楽園ノイズ7

2 魔法がきらきら踊りながら⑧

 もうこの二日間が濃厚すぎて、緊張が途切れて疲労を自覚してしまった今はとにかく早く帰宅して頭の中を整理しながらゆっくり眠りたい気分だった。

 でもキョウコさんは僕を逃がすまいとするかのように入り口に近いソファに腰を下ろし、僕を隣に座れと促す。

 他のみんなの面白がる視線を全身に感じながら、おそるおそる腰を下ろした。


「きみもアルバム制作を考えているそうだね?」


 びっくりして腰が浮く。


「……え、ええと、なんで知ってるんですか」

「『ムーン・エコー』の社長が最近あちこちに相談を持ちかけてるらしいんだ。きみたちが頼んだんじゃないの? PNOがアルバム作りたがってるってのはかなり広まってるよ」


 黒川さんか。忙しくてとても無理、みたいなことを言っていたのに、ちゃんと動いてくれていたのか。ほんとうにあの人には苦労をかけっぱなしだった。


「さて、私は一度完全にやり込められて袖にされている身だけれどね。目をつけたらスッポンのようにしつこく食い下がるので有名なんだ」


 キョウコさんはぐっと身を寄せてくる。肩が触れあった。

 首を曲げ、斜め下から僕の目を覗き込む。唇が至近距離にある。


「私にきみたちをプロデュースさせてくれないか」


 僕の視線を逃がす場所は膝に置いた手の甲の上しかなかった。

 答えに詰まっているとキョウコさんはさらに続ける。


「プロデュースというのは内容が人それぞれでちがう説明の難しい仕事だけれど、どんなプロデューサーも必ず請け負ういちばん大事な役目がある。だ」


 僕は顔を上げた。上げてしまった。

 目が合ったキョウコさんは、これ以上ないくらいすがすがしい笑顔になる。


「この私と、きみたちだよ? そうとうな額が集められるだろうね」


 ありがたい話をされているはずなのだけれどなんか怖いという気持ちばっかり募った。


「もちろんきみの要望は最大限に汲むよ。この『ヴィクトリア』で全部録りたいというなら、私が録るときと同じくらいがっつりスケジュールを押さえよう」


 あ、なんか怖さが薄れてうれしさが勝ってきたぞ。まずい。いや、べつにまずくはないか。当たり前のことか。得しかない話をされてるんだから。


「迷ったふりをしているきみを逆方向からも押してあげようか。私の純粋な厚意で、このスタジオを二日間も好きに使ったよね? 無料で」


 僕はぎくりとする。


「実はプロデュースの話を断りづらくするための恩の押し売りだったんだ」


「先輩、言っちゃうんだそれ」と向かい側のソファでチアキさんが笑い転げる。他の面々も苦笑い、大笑い、忍び笑い。なんなんだこの場は。みんながいる前でこんな話しなくても。ああいやこれも断りづらくさせる方策の一環か?

 ソファのアームレストに身体を押しつけるようにしてキョウコさんから距離をとり、深呼吸して気を落ち着ける。

 ちゃんと考えよう。

 ありがたくて、美味しくて、もったいないお話だった。

 しかし。

 僕ひとりで決めるわけにはいかない。

 やっとのことで絞り出した返答は気が利かないサラリーマンみたいだった。


「……一旦持ち帰らせてください」


       *


 翌日、稲森さんからメールが来ていた。


『録ったやつ、とりあえず全部送ります』


 ファイル転送サービスのURLも附記されていた。そういえば昨日は色々ありすぎた上に門限も迫っていてあれからすぐスタジオを飛び出して電車に乗って帰ってきてしまったので、録りまくった音をどうするかなんてなにも考えていなかったのだ。

 稲森さんのメールには続けてこう書かれていた。


『よければミックスも私がやりましょうか。村瀬さんの今回のやつみたいな、繊細なデジタルロックは私、得意ですよ。やらせてもらったらきっと満足してもらえると思います』


 ミックス、ミキシング、ミックスダウン、トラックダウン、と様々な呼ばれ方をするこの楽曲制作の最終工程は、たくさんのパートに分けて録音した各楽器や歌を加工してバランス調整してひとつの音源にまとめ上げる作業だ。料理にたとえれば、レコーディングまでが材料の調達や下ごしらえだとするとミックスが実際の調理にあたる。

 だからものすごく重要な工程だし、経験と技術が要求され、個性も出る。

 レコーディングエンジニアはミキシングもできることがほとんど――というよりも、実際に業務を受注するときにはレコーディングよりもミキシングの腕を期待されるケースが多いのだという。


『ありがとうございます。でも今回は勉強がてら自分でミックスします』


 僕は返信メールにそう書いた。送信ボタンを押すまでに十七秒くらい迷った。

 本音は、こうだった。

 稲森さんにやってもらった方がぜったいにいいのはわかっている。でも、できあがった曲を僕の個人チャンネルにアップしたら、それまでの曲との音質差に自分で愕然として、古いやつを全部消したくなってしまうだろう。

 今回の曲は――緩衝材というか――録りの時点ですでにこれまでと段違いのクォリティになってしまっているので、僕のしょぼいミックスで下方修正して、既存曲のしょぼさにちょっと近づけてショックを和らげるというか……。

 かなり情けない理由でいつも通りに自前ミックスした曲も、やはりそうそう都合の良いしょぼさには収まらず、元々の録り音の素晴らしさがどうしても発揮される。動画サイト用にエンコードされて音質が劣化してもなお《生まれの良さ》みたいなものが隠しきれない。悪いことみたいな書き方になってしまうが本来は喜ぶべきことだ。

 これ、もう宅録できなくなっちゃうなあ……。

 恐れていた事態が実際に到来しつつあった。

 そこに、キョウコさんの再オファーだ。YESと返答するだけで明日から『ヴィクトリア』の2スタが使い放題なのだ(そんなことはないのだが僕は冷静さを欠いていたので自分につっこめなかった)。

 自分がなにか制御しようのない力に押し流されようとしているのを感じたのは、実にこのときがはじめてだった。

 後になってから振り返ってみると信じがたいのだが、このときまで感じていなかったのだ。あれだけ大きなイベントに何度も出演させてもらい、チャンネル登録者数も何千倍にも増え、メディアにも幾度か取り上げられ、ソロでアリーナまで埋めたというのに、人生がものすごいスピードで知らない国に向かって走り出していると僕に実感させてくれたのはレコーディングスタジオだったのだ。

 正直、あそこに住みたい。

 2スタのコントロールルームとブースを往復するだけの暮らしを一生続けたい。

 キョウコさんの提案は即刻バンドメンバーに共有すべきだった。それはわかっていた。でも僕は踏ん切れずにもぞもぞとミックスを続けていた。


 だって、来週はもう合宿だ。

 みんなの張り切りに水を差してしまうのではないかと不安だった。海辺のスタジオつき別荘で盛り上がろうとしているのに、「やっぱりプロの使っているレコーディングスタジオは段違いだった、他で演るなんてもう考えられない」とか言い出すのは無神経にもほどがある。

 そもそも、キョウコさんのプロデュースを請けるべきか断るべきかも、僕の中でまだ答えが出ていない。

 プライドの問題で一度断ったくせに、レコーディング費用問題が解決すると知ったとたんにころっとOK出すのって卑しくないですか……?

 自問なのにおどおどした語調になってしまうのが気持ち悪かった。

 こんなぐずぐずの心持ちで合宿に行くのもなんだか気詰まりだった。いっそ僕は休んでしまうか、という考えまで頭の隅をかすめた。

 なんとか気を取り直してスマホを手に取り、LINEを開いた。

 未読がまた大量にたまっている。

 スクロールさせようとした僕の指はぴたりと止まった。詩月が何枚もの画像を連続してアップしていた――


『別荘の写真、管理人さんにいっぱい送ってもらいました!』


 真っ白に塗装されたコテージの玄関正面。モチノキの林の木陰に吊られたハンモック。二階の窓から望む九十九里浜。そして四枚目が地下のスタジオの写真だった。

 見憶えがある。

 いや、もちろんそのスタジオ自体は見たことがない。でも、木目を生かした壁の模様や照明の色合いやなによりも置かれているグレッチのドラムセットの夕焼け空みたいなボディは僕の記憶の一片をするりと引き出した。

 これは、たしかに、禄朗さんの作ったスタジオだ。

 詰め込まれている空気が、あの目黒の別宅地下のライヴスペースと同じなのだ。

 響く音も同じだろうか。

 ピアノの蓋に染みついたウィスキーの香りと病室の消毒液のにおいとが僕の記憶の中で混ぜこぜになって区別がつかなくなる。

 すごくよさそう、と僕は書き込んだ。他のみんなもはしゃいだ返信をつけている。

 ちょっと文面に迷ってから、付け加えた。

 キョウコさんにまたプロデュースさせてくれって言われた。迷ってる。アルバム制作はずいぶん楽になると思う。みんな、どうしたい? すぐ返事しなきゃいけないものでもないから、合宿中に話し合って決めようか。

 メッセージを投稿し終えてからミキシングに戻ろうとすると、スマホが何度も震えて通知してきた。最初に詩月、朱音、ちょっと遅れて伽耶、だいぶ時間を置いて最後に凛子。

 みんなスタンプのみだった。賛とも否ともとれない、ただ驚いてることしかわからないようなやつばかり。

 まあ、それはそうだろう。僕だって同じだ。なに言えばいいかわからない。

 スマホを伏せてヘッドフォンをかぶろうとしても、どこからか波音が聞こえてきて、作業には一向に戻れそうになかった。

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