楽園ノイズ7
2 魔法がきらきら踊りながら⑥
僕もアマチュアながら録音をずっとやってきたので、聞きたいことは山ほどあった。素人がプロに対して失礼ではないかと思いつつも、みんな優しいのであれこれ質問してしまう。やはりその道二十年のベテランの語る内容は濃くて重たかった。これじゃもう今までみたいな宅録じゃ満足できなくなっちゃうだろうな、と僕は心配になる。
「……まあでも、今はツールもどんどん進歩してますからね。ProToolsさえあればべつに高いスタジオ代払わなくても、って考えもわかります」
稲森さんがふとさみしそうな顔でつぶやく。
「いや、でも、録り音からして全然ちがいますけど」と僕はコントロールルームに続く階段の方を見ながら言う。
「そう言ってもらえるとうれしいですが、コストパフォーマンスってものがありますからね。プロデューサーからすれば、何千万もかけてアルバム作ったとしてクォリティが売り上げにつながるのか、って話になります」
「スタジオもピンキリですけど差がなくなりつつあるし」とべつのスタッフも言う。
「エミュレータもどんどん精巧なのが出てるしね」
「アビィロード・スタジオのプラグインとか」
そこからしばらくマニアックな音響ソフトの話題になり、僕もついていけなくなる。僕だってだいぶDAWをいじり回してきた身だけれど、次元がちがっていた。
「だからキョウコさんとかが『ヴィクトリア・フォールじゃないと』って言ってくれるのってけっきょく、場所に金を払ってくれてるんだよな」
稲森さんは食べ終えて空っぽになった紙皿のピザソースの染みを見つめて言う。
「場所っていうか、空間、空気、雰囲気……。なんかこう、言葉にできないなにか」
魔法、と僕は声に出さずに答えた。
僕がほんとうに魔法のひとふれに出逢ったのは、二曲目のソロパートも録り終えた夕刻のことだった。
スタジオ備品のフェンダー・ローズピアノは使い込まれた年代物で、そこかしこに古い傷跡や塗装剥げや褪色が目についた。いくつもの鍵盤を跨いで細い掻き傷が幾筋も走っていて、これはなんの痕だろうとしばらく考えてから、グリッサンドのときにできた傷だと気づく。鍵盤上で手を横に滑らせて音のカーテンを作り出す奏法。
きっとこれまでにたくさんの弾き手が、それぞれの気持ちの昂ぶりをそのまま音型に変えて鍵盤に叩きつけてきたのだろう。エンジニアがその想いと叫びを受け止め、可能な限りに近似した電気信号に置き換えてテープに焼きつける。言葉をのせられた熱情はエコーチェンバーの中を駆け巡り、燃えさかる星の渦に変わる。そんな戦いの狭間でこのピアノは身を削られ歌を絞り出しながらしたたかに生き残ってきたのだろう。
傷跡を指でたどる。
不意に、電流のようなものが指先から肩へと走った。耳の裏から頭蓋を伝って首筋に落ち、心臓に届く。
僕は顔を上げ、あたりを見回した。
ブースにいるのは僕ひとりだ。エンジニアもスタッフもみんなコントロールルームにいる。でも、だれかが僕に語りかけている気がする。
――ちがう。
言葉だけじゃない。歌だ。僕の中でだれかが歌っている。
全然知らないのに昔からよく知っている歌だ。そんなことってあるだろうか? 僕は旋律をたどることもできるしコードの移ろいを色彩で捉えることもできるし懐かしさをおぼえるイントロの口笛さえも思い出すことができた。はじめて聴いた歌なのに。
『――さん。村瀬さん?』
稲森さんの声が遠くから聞こえてくる。
もう1テイク録るか、一旦確認するか、といったことを訊いてきているのは頭では理解できるのだけれど、まるで映画の登場人物がべつの登場人物に向けた質問みたいで、僕が答えるべきことだとはどうしても思えなかった。
いま僕が口にするべき言葉は――
「……あの、ちょっと、ええと、……べつの曲録ってもいいですか?」
稲森さんの答えが返ってくるまでに一瞬間があった。僕の様子がおかしいのに薄々気づいていたからだろう。
『いま録ってるのは一旦保留で、次の曲に移るってことですか?』
「いえ、そういうことじゃ――いや、そういうことか。そうです。あの、ええと、いま思いついた曲なんで、忘れないうちにとりあえず一回通して弾き語りします」
自分で勝手にマイクをセッティングすると、コントロールルームからのOKも待たずに鍵盤を押し込み、歌い始めた。
旋律もコード進行も詞もアレンジまでも同時にすべて浮かんでくるなんて、はじめての経験だった。だから仮歌を録り終えてコントロールルームに戻り、譜面に起こしている間も、ベースラインをつけている間も、リズムを録っている間もずっと不安だった。昔どこかで耳にした他のだれかの歌を気づかずに盗んでしまったのではないかと。でも稲森さんも他のスタッフもなにも言わなかった。ただ僕のわがままに付き合って淡々とプロフェッショナルに録音作業を進めてくれた。
だれか一人でも、一言でも疑問を漏らしたら――この曲はなんなんですか? ほんとに今さっき思いついたんですか? これから本気で仕上げるつもりなんですか? なんて――魔法は脆くも壊れてしまい、僕はマイクの前で途方に暮れ、すごすごとコンソールの前に戻って、録音済みのパートをぼんやりチェックするだけでその一日を使い潰していただろう。
でも、だれもなにも言わなかった。ひたすらに僕の唇と指先から漏れ出る音をクリアに正確にデジタルデータに変換していった。ブリッジのコード進行とフレーズはベースを実際に録る段階になってプレイ中に即興で考えた。自分がそんなふうに曲を作ることになるなんて思ってもみなかった。これまでは、PCの前に座り込んで、鼻唄と五線譜と鍵盤とシーケンサの間を何往復もしながら少しずつ少しずつ色を塗り重ねるようにして曲を作っていくやり方しかしてこなかったのだ。
自分で作っている、という気がしなかった。
空気中に漂っている、あるいは壁の継ぎ目に染みついている、鍵盤の掻き傷に塗り込められている、たくさんのかけらを吸い込み、吐き出すとそれが歌に変わっている。そんなイメージがずっと僕をとらえていた。



