楽園ノイズ7
2 魔法がきらきら踊りながら⑤
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翌朝、キョウコさんから電話があった。
『今日もべつの予定が入ってしまったからきみが一日中使っていいよ』
喜びのあまり、ベッドの上で何度も跳びはねてしまった。昨日の数時間だけじゃ全然録り足りない、ともやもやしていてろくに眠れなかったくらいなのだ。
今日は親にちゃんと事情を話す。
「昨日はほんとにごめんなさい。それで、今日もスタジオ使っていいらしいから、行ってきたいんだけど、なるべくたくさん録りたいし、夜まで、いいかな……」
レコーディングか! アルバム録ってんのか! オリコン一位獲れよ! と横からうるさい父を母は冷たい視線で黙らせる。
「もう高二だし、行き先がわかってるならうるさくは言わないけど。何時に帰ってくるの」
できれば徹夜して始発で――と言いたいのを呑み込んで「十一時」と答える。
ギターとノートPCとシンセサイザーを担いで銀座に向かった。荷物が多いと暑さは何倍にもつらく感じられ、駅のプラットフォームで電車を待っているだけでTシャツの肩が重たく湿っていくのがわかる。でも、今日いちにち『ヴィクトリア・フォール』の2スタを使えると考えただけで夏の不快感なんて頭から消え失せてしまう。
スタジオに着いたのは午前十時、始業時間ぴったりだった。稲森さんは出勤前。アシスタントさんの話によれば、レコーディングエンジニアというのはミュージシャンというやくざな職種からのオファーで働かなければいけない関係上、労働時間サイクルがむちゃくちゃになるものなのだという。
「一日が四十二時間あって一週間が四日間しかない、みたいなことを冗談で言う人もいます」
冗談のつもりで言ったのだろうけれど、昨日完全に時間を忘れてレコーディングに没頭して稲森さんを夕食抜きにまでさせてしまった身としては耳が痛かった。
レコーディングがまだ始められないということで、スタジオのあちこちを見せてもらうことにした。まるっきり社会科見学だった。子供だから大目に見てもらえたのだろう。
とくに感服したのは第一スタジオだった。第二もかなりの広さだったけれど、その倍近くの床面積で、なんとフルオーケストラが収容できるという。
「都内でもフルオケ録れるのはけっこう限られてますからね。まあそのぶん録る機会も限られていますけれど」
フルオーケストラとの共演は僕の夢のひとつだった。ぜひ『けものみち交響楽団』にお願いしたいものだ。せっかくだから一曲だけじゃ物足りないし壮大な組曲にしたい。となるとコンセプトアルバムだ。大昔のLP盤みたいにA面とB面に分けて、片方がオーケストラアレンジの組曲ならもう片方は対照的なロックサウンドを並べて――
アルバムをつくりたいという欲求は、ついこの間までの何十倍にも強まっていた。
昼過ぎに出勤してきた稲森さんは、僕を一目見てぽかんとなる。
数秒置いて、「ああ!」と目を見開いた。
「村瀬さんですか! いや、すみません。いや、いや、ほんとに男子だったんですね。話には聞いてましたが実際こうして両方見ると、いや、はあ、すごいもんですねえ」
そういえば稲森さんとは初対面が昨日の女装なのだった。なんかもう最近はこういう反応にも慣れてきつつあるけれど、慣れちゃいけないんだろうなあ。
2スタに入って昨日録った曲の仮ミックスを聴き、それから今日録る二曲目の打ち合わせをした。ガイドは稲森さんが来る前にアシスタントさんに手伝ってもらってすでに録ってあったので昨日よりも段取りがスムーズになりそうだった。
レコーディングに慣れてきたこともあり、昨日みたいに一分一秒を惜しんで録るということもなく、適宜休憩を挟んだ。コントロールルームでの稲森さんとの雑談も多くなる。
「いい音で録ってもらうとあらためて自分の下手さが目立ちますね……」
録った4リズムを稲森さんの隣で聴きながらそうこぼす。
PNOのバンドメンバー、とくに詩月を呼んで演ってもらいたい気持ちは強くあったのだけれど、『キョウコさんのアルバム制作陣が他の作業をしている』という建前でスタジオを使わせてもらっている以上、僕の判断で勝手に人を呼ぶのはためらわれた。ドラムスのつたなさが耳に痛い。
でも稲森さんはなんでもなさそうに言う。
「そうですか? 全然聴ける音だと思います」
お世辞だろうか、と思っていると彼は続ける。
「こう言っちゃうとアレですけど、この商売やってると演奏の上手下手に意識が行かなくなるんですよ」
「そうなんですか? だって一年中スタジオミュージシャンのめちゃ上手い演奏を聴き続けるわけですよね。……あ、だからか? みんな上手いから」
「いや、そういうわけでもなくて。たしかに全員上手いですが、なんというか、そう、プレイヤーの上手下手なんかを気にしていると自分の仕事ができなくなるんですよ。私らは出された音を最高の状態で録るのが仕事ですから。いい音にならなかったのをプレイヤーのせいにし始めたら終わりでしょう」
そういうものなのか。言わんとしているところは理解できなくもないけれど。
「アーティストさんが望んでる通りの音を録るのと、アーティストさんが考えてもいなかったような音を録るのと、両方とも私らの仕事です」
「……すごく難しいこと言ってませんか」
「だからお金をいただけるわけです。村瀬さんも、自分が上手いかどうかなんてのは一切考えずにですね、どんどん欲しい音を要求してください。プレイが下手、だとそこで私らのできることがなくなっちゃいます。大丈夫ですよ、村瀬さんはいい音を出してます。それを100%で録るのが私らの最低限、120%や140%でようやく金がもらえる仕事です」
こんな心強いことを言われたら、僕でも攻めの姿勢になってしまう。休憩後のギター録りではちょっと音が遠いだのジャギジャギ感が欲しいだの輪郭はっきりさせたいだのと抽象的な注文をつけまくった。全部的確に応えてくれるのだから感服するしかない。
夕食の時間になり、ピザの配達を頼んで、第二スタジオのラウンジで稲森さんやスタッフさんたちといっしょに食べた。



