第一章 あるいは、僕らの現代的自我 ⑥

 と、そこではるふいに気づいた顔になり、


「もしかして……わたしを手伝うって言い出したのも、あの子が目当てだったの!?」

「いや! それはな……いとは、言えないけど」


 勢いよく否定しかけて、途中でトーンダウンしてしまった。


「確かに、はるを手伝えばあきといられる時間も増えるかなって期待はあったよ……」


 そこに胸躍らなかったと言えばうそになる。

 はるに声をかけたとき、僕はわずかに身勝手な期待もしていた。

 それをきっかけにして、あきとの距離も縮められるんじゃないか。

 そのまま、彼女にとっても特別な存在になれるんじゃないか、なんて。


「けど、放っておけないって思ったのも本当だよ! それが一番の理由だし……そのことは、信じてほしい」

「……うん、そうだよね」


 うなずくと、はるはいたずらに成功した子供のように笑った。


「ほんとはわかってたよ、心配してくれてるのは。ごめんね、意地悪しちゃった」

「……なんだよ、ちょっとあせったじゃねえか」

「ほんとごめん。でも……うん。応援するよ、君の恋」


 そう言って、彼女ははじめて表情に自信をのぞかせると──、


「──きっとそれなら、誰よりもうまくできると思うから」

「……ああ、ありがとうな」


 素直に、心強いと思った。

 何せ、はるあき本人なのだ。

 これ以上に信頼できる恋愛相談の相手なんて、他にいないだろう。


「だからごめん、順番が逆になっちゃったけど──」


 そして、はるはそう前置きし、こちらに深々と頭を下げ、


「わたしのことも、どうぞよろしくお願いします……」

「……おう、任せとけ」


 と、そのとき──部室の扉がノックされ、


君、いるー?」


 扉が開き、先生が顔をのぞかせた。

 もも先生。昨年からの付き合いの、小柄な女性教師だ。

 年齢は二十七才。整った顔立ちや大人びた振る舞いと低身長のギャップで、一部の男子からは熱心な信奉を集めている。

 彼女はこの部屋の管理も任されているらしく、こうして僕がときどきここで過ごすのも管理者権限で見過ごしてくれていた。

 しかし──めずらしいな。

 慎重なこの人が、ノックのあとに返事も待たず扉を開けるなんて……。

 そして、今回彼女は、


「……え、あ、みなさん……ご、ごめんなさい、お取り込み中だった……?」


 室内に僕だけでなくはるがいることに気づき、あからさまに慌て出す。


「その、仲良くするのはいいけど……節度は守ってね?」

「いやいや、そうじゃないですって!」


 とんでもない勘違いをされているのに気が付いて、はじかれたように立ち上がった。


「ちょっと、その……雑談してただけで……!」


 ──そんな風に説明をはじめるも、本当のことを言うこともできず。

 結局、先生の誤解を解くのに、十五分ほどの説明が必要だった──。



 校舎から出ると、いつの間にか日は大きく西に傾いていた。

 歩道を行き交う下校中の中学生、買い出し中の飲食店店員、電話中のサラリーマン。

 目の前で、太り過ぎの雑種犬がいやいやといった感じで飼い主に散歩させられている。

 食べログ国内上位にランクインしたラーメン屋の前には、早くも行列ができはじめていた。

 ──時刻は、十六時過ぎ。

 総武線沿いのこの街は、こんなちゆうはんな時間にも人通りが途切れない。

 あと三十分足らずで、はるの人格はあきに入れ替わる。


「……ふふふ」


 ふいに、隣のはるが小さく笑い声を上げた。


「……どうしたんだよ?」

「ああ、あのね、なんだかこうして一緒に帰ってると……友達みたいだなって思って」


 そう言って、はるは照れくさそうに笑う。


「わたしたちね、ここに来るまでは施設にずっといて、友達なんて一人もいなかったんだ。その前も、学校でも浮いてて誰とも仲良くできなかった。だからこういうの、はじめてで……なんだか、友達っぽいなって……」


 その言葉に……僕ははじめて、あきはるのこれまでに思い至る。

 そうか、二重人格であった以上、この子たちはきっと、僕とは大きく違う毎日を過ごしてきた。だからもしかしたら、彼女たちにとっては……これがはじめての「当たり前の学校生活」なのかもしれない。


「……ていうか、友達だろ?」


 喫茶店前の黒板がディナーメニューに替えられるのを横目で眺めながら、僕はそう言う。


「……へ?」

「みたいも何も、僕ははるのこと……友達だと思ってるけど」


 一人の人間でありたい、という、似たような気持ちを抱いて。

 お互いに助け合おう、なんて約束までして。

 僕たちはもう、間違いなく友達だ。

 もちろん、他のやつが相手だったら、こんなこと絶対口に出しては言わないだろう。

 けれど──はるには。

 隣にいる彼女には、はっきりとそれを伝えておきたかった。

 そして──その瞬間はるに起きた変化を、僕は一生忘れないと思う。

 一瞬、はるは外国の言葉で話しかけられたようにぽかんとしたあと、

 ──ぱああああ、と、その顔に笑みを浮かべた。

 やわらかそうな頰が持ち上がる。黒目がちの目がらんらんと輝く。

 肌の色の明るささえも上がったように見える──幸福そうな笑み。


「そっか……そうか、これ、友達なんだ」

「ああ、そうだよ」

「うれしい……わたし、はじめてだよこんなの……」

「なら、よかったよ……」


 照れくささに頰をかく。

 らした視線の先で、小学生二人が追いかけ合うようにして公園に駆け込んでいった。


「そうだ!」


 ふいに彼女は思い付いたような声を上げると、


「もしよかったら……交換日記、やらない!?」

「……は!? 交換日記!?」

「マンガで見て、ずっと憧れてたの! わたしと、あきと、仲のいい友達で交換日記やるの!」

「あーそういう。でもあんま今日日そんなことするやつって、あんまりいないと思うけど……」

「え。ダ、ダメかな……?」


 雨にれた子犬みたいな顔になると、はるは首をかしげる。


「……あきも書くから、きっと楽しいと思うんだけど……」


 正直、面倒ではあった。

 小学生の頃、宿題として出された夏休みの日記はいつも最終日にまとめて書いていた。

 SNSで今日一日のできごとをつづる、なんてのにも興味はない。

 文章を読むのは好きだけど、自分で書くのはむしろ苦手なのだ。

 ただ……はるの言う通り、あきと交換日記ができるというのは少なからず魅力的だった。

 あの子の書いた文章が定期的に読める、あの子の考えを知ることができる。

 それは確かに、考えただけで胸が高鳴る。

 そして何より……、


「どう……?」


 友達にそんな顔をされては、断りようがなかった。


「……わかったよ」


 髪をかきながら、僕はそう言ってはるに笑った。


「やるか、交換日記」


 ──一生忘れられない表情が、一つ増えた。

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