僕の持っている鍵盤楽器はKORGのKRONOS LSとYAMAHAのEOS B500、どちらも肩に担げるくらいのサイズで、弾いている最中も鍵盤の向こうに見えているのは部屋の壁だ。ところがグランドピアノは黒い光沢を持つ巨体が視界をふさいでしまう。その圧迫感にまずどきどきする。油断したら喰われてしまいそうだ。
しかも鍵盤がめちゃくちゃ重たい。すごいな、ピアニストってこんなのを平気で弾きこなしているのか。
なんの気なしに、弾いてみた。自分のオリジナル曲をワンフレーズ──
「……あれ? 村瀬君、それって」
いきなり後ろから声がかけられ、僕は跳ねるようにして立ち上がり、危うくピアノの蓋に指を挟みかけた。
振り向くと音楽教師の華園先生が立っていた。
「あ、す、すみません、勝手に触って」
「いやべつにそれはいいんだけど、今の曲って」
僕はぎくりとして、そのまま後ずさって音楽室から逃げだそうとした。華園先生が僕のブレザーの袖をつかんで引き留める。
「ムサオのロココ調スラッシュの中間部だよね?」
ピアノの下に潜り込んで頭を抱えたくなった。
知られてた──。
待て、落ち着け。僕の正体が露見したわけじゃない。Musa男を知っていた、ってだけだ。Musa男がネットミュージシャンとしてそれだけ有名になったってことだ。だから偶然こんなところに視聴者がいたっておかしくないし、僕も視聴者のふりをすればいいだけだ。
「え、ええ、先生も知ってたんですか。動画で見たんですけど、けっこういい曲ですよね」
精一杯さりげなく言った。ところが先生はさらっと言う。
「きみがムサオでしょ?」
僕の人生は終わった。
「……は? いや、あの、ええと、ネットで観ただけで」
僕は往生際悪く言い訳する。
「あたしもあそこのピアノ耳コピしようとしたけどなんかうまくいかなくてさ。でもさっきのは完璧だったし。よく見ると体つきもムサオそっくりだしなによりこの鎖骨のラインが」
「なぞらないでくださいっ」
いきなりワイシャツの襟首に指を差し込んでくるものだから僕は後ずさって黒板に後頭部をぶつけてしまった。
「いやあ、ほんとに男の子だったんだねえムサオ。まさかあたしの教え子とはね」
華園先生は僕の全身をしげしげと観察する。
こういう状況下でしらを切り続けられるほど根性が据わっていないので、僕はけっきょく認めざるを得なかった。
「あ、あの、先生、このことは黙っててくれますよね……」
「あの動画が学校に広まったら大人気だねえムサオ。文化祭で女装コンテストもあるし期待の星だよ」
「お、お、お願いですから」
「あたしも鬼じゃないから秘密にしておいてあげてもいい」
「ありがとうございますっ」
「でも条件がある」
残念ながら華園先生は鬼だった。
黙っておく代わりに僕に課されたのは、授業中のピアノ伴奏をすべて担当すること。
一年生の音楽授業ではまず校歌を習うのだけれど、この伴奏の楽譜がすさまじい音数で五線譜がほとんど真っ黒。
「なんですかこのシーケンサ憶えたての中学生が作ったみたいな楽譜」三年前の僕かよ。
「何年か前に校歌を混声四部合唱にアレンジしようっていう話になってね、ここの卒業生で音大に通っているやつに安いギャラで発注したところ、嫌がらせのようなピアノ譜がついてきたというわけなんだよ」
「ひでえ話もあったもんですね……。だれなんですかそいつ。文句言ってやりたい」
「華園美沙緒っていう女なんだけどね」
「あんたかよ! ええとその」
「文句があるそうだから聞いてあげるよ」
「色々すみません、はい、文句などめっそうもない」
「まあ実際作ったあたしもこんな面倒な伴奏弾きたくないからね。まさか母校にしか就職口が見つからないとは思ってなくてさ。てことで練習しといて」
ほんとうにひでえ先生なのである。その後も『河口』だの『信じる』だのといった、伴奏がクソ難しい合唱曲ばっかりチョイスしてくるので僕は泣きそうになる。
それに、グランドピアノの鍵盤の重さに慣れなくてはいけなかったので、家での練習だけでは足りず、放課後は音楽室に日参することになった。
「たった一週間でわりと弾けるようになってるじゃないムサオ。さすが」
脅されて押しつけられた仕事をほめられてもびたいち嬉しくない。
「あと先生、ムサオって呼ぶのやめてくれませんか。他の人がいるところでもうっかりその名前で呼ばれてバレたりしそうで……」
「村瀬真琴を略してムサオじゃないの?」
「『む』しか合ってねーでしょうが!」
「それでね、ムラオサ」
「どこの村の村長だよ? 人の話聞かない村ですかっ?」
「来週の授業でハイドンの四季をアカペラでやろうと思ってるんだけどね」と先生は人の話を聞かずに楽譜を取り出してきて言った。「四部合唱に編曲しといて」
このまま要求がどんどんエスカレートしていくのではないか? 高校卒業する頃にはオペラを一本書けとか気軽に言われるようになってるのでは? と僕は青ざめた。
*
「村瀬さあ、放課後いつも音楽室だよな」
「華ちゃん先生がつきっきりでピアノ教えてくれてんだろ? いいなあ」
「並んで密着して二人で弾いたりしてんの?」
クラスメイト男子にはめちゃくちゃ羨まれた。
華園先生は新任四年目の若さで名前も見た目も性格もとにかく華があるため全校的にたいへんな人気教師であり、こうして入学直後の新入生たちのハートもさっそく鷲づかみにしているわけだが、心ではなく首根っこを鷲づかみにされている僕としては「じゃあおまえら代わってくれよ」と言いたくてしょうがなかった。
「べつに教えてもらってるわけじゃないよ」と僕はおおむね正直に言った。「自主練してるだけ。その間先生は隣の準備室で他の仕事してる」
実際は仕事ではなく漫画を読んでいることがほとんどなのだけれど、そこは一応ごまかしておいた。
「偶数組の伴奏担当とも一緒に練習してんの?」
ふとクラスメイトの一人が言った。
「あ、すげえ可愛いんだよな。俺も話だけ聞いた」
「何組の女子?」
「4組だっけ」
「音楽選択恵まれすぎじゃね? 美術なんてやめときゃよかったわ」
食いつきっぷりが加速するけれど、僕はその話題に出された人物を知らなかった。
「えっと、偶数組にも僕みたいに伴奏押しつけられてるかわいそうな子がいるわけ?」
「そうそう」
「押しつけられてるってなんだ。もっと喜べよ」
「まさか華ちゃん先生にもっと別のものを押しつけられてるんじゃねえだろうな」
「てめえふざけんなよ代われ!」
話がわけのわからない逸れ方をしかけたが、情報を総合するとこういうことだった。