楽園ノイズ7
2 魔法がきらきら踊りながら⑦
午後九時になってキョウコさんがスタジオにやってきた。
僕も稲森さんたちも昨日と同じようにまたしてもレコーディングに夢中になっていて夕食を摂るのを忘れていたしスマホの着信にもまったく気づいていなかった。
「邪魔してしまったかな?」
コントロールルームに入ってきたキョウコさんの姿を見てようやく我に返る。
「何度か連絡したのだけれど反応がなくて、押しかけてしまった。向こうの用事が予定より早く終わったものだから」
「え、あ、いやっ、全然平気です、すみませんスマホ見てなくて」
もともとキョウコさんが借りているスタジオを使わせてもらっているのだから遠慮なんてされたらこっちが困ってしまう。
チアキさんや、ツアーメンバーのベテランミュージシャンたちも部屋に入ってきて、にわかに騒がしくなる。しかもキョウコさんが「どんなの録ってたの? 聴かせてほしい」なんて言い出すものだから僕はあわてる。
「ええと、今は、ちょっと」
言いよどむ僕にかわって稲森さんがPCの画面を親指でさして言った。
「今のやつ仮ミックスしてみましょうか、仮歌のバッキングがエレピだけでほとんど邪魔にならないからそのままのせられますよ」
「聴きたい聴きたい!」とチアキさんも大乗り気。
リズム録りが終わったばかりのその曲を、全員で聴いた。人に曲を聴かせるときにこんなに緊張したのはこのときがはじめてだった。トッププロたちが目の前にそろっているのだ。おまけに、その曲はいつものように練り込んで作ったやつじゃなく、ほんの数時間前にいきなり頭の中から出てきたものだ。
息を詰めて、曲が終わるのを待った。
ピアノの最後の和音がふっつりと切れて沈黙が訪れてからも、しばらくはだれも言葉を発しなかった。
最初に動いたのはキョウコさんだった。テーブルに広げられていた譜面を拾い上げる。目が五線の上を走り回る。
「少年。今の曲、演ってみていい?」
突然言われて僕はしばらく意味がわからなかった。ぽかんとしている間にもキョウコさんはチアキさんやギタリスト、ベーシストたちに譜面を配っている。
「演ってみたいんだ。いいかな?」
もう一度訊かれて、僕は間の抜けたしぐさで何度もうなずいた。
コントロールルームからガラス越しに眺めるブース内のプレイヤーたちは、宇宙空間で働く組み立て作業員みたいだ。安全に呼吸ができるこちらの世界からは完全に隔絶されて、息もできない濃密な闇の中でそれぞれの楽器につながれ、極限まで効率化され洗練された動きで星々の先の先へと橋を架けようとしている。
キョウコ・カシミアが僕の曲を演るのは、二度目だった。
一度目は――去年か。僕の代わりにベーシストとしてPNOに混ざり、圧倒的な差を見せつけて僕を打ちのめした。
でもそのとき僕の心臓に突き込まれたのはまたちがう種類のものだった。
言葉にするのは難しいのだけれど、それはたとえば、さんざん探していた失せ物が、自分の部屋ではなく旅先でふと訪れた美術館でいきなり見つかった――みたいな衝撃だ。
今度は、打ちのめされなかった。
僕が強くなったから、ではない。
知っていたからだ。この曲はこうなるべきだったのだと。
演奏が終わり、最初にコントロールルームに戻ってきたのはチアキさんだった。
「いい曲だね! さっきのデモのドラムス、真琴くんが自分で叩いたんだよね? トレスしがいがあったよ、すごくなじむ」
ドラミングに関しては《差》と呼ぶのもおこがましいほどの差があった。チアキさんのを聴いた後では僕がさっきまで叩いていたのはポリバケツと紙皿だったように思えてくる。だから逆に彼女の評価を素直に受け取れた。本職のドラマーにとってはイマジネーションの広げる余地がたっぷりあるデモ音源だったのだろう。
ギタリスト、ベーシスト、キーボーディストに続いて最後に部屋に入ってきたキョウコさんは僕を見るなり言った。
「この曲、買うよ」
全員の視線がキョウコさんに集まった。
驚きが半分、あきれがもう半分。
「ちょっとちょっと先輩、いきなりなに」
チアキさんが相方の肩をつっつく。でもキョウコさんは僕をじっと見つめて目をそらさず言葉を続けた。
「私のために書いた曲だ。そうだろう? 一聴して気づいたし、歌ってみて確信した」
僕はキョウコさんの眼の光から逃げるようにして天井を仰ぎ、コントロールルームの空気中にもわずかに含まれている星粒をまつげや鼻の先や唇で感じた。逃げ場はなかった。
キョウコさんの顔に視線を戻す。僕が知っているどんな表情もそこにはなかった。強いて言えば、斃れた獲物を前にして山への感謝と畏怖の祈りを捧げているときの狩人の顔が、いちばん近かったのではないだろうか。
「……はい。どうもそうみたいです。キョウコさんに宛てて書いた曲です」
それはまったく言葉通りの意味だった。
自分で気づいていなかったのだ。キョウコさんに求められてはじめて明確化された。
キョウコ・カシミアに歌ってもらうための曲を、僕はこの日の午後ずっと作っていたのだ。第二スタジオに充満する魔力によって書かされていた、というべきか。
「そういうことって、あるんだ」
キョウコさんは笑って言った。それから分厚いガラスの向こうのブースでひっそりと翳る楽器たちの森を見やって付け加える。
「その一瞬のためにここを借りてるようなところもあるね」
ぞくりとした。
僕が今さっきはじめて体験した曲作りは、藁に火をつけるために落雷を待つみたいな原始的なやり方だ。そんなのに何十万円、何百万円と費やすのか、という空恐ろしさと、音楽ってそういうものだよな、という諦念にも似た納得感が胸の内で相半ばしていた。
「では、契約なんかの細かい話はあとでメールしよう。次のアルバムにきみの曲を入れるかどうかはまだ決められないけれど、なるべく待たせないと約束するよ」
キョウコ・カシミアのアルバムに、僕の曲が――。
思わず姿勢を正す。ちょっとスタジオの空き時間を借りただけのつもりが、とんでもない話になりつつあった。
「ちょっと貸しただけなのにね」とキョウコさんも笑う。「少年ならきっと夢中になって面白い遊び方をしてくれるだろうとは期待していたけれど、これじゃ効果覿面すぎて、かえって話を切り出しづらいじゃないか」
「……まだなにかお話があるんですか」



