楽園ノイズ7
2 魔法がきらきら踊りながら④
これは一体なんだろう。
深海に降り積もっていくという、プランクトンの死骸でできた雪だろうか。
『ベース、テイク1』
稲森さんの指示の声がヘッドフォンに入る。雪の粒が大きな螺旋を描いて八方に散り、代わりにハイハットシンバルのきらめきが空間に流れ込んでくる。
金属弦が僕の指の下でくすぐったそうに震える。ビートが毛細血管の先の先まで走り、熱となって揮発する。
『……ピアノいきます。テイク1』
エレクトリックピアノのパートを録る段階になると、細胞のひとつひとつにまで音の粒子が入り込んで律動しているのが感じ取れるようになる。僕の世界から重力は消え失せ、時間はただ小節線で区切られただけの無限に長いリボンに変わる。
僕はこの曲を知っている。
何億年も前からよく知っている。
僕が歌をつくるのではなく、歌が僕という時間の切れ目からこの世界にあふれ出てくるだけなのだ。永遠に巡り巡る真鍮製の円環に、ただ僕がちっぽけな針として押し当てられ、揺れ動きながら金属面を削り、痛ましい楽音を奏でているだけ。
時計を見ることを思いついたのは、ギターパートを七本もオーバーダビングした後のことだった。十一時五分過ぎを指していた。
十一時。
……え? あれ? 朝ご飯食べたっけ?
現実感をいきなり突っ込まれた僕の脳はしばらくフリーズしていた。午前か午後か本気でわからなかったのだ。記憶をたどり、ここにやってきたのが午後四時くらいで、それから一時間か二時間くらいキョウコさんとコーラス録りをして――とひとつひとつ確認してようやく今が夜だと気づく。
「うわ。こんな時間か」
稲森さんも隣で声をあげた。
「いやあ全然時間気にしてませんでした、村瀬さんの熱にあてられちゃって」
五、六時間やっていたことになる。まったく時間経過の感覚がなかった。
「あ、す、すみません、稲森さん仕事もう終わりの時間ですよね」
「いや、私は今日何時まででも。ミュージシャンの方々はみんな宵っ張りですし。それより村瀬さん、お家の方が心配してませんか。まだ高校生――ですよね」
「ああああっ」
僕は声をひっくり返らせ、コントロールルーム隅のソファに置いたハンドバッグに駆け寄ってスマホを取り出し、電源を入れた。
LINEと電話の着信通知数がどちらも二桁を超えていて震え上がる。
女装のせいだよ……いつもの服装ならポケットにスマホを入れてるから振動で気づいたはずなのに、今日はバッグに入れてたから……なんで女物の服ってポケットが全然ないんだ……と責任転嫁していてもしょうがなかった。
階段室に出ると、おそるおそる母に電話する。
『真琴? あんた今どこにいるの?』
母は声を張り上げたり荒らげたりはしなかったけれど、硬く張り詰めた声に込められた怒りはしっかり伝わってきた。
「……ごめんなさい、ええと……」
ぼくは最初から事情を説明する。知り合いのミュージシャンからいきなり連絡があり、レコーディングに参加し、その後スタジオを自由に使っていいと言われたので夢中になって色々やっていたら夜になっていたこと。話し方を間違えるとまるでキョウコさんのせいみたいに聞こえてしまうので慎重に言葉を選ぶ。全部僕が悪いのだ。
『あんたねえ、こっちがどれだけ心配したかわかる? こんな遅い時間まで連絡ひとつなく、女の子がひとりで――』
男の子です! とつっこめる空気ではなかったので僕は電話口で首をすくめるしかない。
「ほんとごめんなさい、これから帰ります。銀座なんでけっこう遅くなっちゃうけど」
『まあ終電前でまだよかった。気をつけて帰ってきなさい』
通話は切れた。
続いてLINEをチェック。家族グループにあたらめてごめんなさいのスタンプを投稿し、バンドの方のグループを見る。こちらも未読メッセージがたまっていた。キョウコさんからの電話を受けてからほとんどなんの説明もなく別れた後、一報も入れなかったのだから不審に思われて当然だった。どうやら姉から朱音たちに「真琴が帰ってきていないがまだいっしょにいるのか」と連絡が行ったらしかった。
ほうぼうに心配をかけまくってしまった……。
階段に座り込んで説明のメッセージを長々と打ち込み、送信してから、両膝の間にため息を落っことす。
みんなからのメッセージはすぐに返ってきた。
『やっぱり水着が欲しくなってうちらに黙って買いに行っちゃったのかと思ってた!』
『あと一時間連絡なかったら我が家で暮らすことになりましたって村瀬家に電話入れて後日ご両親にご挨拶にいこうと思ってました』
『夜の十二時に魔法が解けて男に戻るまで隠れてるのかと』
『銀座ならうちが近いから終電もし逃しちゃったら泊まっていってください 先輩の分の着替えもパジャマもあります』
なぜ伽耶の家に僕のパジャマが用意してあるのかについて他の面々から当然の追及が入り、そこから「どうせ女物でいいのだから全員の家に用意があるのも同然ではないか」「詩月はサイズ的に無理ではないか」などという心底どうでもいい議論が始まってしまって僕はそっと電源を落とした。
あいかわらずの連中だった。申し訳なさが薄まって助かる。
……いやいや、薄めちゃだめだろ。反省しないと。
スタジオに戻ると稲森さんにも謝られてしまう。
「申し訳ない、私が気づくべきでしたね。キョウコさんとのお仕事と同じ感覚で時間なんて気にせずにやってしまいました」
「いえ、そんな、僕が時間見てなかっただけです」
「終電なくなるような時間じゃなくてよかったですよ。忘れ物、気をつけてください。録ったやつ、どうしましょうか? 送りますか? ヴォーカル入ってないのは惜しいですが」
稲森さんの言葉が僕の心臓を静かにノックした。
そう、まだヴォーカルを録っていない。
終電までは一時間以上ある。
他のパートはすべて録り終えている。
プロ御用達のスタジオとエンジニアで録れる機会なんて、次にいつあるかわからない。
ずいぶん長い間黙り込んでしまったので、稲森さんが心配そうな顔で「村瀬さん?」と訊いてくる。
「……あ、はい。……すみません。ええと」
まだ少し迷っているふりをしてしまった。ほんとうはもう決めていた。
「あと一時間くらい、いいですか? ヴォーカルも録っちゃいたくて」
稲森さんはほんの三秒ほどぽかんとした後で椅子が軋むほど大きくのけぞって笑った。



