楽園ノイズ

2 十一月のよく晴れた朝に ③

 てつで編曲したばんそうをプリンタで出力したぼくは、ぼんやりしたまぶたをこすりながら学校に向かった。



 そのばんそうを目にしたりんの反応たるや、すさまじかった。いきなり両手をピアノのけんばんたたきつけたのだ。世界中のマグカップがいっぺんにくだけたみたいな、不協和でどこかこつけいな音がふたりきりの音楽室にひびいた。


「……Dマイナー11thオンA」とぼくはおそるおそる言った。


「和音当てクイズなんてしてない」りんはにべもなかった。


「……ええと、なんでそんなにおこってんの」

おこってるように見えるの?」

「ううん、まあ」


 りんはいつもの、ちょっとねつを帯びた無表情だ。出てくる言葉が毒気どっぷりなのも毎度のことだ。おこってなくてもこの調子だろう。

 でも──やっぱりそのときはおこって見えた。


おこってないけれど」とりんくちびるとがらせた。「あなたが死ねばいいのにとは思ってる」

おこってんじゃん……」

「シューベルトの四倍くらい長生きしてだれも面会に来ない老人ホームのかたすみで毎日毎日シーケンサにマイナーコードだけでできた曲をみながらどくに暮らして十一月のよく晴れた朝にふと我に返ったみたいな顔で心不全起こして死ねばいいと思ってる」


 みように幸せそうな死に様だったのではんげきの言葉がすぐに出てこなかった。ちなみにシューベルトは三十一さいで死んでいる。りんきゆうだんを続けた。


「それで、どういうつもりでばんそうにシューベルトのソナタなんて使ったわけ」

「あー、わかる? やっぱり」

「当たり前でしょう。二十一番はもう何百時間かけたかわからないくらい苦労した曲だし」

「そりゃそうか。コンクール用の勝負曲だもんな」


 りんまゆをつり上げた。


「コンクールの曲だって知ってて使ったわけ? なんで知ってるの?」

「動画でたんだよ。だれかがネットにあげてて」


 ふうぅ、とわざとらしいかのじよのため息がけんばんの上をいた。


「みんな消えちゃえばいいのに」


 動画について言ったのだろうけれど、もっと広い意味のように聞こえてぼくはぞわりとさせられた。


「いや、でも、動画のおかげでぼくもシューベルトの良さがわかったし。あんなすごい曲書いてたなんて知らなかった。ありがとう」

「あなたのためにいたんじゃないし動画をわたしがあげたわけでもない」

「そりゃそうなんだけど……」

「あなたのためならベートーヴェンの十二番とかショパンの二番をいてあげる」


 どちらもそうそう行進曲つきのピアノソナタである。ありがたくて泣けてくる。

 どうせとっくにうとましく思われているのだ。もうこの際だから自分のもやもやを解消するためにもストレートにいてしまおう。


「なんであんだけけるのにピアノやめちゃったの?」


 かのじよは目をしばたたき、それからまつげをせてけんばんふたを閉じた。


「やめてないでしょ」


 自分の指先を見つめて素っ気なく言う。


「ああ、うん」ぼくはしばらく言葉を口の中で転がした。「つまり、コンクールに出たりとかそういう本気のピアノを──って意味で」

「そんなにコンクールが大事なの? うちの親みたいなことを、なんで赤の他人のあなたにも言われなきゃいけないの」


 視線も返答も痛かった。親にも言われてたのか。そりゃそうか。ぼくは首をすくめる。

 なんで赤の他人に──。

 まったくの正論だった。だいたいぼくだって音楽に順位付けなんて鹿鹿しいとか考えてたじゃないか。コンクールなんてどうでもいいはずじゃなかったのか。

 ちら、と目を上げる。

 ピアノの黒くわたったふたの上に置かれた、りんの指先が目に入る。

 もったいない。理由はそれだけだ。つばさがあるなら飛ぶべきだ。地面にいつくばって空をあこがれの目であおぐことしかできない人間にとって、それは自然な感情だろう?

 りんはぽつりと言う。


「前にも言ったでしょ。むらくんはピアノにくわしくないから買いかぶってるだけ。わたしのピアノは大したものじゃない。よく指が回ってミスが少ないだけ。せいぜい都道府県しゆさいレベルのコンクールで優勝できるかできないかくらいの」


 かのじよぼくの方を見ていなかった。あしもとにある弱音ペダルに向かって語り続けていた。だからぼくが首をって否定してもなんの意味もなかった。


「よく言われた。わたしの演奏にはゆうさがないんだって。品がない。音色がきたない。雑音が多い。ひびきがひんそう。……わたしも自分でそう思う」

「……音色?」


 ぼくは思わず口をはさんでいた。


「ピアノの音色? ……それって、あの、ピアノだいじゃないの? いてる人は関係ないんじゃ……だってけんばんたたけば音が出るんだし……雑音ってどういうこと?」


 ようやくりんは顔を上げた。その口元にかんだみはひどくこくはくそうに見えてぼくはぞっとした。

 それからかのじよは立ち上がり、白々しいくうに向かってつぶやく。


「べつにいいじゃない。たたけば音が出る程度の演奏でも、合唱のばんそうには困らないんだから。それ以上わたしになにをさせたいわけ?」


 りんが音楽室を出ていってしまった後も、ぼくはピアノ前の机にべったりとし、かのじよの言葉をはんすうしていた。

 なにをさせたいって?

 きまってるだろ。もっといてほしいんだよ。かせてほしいんだ。

 だいたい、さっき自分で「やめてない」って言ってたよな? あそこでさらにいてやればよかった。なんでやめてないんだ? って。技術も全然落ちてないってことはいまだに家で毎日かなり練習してるってことだろ? 厳しいコンクールめぐりからドロップアウトしたのにどうしてまだ続けてるんだ?

 ぼくは身を起こし、弱々しく手をばし、グランドピアノの側面をなでる。黒の中に映りんだぼくの姿はゆるやかな曲面によってみじめに細くつぶされている。

 この中に、まだ心を置き忘れているからじゃないのか。



 十五分後くらいに音楽室にやってきたはなぞの先生に、いてみた。

 ピアノの音色ってく人によって変わるのか、と。


「およ。ムサオはあんだけクラシックの曲を引用しまくってるのに、ピアノには全然くわしくないんだね」

「ええ、まあ……ちょっといてかっこいいなって思ったのをパクってるだけで」


 あと、クラシックなら著作権的にどうこうっていうめんどうがないのも理由のひとつだった。正式な音楽教育を受けた経験もない、つまみ食いばかりのはん者なのだ。


「ピアノだって、高校に入るまではエレキしかいたことなかったし。あれはほら、だれがどうけんばんたたいても音色は変わらないじゃないですか。本物のピアノだとちがうんでしょうか」

「電子ピアノもき方で音色変えられるよ?」


 先生が言うのでぼくはびっくりする。

刊行シリーズ

楽園ノイズ7の書影
楽園ノイズ6の書影
楽園ノイズ5の書影
楽園ノイズ4の書影
楽園ノイズ3の書影
楽園ノイズ2の書影
楽園ノイズの書影