楽園ノイズ

2 十一月のよく晴れた朝に ④

 音楽準備室にある電子ピアノで、実演してくれた。スカルラッティのソナタを、最初はやさしくきらきらしたき方で、次はやたらとこうしつひびきで。


「ね?」と先生はぼくかえる。「ちがうでしょ」

「……そりゃまあちがいますけど」とぼくくちびるとがらせた。「き方がちがうだけじゃないですか。やわらかくいたのとかたいたのと。鳴ってる音源は同じですよね」

「音のかたさがちがって聞こえたんだよね? それは音色のちがいじゃないの?」


 ぼくうでみしてかんがんでしまう。


「ううん……でも実際にちがうのは音の強さとか重ね方とか……」

「どう聞こえたかがすべてじゃないのかな? 音楽ってそういうもんだよね?」


 先生はにやにや笑いながらぼくめていく。


「グランドピアノならもっと差が出るよ。ダイナミックレンジも広いしげんどうしが共鳴するからね」


 ダイナミックレンジというのは音の強弱のはばのことで、本物のグランドピアノであれば天地がくずれるほどのフォルテッシモから降り積もる粉雪のようなピアニッシモまで表現できる。そしてきよたいの中にびっしりと張られた二百本以上ものげんが複雑に共鳴するので、音をひとつずつサンプリングしたに過ぎない電子ピアノでは絶対にできないほうじゆんな倍音が生まれ得る。


「あと、箱がでかいからねえ、雑音もそのぶん大きくひびいちゃうね」

「雑音ってのはなんですか。ミスタッチのことですか? りんのピアノはミスが全然なかったと思うんですけど」

「ミスなくいても雑音は出るよ」


 そう言って先生は電子ピアノの電源を落とした。だまんだ機械のけんばん素早すばやいパッセージでけんしてみせる。もちろん音は鳴らない──楽の音は、だ。代わりにはっきり聞こえるのは、こすっ、こづっ、ごすっ、というかわいてくぐもったきしりだ。

 けんばんそのものが鳴る音。


「ただけんするだけでも色んな雑音が出るんだよ。一つ目は指がけんばんにぶつかる音。二つ目はけんばんがいちばん下までまれて本体にぶつかる音。それからへこんだけんばんもどるときのさつおん。これがけっこううるさいんだ。げんの音にもつぶされずにひびくから音がにごる」

「へえ……全然気にしたことありませんでした。ていうかそんな音、いてたら絶対に出ちゃうんじゃないですか。とくに強い音出すときなんか」

「それをできる限り減らすようにピアニストは日夜努力してんのさ」と先生は笑う。

 その程度のことも知らなかったのだから、りん鹿にされるわけだ。今になってかのじよとの会話がずいぶんずかしく思えてくる。


「ただ雑音っていっても感じ方は人それぞれでね。けんばんが本体にぶつかる音は派手でパーカッシブだから、絶対なくした方がいいって人もいるし、きようれつなフォルテをくときは音のりんかくがはっきりするから鳴らした方がいいって人もいるし。リヒテルとかホロヴィッツとかはピアノがぶっこわれるんじゃないかってくらいものすごい雑音出すからね。あたしはあれ大好きだな。音大時代にしていてみて、でもあんなばくおんぜんぜん出せなくて、しかたないからひじで思いっきりぶちかましてみたら教授にめっちゃおこられてさ、ていうかなんの話だっけ?」

「……き方で音色が変わるかどうかの話です……」


 この人よく音大卒業できたな。色々信じられないよ。



 その夜も、りんのピアノを動画サイトでローテーションした。

 ヘッドフォンをかぶってベッドにころがり、目を閉じて、やみの中へと生まれてはくだけて解けていくひびきに意識をかべる。かのじよくシューベルトは、ショパンは、ラヴェルは、はじめていたときとまったく同じようにぼくさぶった。

 大切なのはその事実だけだ。

 起き上がってヘッドフォンをむしり取る。音楽はとうとつせて、窓の外の首都高を走るバイクのかく的なはい音がカーテンしに聞こえてくる。

 ヘッドフォンのブリッジをにぎりしめた自分の手を、じっと見つめる。

 引きずり出してやる。算段もある。ぼくだって十代前半のみずみずしい年月を閉めきった暗い部屋でDTMソフトの画面とにらめっこしてろうしてきたんだ。もうめんの構想も頭の中に組み上がりつつある。

 PCの前にすわり、ヘッドフォンをかぶり直した。



 りんぼくのクラスである1年7組にやってきたのは、四日後の昼休みのことだった。ぼくは連日のてつ作業で脳みそが液化するほどつかれていたので、四時限目の終わりのチャイムを聞いたしゆんかんに机にして気を失っていて、だれかにかたを強くすぶられてようやく目をまし、わけもわからず身体からだけいれんさせてあやうくから転げ落ちかけた。


「──ん、ふぁっ?」


 変な声が出た。顔を上げると目の前にりんが立っていた。

 きの頭ではじようきようをすぐにめず、そこが自分のクラスだということも、まわりでクラスメイトたちがこう心たっぷりの視線で取り巻いているということも、けに何度もきょろきょろ見回してようやくあくした。

 しかし頭が冷えてきたところで、りんがいきなりぼくの額に手をあてたりまぶたを指で広げたり手首のみやくはくを測ってきたりしたので、ぼくは再びから転げ落ちそうなほどうろたえる。


「な、な、なんだよっ?」


 ぼくが手をはらうとりんはものすごく心外そうな顔をした。


「毎日放課後は音楽室にあししげく通っていたあなたがここ四日間まったく姿を見せなかったから病気にでもなったのかと思って」

「それは、ええと、どうもご心配をおかけしまして」


 りんの言葉よりも周囲のクラスメイトたちの反応がぼくろうばいふくがらせた。みんなしんそうに、なおかつこう心むき出しの目で見ている。ひそひそ声も聞こえてくる。


「あの子4組の」「むらと?」「ほら音楽の授業でばんそうをさ」「毎日二人で?」

「音楽せんたくってそんなイベントあんの」「美術からえようかな」「いやむらだけだよ」


 なんかよくわからんけど話が広がってるぞ?


「毎日顔を合わせるたびにわいな話をしてくるむらくんでも四日連続で現れないとなるとさみしく思えてくるからこうして様子を見にきたの」


 りんがとんでもねえことを言い出すのでクラスメイトたちはいきり立つ。


むらおまえ音楽室でなにしてんのッ?」「生活指導!」「警察!」

「ま、待ってってば! そんな話してないよ!」ぼくは必死に反論し、りんをにらむ。「変なうそやめてくれないかなっ?」

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