ピアノの白鍵は、純白ではなくかすかに黄みを帯びている。あれは骨の色なのだという。とある高名なピアニストがそう書いているのを読んだことがある。
骨をじかに指で叩いているのだから、弾けば自分も痛いしピアノも痛い。
彼はその後に、痛くないピアノに価値などない──と続けていて、つまり悪い意味の話ではなかったのだけれど、僕の記憶には痛いという言葉だけが突き刺さって残った。
だから、凜子のピアノをはじめて聴いたとき、まず思い出したのもその言葉だった。
*
ところで最初にはっきりさせておきたいのだけれど、僕が女装したのは純粋に演奏動画の再生数を稼ぐためであって特殊な趣味があるわけではない。断じてない。
こちとらアマチュア中学生である。ギターもキーボードも大した腕前ではなく、僕より巧いやつなんてネット上だけを見回してもごまんといる。おまけに僕が演っていたのはオリジナル曲ばかり、しかも歌が入っていない器楽オンリー、となると動画サイトで人気が取れる要素は皆無だった。再生数が四桁に達すれば万々歳、というレベルだ。
趣味でやってることだし、べつに再生数が多いのが良演奏ってわけでもないし……と自分を慰めつつも、内心けっこう悔しい思いがあった。
そんな僕を見透かしたのか、ある日いきなり姉がこんなことを言ってきた。
「女装して演れば食いつきいいんじゃないの? あんた細いし体毛薄いしムダ毛処理して首から下だけ映せばいけるっしょ。私の昔の制服貸してあげるよ」
「いやいや、そんな恥ずかしいことしたって大して数字伸びないって。ほら、僕が演ってんのはエレクトロニカとかアシッドハウスとかそもそもマニアックなやつだから」
「知らないって。みんなどうせ音楽とかどうでもいいんだよ、女子高生の太ももが見られれば大喜びなんだから」
おまえ視聴者をなんだと思ってんだよ?
とはいえ僕は姉に有形無形の借りがたくさんあったので、押し切られる形で一度だけ女装動画を録ってみることになった。
完成品を観た僕は啞然とするばかりだった。
「おー、いいできじゃん。女の子にしか見えないよ。さすが私のコーディネイト」
隣で鑑賞していた姉はご満悦の様子だった。
たしかに女にしか見えない。顔は画面外だし、歌のない曲だから声も入っていないし、体格的に男の特徴が出やすそうな肩と腰はそれぞれセーラー服の襟とギターのボディとでしっかり遮られているし。
複雑な気持ちでアップロードしてみたところ、即日で再生数が五桁を突破し、次の日には六桁をあっさりと達成していた。それ以前の僕の動画すべての再生数を合計しても一万そこそこだったのに、これまでの僕の努力はいったいなんだったんだ? しかも動画につけられた視聴者コメントは太ももと鎖骨に関するものばかりで曲や演奏への言及はほとんどなく、僕は真剣にこの国の音楽の将来に絶望しかけた。
そんな僕を見て姉は言う。
「なんでマコは嫌そうなの? 私はめっちゃ嬉しいけど? 絶賛の嵐じゃん。遺伝子はだいたい私と同じだし制服は私のだし実質的に私が絶賛されてるようなもんだね」
「じゃあもう姉貴が動画に出れば? 顔も出せばさらに絶賛じゃないの……」
くたびれきった僕はなげやりに提案してみたけれど、ばかじゃないの? と一蹴された。
さて、これで話は終わらなかった。
成功体験は麻薬である。
姉は制服を僕の部屋に残していったし、動画再生数は日がたってもまだじりじり伸び続けていた。チャンネル登録者数も百倍以上にふくれあがっていた。
期待されている。僕の動画を待ってくれている人が大勢いる。
さんざんためらったが、けっきょく僕はもう一度セーラー服に袖を通した。
うおおおおおおおおふともももももももも、というコメントで埋め尽くされた自分の二本目の女装動画をむなしくも清々しい気持ちで眺めていると、今さらやめるわけにはいかないのではという強迫感がこみ上げてきた。視聴者十万人だ。大多数が身体目当てだとしても、僕の音楽を聴きたがってくれている奇特な人々も女装する前よりはいくらか増えているだろう。
もう三本ほどアップロードしたあたりで、なんか露骨に性的なメッセージが僕のアカウントに何本も飛んでくるようになって身の危険を感じたので、男です、とプロフィール欄にでかでかと書くことにした。ついでにプレイヤーネームを『Musa男』に変えた。過剰なまでにむさ苦しく男性アピールをしつつギリシャ神話の音楽の女神であるムーサにも引っかけてあるという我ながら見事なネーミングだったが特に効果はないどころか「男だからなおよい」といったメッセージやコメントが乱れ飛ぶようになり世も末だなと思った。
視聴者がこうも急増すると、昔アップした曲がだんだん恥ずかしくなってきた。まだ経験が浅かった頃の作品なのであちこち拙い。あんな初心者丸出しの音源を十万人に聴かれるのかと思うといたたまれなくなり、僕は女装する以前の十数曲をすべて削除してしまった。
すると──当たり前だけれど──チャンネルの動画リストに並ぶのは制服&太もものサムネイルばかりになる。
これはこれで恥ずかしい。
嫌なら女装なんてやめればいいのにやめられなかったのは、現実を見せつけられるのが怖かったからだ。太もも抜きで僕の音楽を純粋に求めている人間の数なんて、千人にも満たない、という。
まあ、べつに本名を出しているわけでもないし、動画サイト以外の場所で音楽活動をするつもりもないし、僕がMusa男であるという秘密は姉以外だれも知りようがないので、気にしなくてもいいか……。そう自分に言い聞かせ、動画作成を続けた。
僕は甘く見ていた。世間の広さと狭さを、だ。
*
高校に入学してすぐのことだった。芸術選択授業で当然のごとく音楽を選択した僕は、音楽室でグランドピアノに生まれてはじめて触る機会を得た。小学校も中学校も音楽室が狭くてアップライトピアノしか置いていなかったのだ。
弾いてみたい衝動を抑えきれず、授業が終わって昼休みになり、クラスメイトたちがぞろぞろ音楽室から出ていってしまうのを待ってからそうっとピアノの椅子に座った。
あらためて目の前にすると、でかい楽器だ。