なんて静かな強打だろう。これこそが『カルミナ・ブラーナ』の第一音に必要な、矛盾に充ち満ちたエネルギーだ。続くオーケストラと合唱の不協和なせめぎ合い。音と音がぶつかり合う間から熱狂が泡になってあふれだし、弾けて大気を焦がす。ピアノという楽器にこれほどの表現力が詰め込まれていたことを僕はそのときまで知らなかった。黒光りする巨体にもなお余りあるイメージの奔流が、はち切れそうなほど昂ぶって漏れ出てきそうだ。いったい何百人、何千人、何万人分の骨がこの楽器を組み上げるためにかき集められたのだろう。供犠となった死者たちの痛ましい歌声が吹きすさぶ。
第二曲の終結までの間、僕はほとんど呼吸することも許されないまま凜子のピアノに巻き込まれ、ただ聴き入っていた。最後の和音の残響を圧し潰すようにして、ごとり、と重たい軋みが響いた。まるで絞首台の床が開くときのような音に聞こえたけれど、現実に戻ってよく見てみればどうやら凜子がピアノの鍵盤のふたを閉めた音のようだった。
彼女は楽譜を重ねて端をそろえ、僕を見て言った。
「……じゃあ、これはもらっていっていいの?」
僕はまぶたを何度も強く閉じては開いて、違和感の残る現実に意識をなじませようとした。ピアノの余韻がまだ金属の削り屑のようにあたりに漂っていて肌をちくちく刺激した。
「……あ、ああ、うん。持ってっていいけど」
間抜けな返事だけでは気まずいままなので、なにか付け加えなければ、と思った僕は思いついたことをそのまま口にした。
「昨日のよりは簡単な譜面にしたつもりだけど、……憶えられなかった?」
「なに言ってるの?」凜子は非難がましく眉を寄せて言った。「ちゃんとした曲なら、暗譜してそれでおしまいじゃないでしょう?」
彼女の言葉の意味を僕が理解できたのは、彼女が出ていってドアが閉まった後だった。だから一言も返せなかった。彼女は今度こそ僕の編曲をちゃんとした曲だと認めてくれたのだ。楽譜を持ち帰ってもう一度読み込む価値はあると言ってくれたのだ。
安堵してピアノの椅子に腰を下ろす。
凜子の体温がまだ残っている気がする。それからピアノの余響も。
ふたを開き、鍵盤に指をそっと置いてみる。でも、あんな演奏を聴かされた後ではなにも弾く気になれない。
あれほどのピアニストが僕の編曲を評価してくれたのだ。今はそれだけを素直に喜んでおこう。どうせ僕もそのうち授業でこの伴奏を弾かされるわけだし、きっと華園先生は凜子の演奏と比べて容赦なくこき下ろすだろうけれど、今は考えないようにしよう。
それから、ふと思う。
冴島凜子は、間違いなく一流だ。僕程度の人間でもわかる。彼女の演奏は技術の高さだけではない、なにか特別なものが感じられる。こんな東京の片隅のありふれた普通高校の音楽室で浪費されていくべき音楽じゃない。
なにがあったのだろう。
どうして彼女はこんな場所に囚われているのだろう?