「やってるのは事実ですけどやりたくてやってるわけではなく見てもらいたいからで、あ、あの、見てもらいたいってのは動画をって意味で」
「だから女装動画を見てもらいたくて女装してんでしょ」
「ち、ちがッ、……ちがわなくもなくもないですけどっ、そういう動機じゃなく純粋に」
「純粋な自己顕示欲のために女装してんだよね?」
「言い方ッ」
これ以上この方向で話を続けていてもいじくられるだけなので僕はあきらめた。
「だいたい学校でその話をしないでくださいよ、バラさないからっていう約束で授業を手伝ってるんじゃないですか。ムサオって呼ぶのもやめてくれって何度も」
「えええー」
先生は不満そうに口を尖らせた。
「ムサオって呼びやすくていいのに。じゃあ他の活用形にする?」
「なんですか活用形って」
「虫けら」
「五段活用かよ。しかもなんのひねりもなく悪口じゃないですか」
「むすっとしてる」
「当たり前だろ! だれのせいですか!」
「無節操」
「ちょっ、なにが? これまで十五年間慎み深く生きてきましたよ!」
「ムソルグスキー」
「だれが禿山の一夜だ! うちの家系はみんなふっさふさだよッ」
「あれえ、ムソルグスキーは悪口のつもりで言ったんじゃないんだけど、村瀬くんちょっとひどすぎない?」
「え、あっ……そ、そうですよね。失礼な発言でした。ムソルグスキーに謝ります」
「あたしは『一生女に縁がない上にアル中』って意味で言ったんだけど」
「ど直球で悪口じゃねえか! あんたがムソルグスキーに謝れよ!」
「どう? あたしの言いっぷりに比べれば凜子ちゃんの口の悪さなんてなんともないでしょ。だから仲良くしてあげてね」
「どんな話のつなぎ方ですか」
華園先生に比べればたいがいの人間がましに見えるだろうに。
「だいたい、仲良くったって、とくに接点ないですよ。クラスはちがうし音楽の授業だってべつべつなんだし」
「あたしっていう接点があるでしょ」と先生は自分の胸を指さした。「弱みを握られてこき使われてる者どうし共感し合えるんじゃない?」
「こき使ってる当人がよくもまあ平然とそんなこと言えるもんですね……」
あなたたちのためを思って言ってるんだよ、みたいな顔されるの真剣に腹立たしいんで自重していただけませんかね?
とはいえ、僕としても凜子とはもう一度だけ接点を持ちたかった。
譜面台にだらしなく広げられた楽譜を見やる。
あれだけのピアニストに、こんな虚飾だらけの譜面を押しつけておしまいにしたくなかった。村瀬真琴がこういうクソ編曲しかできないやつだと思われたままにしたくなかったのだ。
*
徹夜で伴奏譜を独奏用に書き直すと、翌日、放課後を待ってすぐに音楽室に足を向けた。華園先生に頼んで、凜子に放課後また来てくれるように伝えておいてもらったのだ。
けれど、どうやら呼び出し人が僕であることは伝えられていなかったらしく、音楽室に入ってきた凜子は待っていた僕を見るとかすかに目を見張り、それからため息をついた。
「あなたの用事だったの? 今日はなに? 先生だけじゃ飽き足らずわたしにもいやらしく密着して連弾したいという話ならお断りだけれど、あなたは生まれてこのかた女性にまったく縁がないみじめな人生を送ってきたという話だし、これ以上性犯罪を重ねられても困るし、ニモのぬいぐるみでよければ貸してもいい」
どこからつっこんでいいのかわからん。
「……なんでニモなの?」
「訊くのはそこなの? 他は認めたってこと?」
「ちげーわ! 当たり障りのなさそうなとこから訊いてんの!」
「ニモはクマノミでしょ。クマノミは雄が雌に性転換するらしいから、女装して自分を慰めているあなたにはぴったりだと思って」
「当たり障りしかなかった! え、ちょ、ちょっと待って、なんで知ってんの?」
背中を冷や汗が伝い落ちた。まさか華園先生か? あの女、黙ってるって約束しといてさっそくぺらぺら喋りやがったのかッ?
でも凜子は肩をすくめて言う。
「Musa男は一時期ピアノコンクール界隈で有名だったから。どう見ても中高生くらいなのにブーレーズとかリゲティとかマニアックな作曲家をサンプリングした変態的なオリジナル曲なんて発表してて、あれはきっとコンクール常連のだれかだろうって言われてて。とはいってもピアノはものすごく下手くそだったけれどきっと正体を隠すためにわざと下手に弾いてるんだろうって」
「……そりゃまた身に余る評価ありがとうございます……」
ほんとうに下手なだけなんですけど。
「けっきょくわたしの周囲でもMusa男がだれなのかは謎のままだったのだけれど、昨日あの楽譜を見て確信した。アレンジの癖がMusa男そっくり。動画を見直してみたら体つきもあなたに間違いなかったし」
もういやだ。なんなんだよ音楽業界の狭さ……。
「性癖も音楽の趣味も変態なんて生きていてつらくないの? マイナスとマイナスを掛け合わせるとプラスになるとかそういうこと?」
「マイナスって言うな! 好きでやってんだよ! あ、いやその好きってのは女装じゃなくて音楽の方の話だからそういう顔すんのやめてください」
「それで今日わたしを呼び出したのはまた変態趣味を強要しようというわけ? まさかわたしにも女装させようっていうんじゃ」
「おまえはもともと女だろうが! ああもう、話がちっとも進まないよ!」
楽譜を差し出すと、凜子は怪訝そうに受け取る。
「昨日のカルミナ・ブラーナ? わざわざ独奏用に書き直したの? べつにそんなことしてもらわなくても、わたしはてきとうに自分でアレンジして弾けるし」
「てきとうにやってもらいたくないから書き直したんだよ」
僕は遮って言った。凜子は目をしばたたき、それからもう一度譜面に目を落とした。視線が音符を走査するのがわかった。
やがて彼女はピアノの椅子に座ると、譜面台に僕の楽譜を広げて置いた。
鍵盤の骨の色に、冷え冷えと白く細い指先が交錯する。
なぜこうも僕の奏でるピアノとちがうのだろう、と思う。鍵盤を叩く前からわかる。特別な空気が張り詰めている。音楽にとって休符が音符と同等に重要なのだとしたら、曲が始まる前の帯電した静寂もまた音楽の一部だ。
凜子の指が鍵盤に触れる。