1 ②

 そう考えたユウマは、カプセルの左側に足を出すと、そこにそろえてあるスニーカーをいた。手すりをつかみ、勢いよく立ち上がったたん、軽いくらみにおそわれる。それが治まるまで待ち、カリキュラスの側面を取り囲む、はば六十センチほどのしんちように歩く。

 せんたんで立ち止まり、眼下の通路を見回すが、やはり人の姿はない。無意識のうちに足音を殺しながら、短い階段を下りる。

 ラバーシートがられた通路には、かいされたカリキュラスのものだろう、プラスチックのへんやら金属のパイプやらが点々と散らばっている。それらをけながら、すぐ左にあるカリキュラスの前まで歩く。

 カリキュラスは、使用者のプライバシーにはいりよするためか、ゆかめんから二メートルほどの高さに設置されているので、身長百五十二センチのユウマは伸びしても手が届かない。カプセル側面にある非常開放レバーを操作するためには、に上る必要がある。まずは妹ののカプセルを開けるべく、階段を上ろうとした──その時だった。

 ぴちゃっ、と湿しめのある音が聞こえて、ユウマは体を左に向けた。


「あ…………」


 のどから、かすれた声がれた。

 ゆるくカーブする通路のおく、十数メートルはなれたところに、だれかが立っている。

 うすぐらい非常灯の下ではほとんどシルエットしか見えないが、下半身はどうにか識別できる。すらりと細いあしを包むのはひざたけの黒ソックスだけで、くついていない。きやしやひざのすぐ上に、ゆきはなしようの制服である白いプリーツスカートのすそがある。上半身は暗がりにしずんでいてまったく見えない。

 しかしユウマは、ふんだけで相手の名前がわかった。

 六年一組、出席番号二十一番、綿ワタマキすみか。

 一組のみならず、五年生や四年生にも、すみかにまったく興味のない男子生徒はいるまい。わいくて、頭が良くて、やさしくて、大手出版社のファッション雑誌でモデルまでしているのだ。前に立つだけで頭が真っ白になってしまうすみかのぼうに、ほんの少しもチヤームされない小学生男子など小学生男子ではない。

 もっともユウマは、クラスの多くの男子のようにあわよくばかれに……などという大それた野望をいだいているわけではなく、精神的にも物理的にもきよを取ってひっそりとかんしようしているだけだ。少なくとも自分ではそう信じている。四年生の時、学校で《クレスト》のアイレンズを落として困っていた時に捜すのを手伝ってくれた時から特別な存在になってしまったことは確かだが、決してかたおもいをしているわけではない……はずだ。たぶん。

 ともあれ、黒のハイソックスを見ただけですみかであることを確信したユウマは、階段からはなれて通路の中央にもどった。


「わ……綿ワタマキさん……?」


 呼びかけたその時、プレイルームの照明だけでなく、左手のこうった《クレスト》の電源まで落ちていることに気付く。

 生体電位でどうするはくまく型デバイスであるクレストにバッテリー切れはないし、自分で電源をオフにした覚えもない。

 クレストの中央を右手の人差し指でなが押ししながら、ユウマは一歩すみかに近づいた。

 同時に、すみかも前に出た。

 黒いソックスが、ぴちゃっという音を立てた。


「…………?」


 目をらすと、すみかのあしもとに、黒っぽい液体が広がっているのに気付く。

 オイルか何かだろうか、と思ったが化学的な揮発しゆうは感じない。代わりに例のかなくささが再びただよってきて、思わず顔をゆがめる。

 ぴちゃり。

 すみかがもう一歩、足を前に進めた。

 てんじようから降り注ぐ非常灯の光が、胸のあたりまでをぼんやりと照らし出す。男子の制服より少したけが短い水色のジャケットと、えんじ色のネクタイ。しかしその両方に、黒い液体が点々と飛び散っている。

 ──いや。

 非常灯が暗いオレンジ色なので黒く見えるが……あれはもしかしたら、血だろうか。すみかはをしているのか?


「わ、綿ワタマキさん……だいじよう?」


 かすごえで呼びかけながら、ユウマはさらに近づいた。もうきよは十メートルを切っているが、なぜかみようにすみかを遠く感じる。

 いつもなら一秒で終わるはずのクレストの起動シークエンスが、なぜか遅々として進まない。両目にめたアイレンズがオンラインになれば、暗視補正機能を使えるのに。

 ひっそりと立つすみかの顔は、まだ見えない。

 しかし、右手に何かをにぎっているようだ。

 中央が少しだけ曲がった、白くて太い棒のようなもの。そのせんたんからも、黒い液体がぽた、ぽたとしたたっている。


 

 棒状の物体の、丸みを帯びたラインは工業製品とは思えない。まるで生き物の……人間の、うでのように見える。かたから引きちぎられた、子供のうで

 頭のしんがじーんとしびれるのを感じながら、ユウマはすみかのひだりうでぎようした。アルテアをおそった事故で切断されてしまった、自分のうでを持っているのではないかと想像したのだ。しかし、すぐにほっと息をく。彼女のひだりうではちゃんと存在している。

 ──でも、なら、あのうでだれのものだろう。


「…………わた……まき、さん……?」


 ユウマの口から出た声は、自分でもおどろくほどか細くふるえていた。

 呼びかけに反応したのか、すみかがもう一歩前に出て、非常灯の光の中に入った。

 深くうつむけられた顔は、暗いかげしずんでよく見えない。しかし、何かが……どこかがおかしい。右手でつかんでいるだれかのうでや、制服に飛び散った血液らしきみ以外にも、いわく言いがたい異様さがすみかの立ち姿から伝わってくる。

 その時、ようやくクレストが起動し、アイレンズの暗視補正機能が自動的にオンになった。非常灯の光がぞうふくされ、視界が明るくなる。

 まるで、それを感知したかのように、すみかが急激な動きで顔を上げた。

 さらさらしたまえがみの下の、その顔は──。

 悲鳴を上げるために、ユウマはひゅうっと音を立てて空気を吸い込んだ。

 時間が細長く引き延ばされ、全てが静止したいつしゆんの中で、ユウマはようやく思い出していた。カリキュラスの中で目覚める前のことを。

 世界初のフルダイブ型VRMMO‐RPG《アクチュアル・マジック》のテストプレイで、何が起きたのかを。

刊行シリーズ

デモンズ・クレスト3 魔人∽覚醒の書影
デモンズ・クレスト2 異界∽顕現の書影
デモンズ・クレスト1 現実∽侵食の書影