「プロを目指そうとかそんなレベルじゃない。わたしよりも達者に弾ける人間はごろごろいるから」
彼女が音楽室を出ていってしまった後も、僕はピアノの巨体の側面をじっと見つめながら思惟に沈んでいた。黒く淀んだ鏡面に自分の顔が歪んで映り込んでいた。
勘違いか? 無知ゆえの過大評価なのか?
曲がった黒い鏡の中の自分に問いかける。
いや、と圧し潰された顔の僕が答える。
僕はたしかにクラシックピアノにはさして詳しくない。でも、自分の耳に、心の震えに、噓はつけない。あのピアノが特別じゃないというなら僕の頭蓋骨に詰まっているものはマヨネーズかなにかだ。
あれをもっと聴きたい。
*
動画作成者としてある程度名が売れてくると、横のつながりもできる。
僕はMusa男としてのSNSのアカウントを持っており、動画サイトを通じて知り合った同業者たちが何人もフォロワーにいた。彼ら彼女らとはリアルでのつきあいは一切ないし顔も知らないことがほとんどだけれど、お互いに音楽歴と音楽の趣味だけはよく知っていた。
その中の一人、《グレ子》さんという人は現役の音大生で、アップロードする曲のアレンジもクラシック色が強かった。たぶんあちらの世界に詳しいのではないかと思い、彼女にSNSのダイレクトメッセージで訊いてみる。
『冴島凜子って知ってますか? ちょっと前まで中学生のピアノコンクールでけっこう良いところまでいってたやつらしいんですけど』
すぐに返信があった。
『知ってるよ。コンクール荒らしで有名だったから。すっごい遠くの地方の大会にも遠征したりして、どこでも出るたびに一位とるから嫌われてたよ』
それって嫌われるものなのか。コンクール荒らしっていったって、べつに暴力的な意味で荒らすわけじゃなくて出場しまくって優勝しまくるだけなのだから正当な実力の結果だろうに。ただのやっかみじゃないか。それでクラシック音楽の世界がいやになってピアニストの夢をあきらめたんだろうか。
『冴島凜子がどうしたの?』とグレ子さんは訊いてきた。
一瞬、正直に打ち明けてしまおうかと思った。同じ高校に通ってるんですよ、と。面と向かっての会話だったら言ってしまっていたかもしれない。文章でのやりとりだったので思いとどまることができた。個人特定につながる情報はネット上ではなるべくやりとりしないように心がけないと。
『コンクールの動画たまたま見つけて気に入ったんですけど今どうしてるのかなって思って』
僕はそう返した。噓ではないが完全に正直でもないのでちょっと申し訳ない。
『ぱったり名前聞かなくなったね。ピアノやめたのかも』
グレ子さんはそう書き送ってきた。
『たしか何回か一位を逃したんだよね。スランプかな。それでやめちゃったのかも。めんどくさい世界だからね、全部投げ出しちゃいたい気持ちになることはあるよ。私も経験ある』
めんどくさい世界。
うん、まあ、めんどくさいのだろうな。ピアノに人生のほとんどを捧げてきたやつが何十人も集まって、よくわからん基準で順位付けされるのだ。親や教師の期待が指一本一本にまでみっしりからみついていて、ワンフレーズ弾くだけでくたびれてしまうだろう。
どうもありがとうございました、とグレ子さんに返信してスマホを伏せて置き、ベッドにごろりと仰向けになる。
そのめんどくさい世界で勝ち続けてきた彼女。
積み重ねられた順位の《1》は細い木の幹のように虚空へ向かって伸び続け、けれどあるときぽっきり折れ、そのまま朽ちてしまった──のだろうか。
もったいないな、と正直思う。
要らないならその才能を僕にくれよ。そしたら女装に頼らなくても再生数5000くらいは稼げるんじゃないか。
ブックマークをクリックし、動画サイトの冴島凜子コンクール動画をまた再生する。動画投稿者は他の情報を特に記載していないので、この演奏が優勝したときのものなのか、それともグレ子さんが言っていた一位を逃したときのものなのかはわからない。でも中学生の演奏なのだ。同年代でこれよりすごいピアノを弾けるやつが、二人も三人もいるなんて信じられない。日本各地のコンクールを荒らし回ったという話だから、同等以上の実力の持ち主とぶつかる可能性もそれだけ大きくなったというだけのことなのだろうか。
でも。
音楽に順位をつけるなんて、そもそもが馬鹿馬鹿しい。色んな人が言っているし僕も心底同意するけれど、音楽には二種類しかないからだ。もう一度聴きたい音楽と、そうでない音楽、それだけだ。
そうして僕は起き上がり、PCの前に座ってブラウザを開く。関連動画リンクをたどり、また凜子のピアノを漁り始める。
その夜に新しく見つけた中でいちばんのお気に入りは、シューベルトのピアノソナタ第二十一番だった。
僕はそれまでシューベルトという作曲家とちゃんと向き合ったことがなかった。小さい頃にちょろっと耳にした未完成交響曲は良さが全然わからなかったし、音楽の授業で出てくる『野ばら』とか『魔王』といった有名な歌曲もさっぱり興味が持てないままだった。
だから凜子の弾く二十一番の第一楽章は衝撃的だった。
微笑みを絶やさない穏やかな青年の、けれど病んだ弱々しい心臓が途切れ途切れに脈動を続けているような、そして時折の重たい痛みに声を殺して耐えているような、そんな切々とした曲だ。どう考えてもコンクール向きの曲じゃない。テクニックを披露するためのわかりやすい聴かせどころが全然ない。しかも、たぶん地味に難しい。おまけに長い。第一楽章だけで二十分くらいある。よくこんな曲を選んだな。
関連動画に、同じコンクールのものらしき別の女の子が弾いているモーツァルトの第八番があり、こちらの動画説明に「優勝した」と書いてあった。
すると凜子のシューベルトは負けたわけだ。
何度聴き比べてみても、敗因はわからなかった。凜子の方が百倍良い。選曲が中学生らしくないから? 演奏が情熱的すぎて聴いてて疲れるから? どちらも、むしろ美点だ。
そういえば、と僕は鞄から楽譜を取り出す。
華園先生に押しつけられた次の合唱曲、たしかシューベルトだったっけ。
『サルヴェ・レジーナ』。
聖母マリアを讃える四部合唱だ。例によって、ピアノ伴奏をつけるようにと言われている。この曲、ピアノソナタ第二十一番と同じく変ロ長調じゃないか。これなら、第一楽章のモルト・モデラートの穏やかな主題を伴奏にそのまま組み込めそうだ。
シーケンサに打ち込んで鳴らしてみる。もうこの時点で震えるほど美しい。自分が天才だと勘違いしそうになるが天才なのは作曲者だ。ピアノソナタ第二十一番だけではなく、『サルヴェ・レジーナ』の方も掛け値無しの名曲だった。シューベルト先生ほんとうに今までごめんなさい。これからは正座して聴きます。