徹夜で編曲した伴奏譜をプリンタで出力した僕は、ぼんやりしたまぶたをこすりながら学校に向かった。
*
その伴奏譜を目にした凜子の反応たるや、すさまじかった。いきなり両手をピアノの鍵盤に叩きつけたのだ。世界中のマグカップがいっぺんに砕けたみたいな、不協和でどこか滑稽な音がふたりきりの音楽室に響いた。
「……Dマイナー11thオンA」と僕はおそるおそる言った。
「和音当てクイズなんてしてない」凜子はにべもなかった。
「……ええと、なんでそんなに怒ってんの」
「怒ってるように見えるの?」
「ううん、まあ」
凜子はいつもの、ちょっと微熱を帯びた無表情だ。出てくる言葉が毒気どっぷりなのも毎度のことだ。怒ってなくてもこの調子だろう。
でも──やっぱりそのときは怒って見えた。
「怒ってないけれど」と凜子は唇を尖らせた。「あなたが死ねばいいのにとは思ってる」
「怒ってんじゃん……」
「シューベルトの四倍くらい長生きしてだれも面会に来ない老人ホームの片隅で毎日毎日シーケンサにマイナーコードだけでできた曲を打ち込みながら孤独に暮らして十一月のよく晴れた朝にふと我に返ったみたいな顔で心不全起こして死ねばいいと思ってる」
微妙に幸せそうな死に様だったので反撃の言葉がすぐに出てこなかった。ちなみにシューベルトは三十一歳で死んでいる。凜子は糾弾を続けた。
「それで、どういうつもりで伴奏にシューベルトのソナタなんて使ったわけ」
「あー、わかる? やっぱり」
「当たり前でしょう。二十一番はもう何百時間かけたかわからないくらい苦労した曲だし」
「そりゃそうか。コンクール用の勝負曲だもんな」
凜子は眉をつり上げた。
「コンクールの曲だって知ってて使ったわけ? なんで知ってるの?」
「動画で観たんだよ。だれかがネットにあげてて」
ふうぅ、とわざとらしい彼女のため息が鍵盤の上を掃いた。
「みんな消えちゃえばいいのに」
動画について言ったのだろうけれど、もっと広い意味のように聞こえて僕はぞわりとさせられた。
「いや、でも、動画のおかげで僕もシューベルトの良さがわかったし。あんなすごい曲書いてたなんて知らなかった。ありがとう」
「あなたのために弾いたんじゃないし動画をわたしがあげたわけでもない」
「そりゃそうなんだけど……」
「あなたのためならベートーヴェンの十二番とかショパンの二番を弾いてあげる」
どちらも葬送行進曲つきのピアノソナタである。ありがたくて泣けてくる。
どうせとっくに疎ましく思われているのだ。もうこの際だから自分のもやもやを解消するためにもストレートに訊いてしまおう。
「なんであんだけ弾けるのにピアノやめちゃったの?」
彼女は目をしばたたき、それからまつげを伏せて鍵盤の蓋を閉じた。
「やめてないでしょ」
自分の指先を見つめて素っ気なく言う。
「ああ、うん」僕はしばらく言葉を口の中で転がした。「つまり、コンクールに出たりとかそういう本気のピアノを──って意味で」
「そんなにコンクールが大事なの? うちの親みたいなことを、なんで赤の他人のあなたにも言われなきゃいけないの」
視線も返答も痛かった。親にも言われてたのか。そりゃそうか。僕は首をすくめる。
なんで赤の他人に──。
まったくの正論だった。だいたい僕だって音楽に順位付けなんて馬鹿馬鹿しいとか考えてたじゃないか。コンクールなんてどうでもいいはずじゃなかったのか。
ちら、と目を上げる。
ピアノの黒く澄み渡った蓋の上に置かれた、凜子の指先が目に入る。
もったいない。理由はそれだけだ。翼があるなら飛ぶべきだ。地面に這いつくばって空を憧れの目で仰ぐことしかできない人間にとって、それは自然な感情だろう?
凜子はぽつりと言う。
「前にも言ったでしょ。村瀬くんはピアノに詳しくないから買いかぶってるだけ。わたしのピアノは大したものじゃない。よく指が回ってミスが少ないだけ。せいぜい都道府県主催レベルのコンクールで優勝できるかできないかくらいの」
彼女は僕の方を見ていなかった。足下にある弱音ペダルに向かって語り続けていた。だから僕が首を振って否定してもなんの意味もなかった。
「よく言われた。わたしの演奏には優雅さがないんだって。品がない。音色が汚い。雑音が多い。響きが貧相。……わたしも自分でそう思う」
「……音色?」
僕は思わず口を挟んでいた。
「ピアノの音色? ……それって、あの、ピアノ次第じゃないの? 弾いてる人は関係ないんじゃ……だって鍵盤叩けば音が出るんだし……雑音ってどういうこと?」
ようやく凜子は顔を上げた。その口元に浮かんだ笑みはひどく酷薄そうに見えて僕はぞっとした。
それから彼女は立ち上がり、白々しい虚空に向かってつぶやく。
「べつにいいじゃない。叩けば音が出る程度の演奏でも、合唱の伴奏には困らないんだから。それ以上わたしになにをさせたいわけ?」
凜子が音楽室を出ていってしまった後も、僕はピアノ前の机にべったりと突っ伏し、彼女の言葉を反芻していた。
なにをさせたいって?
きまってるだろ。もっと弾いてほしいんだよ。聴かせてほしいんだ。
だいたい、さっき自分で「やめてない」って言ってたよな? あそこでさらに訊いてやればよかった。なんでやめてないんだ? って。技術も全然落ちてないってことは未だに家で毎日かなり練習してるってことだろ? 厳しいコンクール巡りからドロップアウトしたのにどうしてまだ続けてるんだ?
僕は身を起こし、弱々しく手を伸ばし、グランドピアノの側面をなでる。黒の中に映り込んだ僕の姿はゆるやかな曲面によってみじめに細く圧し潰されている。
この中に、まだ心を置き忘れているからじゃないのか。
十五分後くらいに音楽室にやってきた華園先生に、訊いてみた。
ピアノの音色って弾く人によって変わるのか、と。
「およ。ムサオはあんだけクラシックの曲を引用しまくってるのに、ピアノには全然詳しくないんだね」
「ええ、まあ……ちょっと聴いてかっこいいなって思ったのをパクってるだけで」
あと、クラシックなら著作権的にどうこうっていう面倒がないのも理由のひとつだった。正式な音楽教育を受けた経験もない、つまみ食いばかりの半端者なのだ。
「ピアノだって、高校に入るまではエレキしか弾いたことなかったし。あれはほら、だれがどう鍵盤を叩いても音色は変わらないじゃないですか。本物のピアノだとちがうんでしょうか」
「電子ピアノも弾き方で音色変えられるよ?」
先生が言うので僕はびっくりする。