願い致します。──以上』
音と声が響くのは中央後艦奥多摩の上。その上にある建物が音の発生源だ。
木造の、横に長い三階建ては前後に二棟。チャイムを鳴らす二つの建物は、入り口の門扉に鉄の表札を持つ。〝武蔵アリアダスト教導院〟という表札を。
武蔵アリアダスト教導院は、門と校舎の間に、校庭と、その上を渡る一本の橋を持っていた。
校庭は斜めに百メートルラインをぎりぎり持てる広さ。上を渡る橋は、門側から階段を使って上り、前側校舎の二階にある昇降口に直結する。
そして時報のチャイムが終了し、代わりというように橋の上から女の声が生まれた。
「よぅ──し」
よく通る声が、校舎側に向かって飛ぶ。
「三年梅組集合──。いい?」
声の響く武蔵アリアダスト教導院の正面、橋の上、そこに人影が幾つもある。
まず門側には一人の女が立っていた。黒い軽装甲型ジャージの、背筋の伸びた女だ。
短めの髪の後ろ、背には一本の線がある。青塗りに白紋の、金属を柄とした長剣だった。
彼女が見る正面。校舎側。そこに、黒と白の制服を着た若者達がいる。人であれば、人ではない者もいる。そんな彼らに対して、女は笑みを作ってこう言った。
「では、──これより体育の授業を始めまーす」
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教師は、橋の上に集まった生徒達にこう言った。畏まった演技の口調で、
「さて、ルールは簡単です」
と彼女は言った。そして顎をしゃくって、艦群の先を示す。
「いい? ──先生、これから品川の先にあるヤクザの事務所まで、ちょっとヤクザ殴りに全速力で走って行くから、全員ついてくるように。そっから先は実技ね」
教師の言葉に、制服姿の群、生徒達の中から、え? いう声があがった。
だが女教師はそれらの声を無視した笑顔を作る。
「遅れたら早朝の教室掃除でもしてもらおっかな。──ハイ返事は? Jud.?」
「──Jud.」
返答、了解の意を示す言葉を、皆が返した。
同時に手が上がる。〝会計 シロジロ・ベルトーニ〟という腕章をつけた長身の男子が、
「教師オリオトライ、──体育と品川のヤクザとどのような関係が。金ですか?」
「馬鹿ねえシロジロ、体育とは運動することよ? そして、殴ると運動になるのよね。そんな単純なこと、──知らなかったとしたら問題だわ」
名を呼ばれた生徒の袖を、横の女子制服の姿が引っ張る。〝会計補佐 ハイディ・オーゲザヴァラー〟という名札のロングヘアは、笑顔のままで、
「ほらシロ君、オリオトライ先生、最近表層の一軒家が割り当てられて野放図に喜んでたら地上げに遭って最下層行きになってビール飲んで暴れて壁割って教員課にマジ<外字>られたから。──つまり中盤以降は全部己のせいなんだけど初心を忘れず報復だと思うのよね」
「報復じゃないわよー。先生、ただ単に腹が立ったんで仕返すだけだから」
「同じだよ!!」
皆が突っ込むが、オリオトライは気にする風もない。
そして彼女は背の長剣を鞘ごと手にして脇に抱えた。鞘の表面、ブランド名であるIZUMOのエンブレムを手で撫で、IZUMO特有の斬撃効果重視でわずかに折れ曲がったデザインの柄に指を添える。そして彼女はこう言った。
「休んでるの、誰かいる? ミリアム・ポークウは仕方ないとして、あと、東は今日の昼にようやく戻ってくるって話だけど、他は──」
問いに周囲がそれぞれの顔を見渡した。
すると黒い三角帽の少女、〝第三特務 マルゴット・ナイト〟という腕章の金髪少女が口を開く。彼女は背にある金の六枚翼を左右に揺らしつつ、
「ナイちゃんが見る限り、セージュンとソーチョーがいないかなあ」
その声に、彼女の腕を抱いている黒翼の少女〝第四特務 マルガ・ナルゼ〟が首を傾げた。
「正純は小等部の講師をしに多摩の小等部教導院に行ってるし、午後から酒井学長を三河に送りに行くから、今日は自由出席の筈。総長……、トーリは知らないわ」
「んー、じゃあ〝不可能男〟のトーリについて知ってる人いる?」
問いかけに、皆が一つの場所を見た。皆の中心から少し後ろに下がったところ。そこに立つ茶色いウェーブヘアの少女だ。彼女は腕を組み、口に弓の笑みを作ると、
「フフ、皆、うちの愚弟のトーリのことがそんな聞きたい? 聞きたいわよね? だって武蔵の総長兼生徒会長の動向だものね。フフ。──でも教えないわ!」
ええっ? と皆が疑問の声を作る。すると対する彼女は意味ありげに一つ頷き、
「だって朝八時過ぎに私が起きたらもういなかったから」
「お前いつもハイテンションなくせに起きるの遅えよ!」