楽園ノイズ7
2 魔法がきらきら踊りながら③
半分か。お世辞だろうか。いやいやアルバムに収録する音源なんだぞ。キョウコさんほどのミュージシャンが音楽的な理由をおろそかにした人選なんてするわけがない。ここは素直に受け取っておこう。
「……はい。じゃあ、使わせてもらいます……」
「借りっぱなしだから楽器も置きっぱなしにしていくのだけれど、使うのはスタジオの備品とわたしの私物だけにしておいて。白のレスポールと山葵色のジャズベースがわたしのだ。スタインウェイとローズとハモンドはスタジオの」
「あ、ドラムスも使っていいよ」とチアキさん。「セッティング変えたら後でどう変えたか教えてね、戻すから」
買い出しに行ってきます――くらいの軽いノリでキョウコさんたちはスタジオを出ていってしまった。後に残されたのは僕と、エンジニアの稲森さん、アシスタントやスタッフ。
あまりの急展開に頭がついていかない。
「キョウコさんねえ、アルバム制作時期になるといつもここの2スタを三ヶ月くらい全部予約しちゃうんですよ」
稲森さんが教えてくれる。
「収録曲も決めてない段階からね。プリプロ無し、だからレコーディングの段取りもほぼ白紙ですよ。そうなるとレンタル期間中、しょっちゅう空くわけです。もったいないでしょ? それで知り合いが空き時間を使ってなにかべつのレコーディングするんですよ」
僕はあきれて息をついた。
「曲も決まってないってことは、ここで作るんですか」
「そういうこともありますね。ジャムセッションして作ったり」
その光景を思い浮かべると胸焼けするほどの憧れだけれど、一方で薄暗い自室でPCと向かい合ってひとりで曲を作るのが常だった僕としては、さすがにレンタル料が無駄ではないかと感じてしまう。
「あの人くらいのレベルになると、録りたいってなったときにすぐ録れない方が時間の無駄なんでしょう」
「でも、レンタル料すごいことになりますよね? 三ヶ月ずっとって」
スタッフさんが具体的な金額を教えてくれた。だいたい想像していた通りだった。マンション一室買えちゃうくらいだ。
「世界中で売れてるしお金はあるんでしょうけど、それ毎回やるくらいならもう自分でスタジオ建てちゃった方がいいんじゃ……」
「キョウコさんの自宅にもスタジオありますよ。何度か行ったことあります」
稲森さんが教えてくれる。彼はこの『ヴィクトリア・フォール・スタジオ』の所属エンジニアなのだけれど、外に派遣される仕事もしょっちゅう請け負っているのだという。
「すごくいいスタジオでしたね。建てる段階からスタジオ用にしっかり考えられた物件で、設備もうちに負けてない。使いやすかったし。あと、自宅とくっついてるからキョウコさんもチアキさんも起き抜けパジャマでそのまんま演奏したりして面白いんです」
自宅に本格的なレコーディングスタジオ! 身体がねじ切れそうなくらいうらやましい。僕もいつかそんな生活をしたい。
「じゃあますます借りる意味ないんじゃ……設備もそろっててエンジニアさんも呼べて」
「でもけっきょくやっぱりヴィクトリアの2スタだよな、って言ってくれますね。うれしいことです。最近は日本でのレコーディングは必ずうちでやりますね」
「はあ……」
なにかあるんだろうか。メンテナンスがしっかりしているとかスタッフが多いとか? それくらいしか僕には思いつかない。
「ま、せっかくだからなにか録ってみます? なんでも言ってください」
「あ、そ、そうですね。勉強させてもらいます」
楽器も使っていいと言われたのだ。とりあえず、今ぼんやり頭の中にある曲をリズムから録ってみるか。なにか固まるかもしれないし、音源の出来はだめでもプロのレコーディング作業を実体験できるのは貴重な機会だ。
「じゃあ最初にエレピの弾き語りでガイド録らせてください」
稲森さんは親指を立てた。
フェンダー・ローズの前にマイクスタンドを用意してもらい、椅子に浅く座る。稲森さんとアシスタントはコントロールルームにさがり、広々としたブースに僕と楽器たちだけが取り残される。
ヘッドフォンをかぶる前に、天井を見上げ、僕を取り囲む壁面を見回した。柔らかい色合いの組み木細工のような壁材が、そのときの僕には遠い摩天楼の群れに見えた。明るい室内のはずなのに、黄昏の藍色と燈色がせめぎ合って夜へと墜ちていくのが感じられた。
ひとりきりだけれど、たくさんの気配が僕を取り巻いている。
息づかい、鼓動、鼻唄、爪先のタップ。
騒がしくはない。何千何万と群れて泳いでいる只中なのに、静けさと孤独はむしろいっそう深まる。僕はこの星々をこれから呑み込み、僕自身のかけらとともに吐き出し、呼吸ごとに夜に同化していくのだ。
ヘッドフォンのイヤーマフが耳に冷たく吸いつく。
ガラス越しに稲森さんと目が合う。
クリック音が時を刻み始める。
僕の指は鍵盤の上を滑り、歌が唇の間からひとりでにあふれ出る。
このときすでに魔法にかけられていたのだと思う。
ガイドを録り終えてすぐにドラムセットに移り、セッティング調整をしながら少しだけ練習してから、リズムトラックを下から順番に録り始める。他の楽器とちがってまったくひとかけらの自信もないドラムスだけれど、その日に限っては必要最小限ながら最後までグルーヴを見失うことなく叩き通すことができた。たぶん、その次に録るべきベースがすでに耳の中で響いていたからだと思う。
まったく未体験の不思議な時間だった。
トラックひとつ録るたびに、次のトラックが鮮やかに思い描けるようになる。舟を漕ぎ進めていくと水平線に陸地がにじみ出て現れ、緑に色づき、山影がくっきりと空に縁取られている様が見て取れるようになり、やがて砂浜と林の境目に群れる花々や日焼けした砂岩や鳥たちの姿までもが視界に捉えられ、はっきりと形をとる――そんなイメージだ。
僕が名づけ、僕が地図に記したはずの、けれど足を踏み入れたことのない島。
波打ち際の砂が船底をぐっと押し上げる心地よい感触。
ドラムセットの椅子から立ち上がる。ヘッドフォンを外してコントロールルームと言葉数少なくやりとりし、今度はジャズベースを膝にのせる。スタッフが準備に走り回る間、汗ばんだ手のひらをスカートでぬぐい、空気中に漂う声のかけらを目でたどる。たしかに、まだそこにある。さっきよりもずっと強く感じられる。



