むかし誰かが言った。──明るい星ほど暗い夜に墜ちる、と。
彼女がそんなことを思い出したのは、まず、その夜が久しぶりの新月だったから。
自分を明星に喩えるような自惚れを、彼女は持ち合わせない。が──彼女を知る者たちにとってはそうではない。全ての狩りには相応しい備えがある。人を狩るにも獣を狩るにもそう。まして相手が星であるなら、必要となる準備は他の獲物の比ではない。
その原則を踏まえて今夜、彼らは事に臨んだ。絶対の成功を期したその布陣を前に、だから彼女も素直に思ったのだ。なるほど確かに──この顔ぶれなら、星のひとつも墜とせよう。
「──くッ──!」
殺意に追われて木立を駆け抜ける彼女を、暗闇から生じた巨爪が薙ぎ払う。とっさに身をひるがえして杖剣で受けるが、流しきれない衝撃に体が浮き上がった。地面と足が離れた無防備な一瞬、追い撃ちの爪撃が風を切って走り、
「──ハァァッ!」
強く空中を踏みしめ、彼女はその一撃を両手の刃で迎え撃った。獲物を引き裂く寸前で逆に斬り落とされる巨爪。それで攻勢が途切れた瞬間、彼女はすかさず着地して反撃に移る。
「──ッ!?」
そこへ割り込むように襲いかかる黒い霧。目で見て取るより先に、悪寒に押されて彼女は身を躱した。避けきれなかった霧が左の肩を掠めていき、ぞっとするような不快感に全身が粟立つ。──それに気を向けている暇もありはしない。
「木々は薪に 融け落ちよ岩土 全き焦熱の内に」
頭上から紅蓮が落ちた。さながら炎の海より生じた波濤、一帯の木々を瞬時に炭化せしめる埒外の大焦熱。その恐るべき奔流を、彼女は両手の杖剣で迎え入れ──ぐるりと搔き混ぜ、散らす。一部分のみ熱波が逸れた。灼熱を浴びた地面は溶岩溜まりとなってごぽごぽと沸き立ち、彼女の立つ場所だけが、わずかに浮き島となって残される。
「──よく凌ぎなさる。足搔くだけ無駄と分かっていましょうに」
揶揄を込めて響き渡る男の声。彼女が見上げた暗い空を、青白い光が強烈に照らし出す。──新月の晩にあるまじき巨大な月が、そこに浮かんだ。
むろん、天体ではない。魔法によって造り出された光球だ。それ自体は手習いの子供でも使える初歩の魔法。だからこそ戦慄せずにはいられない──単なる明り取りの術を仮初の月にまで押し上げる、使い手の途方もない力量に。
偽りの月に照らされて、夜空に六つの影が浮かぶ。ある者はひときわ高い木の上に、ある者は宙に浮かぶ箒に、ある者は得体の知れない巨大な「何か」の肩に足を置き。星墜としの狩人たちは、それぞれの立ち位置から彼女を見下ろしている。
「──ッ──」
途端、彼女の左肩を猛烈なむず痒さが襲った。先ほど黒い霧が掠めた部位。違和感が生じて間もなく、服の内側からげらげらとしゃがれた笑い声が響き──布を嚙み千切って現れたのは、ひどく歪な人の顔。子供のこぶしほどの大きさの。
自分の肉体に浮かんだ異形の腫瘍を、彼女は躊躇いなく肩の肉ごと斬り落とす。濡れた音を立てて肉腫が地面に落ち、それを目にした影のひとつが悲しげな声を上げた。
「あぁぁぁ──酷いね、削いじゃうなんて。寂しいよ、寂しいよ。君と一緒にいさせてよぅ」
喉が潰れた羊のように不安定な声音。少女のようでいて、老婆のようでいて、泣いているようであり、嗤っているようでもあり──あるいは、そんな区別などとうの昔に失っているのかもしれない。辛うじて人語の体を残しているだけの、それはもはや悪霊の譫言と変わらない。
「テメェの仕事は灯り持ちか。いいご身分だな、ババア」
戦意を滾らせた女の声が響く。青白い光に切り取られたその影は五体の随所、とりわけ肩から先において明らかに人体を逸脱している。異様な発達を遂げた両腕は五つもの関節をそれぞれ有し、指と一体化した巨爪は打ち鍛えられた刃物のように鋭い。先の攻防で斬り落とされた部分さえ、彼女の見る前で瞬く間に生え伸びた。
「…………」
挑発的な言葉を投げられた影は、それでも杖を高く掲げた姿勢のまま黙して声を上げない。途方もない魔力の持ち主であることは明白だが、今は光球を浮かべる役割に徹しているようだ。逆光のために表情は窺い知れず、ただ背筋の伸びた佇まいから厳粛な為人が伝わるのみ。
「どうぞご自由に! キャハハハハハハハ!」
童子の無邪気さをもって響き渡る老爺の狂笑。小柄なその影を肩に乗せた「何か」──天を衝く巨軀が軋みを上げながら動き出す。さながら飛蝗を捕まえようとする子供の動作で、それは彼女へ向かって巨大な両手を振り下ろす。
「──斬り断て!」
その掌を、彼女は真っ向から迎え撃った。刹那に重なる剣閃。彼女を摑もうとしたふたつの掌がばらりと解け、無数の土塊となって地に落ちる。手首から先が失われた長大な腕に、彼女はすかさず跳び乗って走り出した。視線の先に敵をひたと見据え、
「■■■」
びたり、と体が硬直する。どんな呪文をかけられたのとも違う、より根源的な「停止」の命令が彼女を縛めた。それを成した老爺とはまた別の影を、彼女は驚愕をもって見返す。
「いい足止めだクソジジイども。──キツいのいくぜ、先輩!」
一瞬の停滞を衝いて異形の影が肉薄する。指と一体化した巨爪が渾身の力で握り込まれ、そうして完成した拳が一切の躊躇なく獲物へ叩き込まれる。肉と骨がひしゃげる鈍い音──耐える術などあろうはずもなく、彼女は地上へと叩き落とされる。
「──がぁぁぁぁぁッ! 痛ってぇぞクソがァァァァ!」
それでも黙ってやられはしなかった。異形の影が咆哮し、手から肩口まで寸断された右腕がばらばらと落下する。被弾の瞬間に彼女が残した置き土産だ。
「────ッ! は、ァ──!」
空中を蹴って跳ぶことで溶岩溜まりへの落下を避け、接地と同時に回転して受け身を取る。それで辛うじて命は繫がれた。──が、ダメージは隠しようもなく深刻だった。
全身の関節がガタつき、目から滴る血で視界が赤く染まる。人面瘡を斬り取った肩の傷からは出血が止まらず、他にも体中の負傷を数え上げればキリがない。苦悶を通り越して笑いすらこみ上げた。──自分がまだ生きていること自体、何かの冗談のようだ。
彼女にも分かっている。この六対一に勝機など絶無。振り切って逃げ果せる希望すら紙のように薄い。だが──諦めなど思いもよらない。絶望的な戦いなら魔法使いとして生きる間にいくらも経験してきた。今回はその中でもとびきりの一戦、ただそれだけのことだ。
「──ァァァアア!」
そして何より、決めている。──こんな生き方を自分の代で終わらせると。己のやり残しを次代に押し付けはしまいと。その誓いが彼女に膝を折らせない。猛る魔力が全身を巡り、満身創痍の体をなおも奮い立たせ、
「こちらです、先輩!」
彼女のよく知る声が耳に届き、眩い閃光が戦場に割り込む。夜闇を切り裂き視界を白一色に染め上げる強烈な魔法の光──それが保たれているわずかな間に、彼女は何者かに手を引かれて走り始める。
木立の暗闇をしばらく走り抜けると、地面にぽっかりと空いた穴が彼女を迎え入れた。手を引く相手と共にその中へ飛び込み、なおも足を緩めず奥へとふたりで駆けていく。いくつかの分岐を抜けて、追い立てる狩人たちの気配が遠くなると、彼女らはようやく足を止めた。
「…………助かった、よ。まさか、あの地獄から逃れて、一息つけるとは」
切れ切れの声で言いつつ、彼女はそっと周りを見渡す。──洞窟の奥深くまで来たが、所々に置かれた鉱石ランプのおかげで周囲の空間はほの明るい。あらかじめ人の手が入った場所のようだ。
「すぐに追撃がない……ということは、この場所は彼らから隠れおおせているんだね。君の用意した抜け道かい? 大したものだ、一体どうやって──ッ」
感心を込めて彼女が口にしかけた瞬間。その背中を、鮮やかな熱が貫いた。
「──エミ、ィ──?」
震える声で相手を呼ばわり、彼女は呆然と自分の胸元を見下ろす。──刃の切っ先がそこにあった。背中から心臓を貫いた杖剣の、自らの血に濡れたその刀身が。
「……ごめんなさい。私にはもう、これしか」
嗚咽混じりの声が背後から響く。彼女もそれで全てを理解した。──相手は六人ではなかったのだ。自分を仕留めるために集った星墜としの狩人たち。彼女こそは、その最後にして決定打となるひとり。
「でも、安心してください。……彼らに渡しはしません。あなたの魂の一片たりとも」
力の抜けていく彼女の体が、背中から優しく抱きしめられる。相手に刃を突き立てながら、そこに宿る愛情に一切の偽りはない。そう──だからこそ、彼女も今まで気付けなかった。
「ずっとずっと、お慕いしています。──永遠に一緒ですよ、先輩」
そう語る相手の瞳こそ、この暗い夜でもっとも底知れない闇を湛えた深淵。その奥底に──薄れゆく意識の中、彼女は自分の魂が吞まれていくのを感じた。