楽園ノイズ7

2 魔法がきらきら踊りながら②

 ビルの五階に上がった。第六スタジオはどうやらヴォーカル録り専用らしく、ブースは八畳間くらいの大きさで、壁際にアップライトピアノが一台、中央にマイクスタンドとキューボックスと譜面台が置いてあるだけだった。


「……よろしくお願いします」


 キョウコさんたちに頭を下げ、分厚いガラス扉を開いてブースに入る。

 ひとりきりだ。

 空間がきゅうっと締め上がって身体に張りついてくる感覚が、先ほどよりは弱いけれど、またやってくる。自宅録音ではもちろん、『ムーン・エコー』のスタジオでも、ライヴ会場でも一度も味わったことのない不思議な肌触り。

 マイクの前に立ち、ヘッドフォンをかぶった。


『それじゃリラックスして、テイク1いきましょう』


 エンジニアさんが硝子の向こうから言った。

 生まれてはじめてのレコーディングスタジオでの録音は、ダビング2本、合計で8テイク、一時間とかからず終わった。

 数小節のフレーズを指示されるままに歌うだけ。

 コントロールルームに戻って、録った音を聴かせてもらう。宅録とは段違いだ。なんというか、音の立体感がまったく別物なのだ。


「すごくいい。きみに頼んだ甲斐があった」


 キョウコさんにそう言ってもらえて面映ゆい。

 早く実際の曲になったところを聴きたい――とは思うのだけれど、この場で完成するものでもない。たしかスタジオミュージシャンのほとんどはその場で渡された譜面を指示通りに弾いてギャラをもらっておしまいで、自分が演った曲名すら知らないこともよくあるという。

 僕も今日の用事はこれでおしまいなのかな。

 もっとここにいたい。さっきの第二スタジオに戻ってあちこち見て触って、みんなの話をたくさん聞いて、できれば自分で音を出して――

 見透かしたようにキョウコさんが言う。


「少年、これからまだ時間があるならもう少し見ていく?」

「えっ、あ、は、はい! ぜひ!」


 僕の答え方がよほど必死だったのか、キョウコさんはからから笑った。

 第二スタジオに戻ると、さっきの面子全員がすでにブースに入っていた。

 ブースは、四分の一に切ったバウムクーヘンの形をしている。扇形の要の位置にはコントロールルームがあり、大きなガラス窓が二つの部屋を隔てていてお互いの様子が見える。外縁の壁には五つの大扉が並び、その向こうはそれぞれ小さなサブブースになっていて、そのうちのひとつにはグランドピアノが収められている。場合によっては大扉を開放して全体でひとつのブースとして使うこともできるようだ。

 真っ白なドラムセットが、メインブースの中央に置かれている。おそらくチアキさんの私物なのだろう、バスドラムの背面にはバンドロゴと黒い小鳥の絵が描かれている。チアキさんはその向こうの椅子で脚を組んで座り、ベーシストのおじさんとなにか談笑している。タンクトップ姿のむき出しになった肩と二の腕、首筋が汗ばんで火照っているので、なにかものすごく激しいセッションをさっきまでしていたのだろう。


「あ、先輩おかえり」とチアキさんがキョウコさんを振り向いて言う。キョウコさんの高校時代の後輩だというチアキさん、いまだに相方を『先輩』と呼ぶので、ミュージシャン特有の異様な若々しさとも相まってどうかするとほんとうに学生に見える瞬間すらある。


「終わった? そろそろ出る?」

「そうだね。少年が手際よくやってくれたから早く済んだよ。余裕持って行けそうだ」


 僕はびっくりしてキョウコさんの顔を見た。

 さっきの口ぶりだと、レコーディングをもう少し見学させてくれる、みたいな感じではなかったか。なのに、もう帰る?


「そんなわけで少年、すまないけれど」


 キョウコさんはこちらを見て、悪戯っぽい微笑を浮かべる。


「これから別件で、今日のところは解散なんだ」

「……そうなんですか。残念です」

「きみは演り足りないだろう?」


 僕は目をしばたたいた。


「この2スタは九月までわたしがずっと借りていてね。ついでに、稲森さんのスケジュールも今日一日分すべて押さえてしまっているんだ」


 稲森さん、というのはキョウコさんの隣にいるレコーディングエンジニアだ。さっきまで僕のヴォーカル録りも担当してくれていた、髪にも髭にも白いものがちらほら混じる渋い中年男性である。僕はまだキョウコさんの話の要点がさっぱりつかめないでいたけれど、引き合いに出された稲森さんにはわかったらしく「しょうがねえな」という感じで苦笑している。


「もったいないだろう? 使いたいならきみが使っていいよ」


 僕は口をあんぐり開けて固まった。チアキさんはキョウコさんの背後で両足をばたつかせて笑っている。他の面々も多かれ少なかれ可笑しそうだ。


「あまり興味ない?」

「……い、いや、あります、使っていいなら、ええと、でも、ほんとにいいんですか」


 うれしさと驚きで咳き込むようにして僕は訊ねた。


「レンタル料高いんですよね? いくらか僕も払わないと――」


 キョウコさんはいつもの唇に人差し指を寄せてくるどきりとさせられるしぐさで僕の言葉を摘み取った。


「お金は要らないよ。というより、もらうわけにはいかないんだ。又貸しになってしまうから規約違反だ。きみがただで使う分には、うちのアルバム制作陣の一人がたまたまわたしが不在のときに別作業をしているだけ、という名目が立つ」

「……ええと……そういう理屈、スタジオの人は呑んでくれるんですか」

「大丈夫だよ。そういう方便は一応使ってくださいね、と向こうから言われてるんだ」


 キョウコさんはコントロールルームの隅でなにか作業をしているスタッフを振り返った。返ってくる苦笑に厭味はまったく含まれていない。


「この人はしょっちゅうあるんですよ、こういうの」とスタッフさんは言った。前例が何度もあるのか。それなら、僕が問題視するようなことじゃない。ただありがたいだけだ。キョウコさんやチアキさんともっと話したりセッションしたりができないのは残念だけれど。

 ふと思い至って訊いてみる。


「ひょっとして僕に貸す名目を作るためにコーラスやらせたんですか?」


 制作陣の一人が使う分には又貸しにならないという言い訳が立つ、ということは僕がレコーディングに参加しないとその屁理屈が捏ねられなかったということだ。

 でもキョウコさんは笑って手を振った。


「その理由はせいぜい半分くらいだよ。もう半分は正直にきみの声が欲しかったんだ」

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