そう考えたユウマは、カプセルの左側に足を出すと、そこに揃えてあるスニーカーを履いた。手すりを摑み、勢いよく立ち上がった途端、軽い立ち眩みに襲われる。それが治まるまで待ち、カリキュラスの側面を取り囲む、幅六十センチほどの昇降台を慎重に歩く。
昇降台の先端で立ち止まり、眼下の通路を見回すが、やはり人の姿はない。無意識のうちに足音を殺しながら、短い階段を下りる。
ラバーシートが貼られた通路には、破壊されたカリキュラスのものだろう、プラスチックの破片やら金属のパイプやらが点々と散らばっている。それらを避けながら、すぐ左にあるカリキュラスの前まで歩く。
カリキュラスは、使用者のプライバシーに配慮するためか、床面から二メートルほどの高さに設置されているので、身長百五十二センチのユウマは背伸びしても手が届かない。カプセル側面にある非常開放レバーを操作するためには、昇降台に上る必要がある。まずは妹の佐羽のカプセルを開けるべく、階段を上ろうとした──その時だった。
ぴちゃっ、と湿り気のある音が聞こえて、ユウマは体を左に向けた。
「あ…………」
喉から、掠れた声が漏れた。
緩くカーブする通路の奥、十数メートル離れたところに、誰かが立っている。
薄暗い非常灯の下ではほとんどシルエットしか見えないが、下半身はどうにか識別できる。すらりと細い脚を包むのは膝丈の黒ソックスだけで、靴は履いていない。華奢な膝のすぐ上に、雪花小の制服である白いプリーツスカートの裾がある。上半身は暗がりに沈んでいてまったく見えない。
しかしユウマは、雰囲気だけで相手の名前が解った。
六年一組、出席番号二十一番、綿巻すみか。
一組のみならず、五年生や四年生にも、すみかにまったく興味のない男子生徒はいるまい。可愛くて、頭が良くて、優しくて、大手出版社のファッション雑誌でモデルまでしているのだ。前に立つだけで頭が真っ白になってしまうすみかの美貌に、ほんの少しも魅了されない小学生男子など小学生男子ではない。
もっともユウマは、クラスの多くの男子のようにあわよくば彼氏に……などという大それた野望を抱いているわけではなく、精神的にも物理的にも距離を取ってひっそりと鑑賞しているだけだ。少なくとも自分ではそう信じている。四年生の時、学校で《クレスト》のアイレンズを落として困っていた時に捜すのを手伝ってくれた時から特別な存在になってしまったことは確かだが、決して片想いをしているわけではない……はずだ。たぶん。
ともあれ、黒のハイソックスを見ただけですみかであることを確信したユウマは、階段から離れて通路の中央に戻った。
「わ……綿巻さん……?」
呼びかけたその時、プレイルームの照明だけでなく、左手の甲に貼った《クレスト》の電源まで落ちていることに気付く。
生体電位で駆動する薄膜型デバイスであるクレストにバッテリー切れはないし、自分で電源をオフにした覚えもない。
クレストの中央を右手の人差し指で長押ししながら、ユウマは一歩すみかに近づいた。
同時に、すみかも前に出た。
黒いソックスが、ぴちゃっという音を立てた。
「…………?」
目を凝らすと、すみかの足許に、黒っぽい液体が広がっているのに気付く。
オイルか何かだろうか、と思ったが化学的な揮発臭は感じない。代わりに例の金臭さが再び漂ってきて、思わず顔を歪める。
ぴちゃり。
すみかがもう一歩、足を前に進めた。
天井から降り注ぐ非常灯の光が、胸のあたりまでをぼんやりと照らし出す。男子の制服より少し丈が短い水色のジャケットと、えんじ色のネクタイ。しかしその両方に、黒い液体が点々と飛び散っている。
──いや。
非常灯が暗いオレンジ色なので黒く見えるが……あれはもしかしたら、血だろうか。すみかは怪我をしているのか?
「わ、綿巻さん……大丈夫?」
掠れ声で呼びかけながら、ユウマはさらに近づいた。もう距離は十メートルを切っているが、なぜか妙にすみかを遠く感じる。
いつもなら一秒で終わるはずのクレストの起動シークエンスが、なぜか遅々として進まない。両目に嵌めたアイレンズがオンラインになれば、暗視補正機能を使えるのに。
ひっそりと立つすみかの顔は、まだ見えない。
しかし、右手に何かを握っているようだ。
中央が少しだけ曲がった、白くて太い棒のようなもの。その先端からも、黒い液体がぽた、ぽたと滴っている。
棒状の物体の、丸みを帯びたラインは工業製品とは思えない。まるで生き物の……人間の、腕のように見える。肩から引きちぎられた、子供の腕。
頭の芯がじーんと痺れるのを感じながら、ユウマはすみかの左腕を凝視した。アルテアを襲った事故で切断されてしまった、自分の腕を持っているのではないかと想像したのだ。しかし、すぐにほっと息を吐く。彼女の左腕はちゃんと存在している。
──でも、なら、あの腕は誰のものだろう。
「…………わた……まき、さん……?」
ユウマの口から出た声は、自分でも驚くほどか細く震えていた。
呼びかけに反応したのか、すみかがもう一歩前に出て、非常灯の光の中に入った。
深く俯けられた顔は、暗い影に沈んでよく見えない。しかし、何かが……どこかがおかしい。右手で摑んでいる誰かの腕や、制服に飛び散った血液らしき染み以外にも、いわく言いがたい異様さがすみかの立ち姿から伝わってくる。
その時、ようやくクレストが起動し、アイレンズの暗視補正機能が自動的にオンになった。非常灯の光が増幅され、視界が明るくなる。
まるで、それを感知したかのように、すみかが急激な動きで顔を上げた。
さらさらした前髪の下の、その顔は──。
悲鳴を上げるために、ユウマはひゅうっと音を立てて空気を吸い込んだ。
時間が細長く引き延ばされ、全てが静止した一瞬の中で、ユウマはようやく思い出していた。カリキュラスの中で目覚める前のことを。
世界初のフルダイブ型VRMMO‐RPG《アクチュアル・マジック》のテストプレイで、何が起きたのかを。