楽園ノイズ7

2 魔法がきらきら踊りながら①

 有楽町線の新富町駅で降り、首都高の上にかぶさるように渡された陸橋を抜けた先にある交差点の斜向かいが目的地だった。錆びた真鍮のような色合いのビルは、外見からざっと目算して七階建てくらいだろうか。

 ヴィクトリア・フォール株式会社、と入り口脇の壁に社名が掲示されていた。レコーディングからミキシング、マスタリングまでできる総合スタジオビルだという。

 一階奥にあるカフェラウンジでキョウコさんが僕を待っていた。


「急に呼び出してすまない。来てくれてうれしいよ」


 手にしたアイスコーヒーのグラスをちょっと持ち上げて微笑むキョウコさんは、黒いベアトップに左肩だけ落としたサマーカーディガン、デニムのクォーターパンツという見事なまでの夏スタイル。もともと四十代にはまるで見えない女性だけれど、なんだか逢うたびに若返っているような気さえしてくる。

 彼女もまた僕の全身をしげしげ見て言った。


「今日はまた素晴らしくキュートだね。普段からそういうかっこうをしているんだ?」

「あ、い、いや、これはですね」


 僕は焦って自分の服装を見下ろし、ついてもいない埃を払い落とすような仕草をする。

 池袋駅で電話を受け、バンドメンバーと分かれてその足でここまで来たのだ。つまりまだ女装のままなのである。キョウコさんは僕のムサオ時代の動画も見ているし文化祭ライヴでは直で女装姿も見ているからそこまで驚いた様子はないけれど、やはり意外だったようだ。それはそうだろう。


「普段は普通の服装してるんですけど、今日はちょっと、ええと」


 説明が難しい。というかそのまま説明するのが恥ずかしい。

 ところがキョウコさんは人差し指を僕の唇にさっと近づけて言葉を遮り、言った。


「事情を当ててみせようか。バンドメンバーの彼女たちと服を買いにいったんだろう? ウイメンズの売り場できみが浮かないように女装するべきだという話になってつい流されて可愛いかっこうをしてしまったんだ。あってる?」


 僕はこのときほどキョウコ・カシミアを怖いと思ったことはない。


「……なんでわかるんですか……?」

「正解だったの? ふふ、きみに電話をかけたときに後ろでちょっとだけ女の子たちの聴き憶えのある声が聞こえて、お邪魔してしまったかと思ってね。池袋駅だと言っていたからショッピングかなと。それに声の調子が早く逃げ出したいという感じの切羽詰まり具合だったしね。あとは憶測だよ」

「全部図星でした……。あ、いや、でも、早く逃げ出したかったというのはその通りですけどキョウコさんに早く逢いたかったというのもあって、一度帰宅して着替えるなんて時間ももったいなかったので、あの、はい、だから」

「きみは実に無自覚に女を喜ばせるね。自覚的じゃなくてほんとうによかったよ。おかげで世界の平和が保たれている」

「はあ」


 褒められているような感じでもないし責めているふうでもないし、発言の意図がよく呑み込めなかった。


「着替えもせずに来てくれたきみの熱意を尊重して、さっそくギャラの話をしよう。一曲で2ダビング、四万円でどうかな。二時間で終わる予定だけれど」

「ギャラ? って、なんの」

「レコーディングだよ。少年の声がバックコーラスに欲しくてね」

「あ、ああ……そういうことだったんですか」

「ただぼんやり見学するよりも実際に演った方がいいだろう?」

「ありがたいお話ですけど相場がよくわからなくて。一曲だけでそんなにもらっちゃっていいんですか」


 キョウコさんは肩をすくめてちょっと意地悪そうに笑う。


「ミュージシャンのギャラに『相場』はないんだよ。みんな自分で決めてる」

「はあ。それじゃ、はい、ありがたくお請けします」

「よし。打ち合わせをしよう」


 キョウコさんは立ち上がった。ラウンジを出て、吹き抜けになった階段をのぼって二階のスタジオ2と書かれたドアを開く。

 ソファやダイニングテーブル、テレビ・オーディオセットに電子レンジに冷蔵庫といった家庭的な家具調度がそろえられた談話スペースがあり、その奥には赤く塗られた防音扉が物々しく構えていた。

 コントロールルームに足を踏み入れた瞬間から、空気がぴったりと肌に吸い付いて、けれどまったく不快ではなくむしろ自分の身体が透きとおって結晶化していくような不思議な感覚に包まれた。左手に巨大なコンソールがあり、その向こうの壁は全面ガラス張りで、併設されたレコーディングブースが見えている。コンソール前のオフィスチェアに年配の男性が二人、テーブルを囲むソファに四十代くらいの男性三人、そして見憶えのある女性が一人。キョウコさんの相方であるドラマーのチアキさんだ。全員の視線が僕に集まるので足がすくむ。


「わ、かわいい」


 チアキさんが真っ先に声をあげた。


「なになにこれどうしたの? かわいい系のコーラスが欲しいからってかわいいかっこうしてもらってきたの?」


 ソファから立ち上がって僕の近くに寄ってくると全身しげしげ眺めながら言う。キョウコさんが笑いながらチアキさんの肩をソファの方へ押し戻す。


「ちがうよ。少年はいつもかわいいんだよ。それに声はべつにかわいいのが必要なわけじゃないからね」


 それから僕の方を振り返り、一座の人々を紹介してくれる。レコーディングエンジニア、アシスタントエンジニア、プロデューサー兼キーボーディスト、ギタリスト、ベーシスト。気後れした僕はキョウコさんの背中に隠れるようにして何度も頭を下げる。


「え、ええと、村瀬真琴です。今日は、ええと、その」


「いや大丈夫。みんなPNOのことはよく知ってます」とプロデューサーさん。「お逢いできて光栄ですよ。じっくりお話を聞きたいとこですが、今日はそういうんじゃないですからね。これ譜面です。先に4リズム聴いてもらってそれから6スタに移って――」


 あっという間に仕事の話が始まったので僕は気持ちの切り替えができずまごついてしまう。どんな曲を録るのかもその場で音源を聴いてキョウコさんとプロデューサーさんからのざっくりと抽象的な言葉を受け取ってすぐに解釈しなければいけなかった。


「少年がちょっと前にソロでアップしたダブステップっぽいのがあっただろう。あれのイントロに入ってるしゅわしゅわした声、あれをもっとダークにした感じのが欲しいんだ。二声で、ワンフレーズごとに一拍置いて上が重なる。金属的なコーラスにしたい」


 音楽的な要求を言葉で伝えるのはひどく難しい。簡単に伝わるならそもそも音楽をやる理由なんてなくなってしまう。しかし、キョウコさんの望む音像とプロデューサーの意向はなんとか読み取れた。

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