5.水の中に落ちる ⑥

 今はもうとっくにそうではないと気づいている。彼女がやはり、人とは違うのだということも。


 オスカーは目を開けると、アカーシアを握り直した。子供のようにな瞳で自分を見てくる女へ歩を進める。女の横に立つラザルを一瞥すると、彼はひどく悲しげな表情を浮かべていた。

 その目を一生忘れることはないかもしれないと、オスカーは思う。

 それでも、譲れないものはあるのだ。


「恨み言は城で聞く」


 返事はない。女は幸福そうに微笑んでいる。

 御伽噺の終わりは、いつも無慈悲で唐突だ。

 そしてオスカーは、己の剣を振り上げた。



 城に戻った一行は、城門で待っていた者たちに迎えられた。

 魔法着姿のティナーシャは、オスカーを見ると頷く。


「お疲れ様です。魂ちゃんと戻りましたよ」


 にっこりと微笑む彼女の肩にナークが降り立つ。彼女は自慢げなドラゴンを見上げると、小さなその頭を撫でた。一方アルスは、馬を兵士に渡しながら零す。


「俺とか森の中でずっと同じところをぐるぐる回ってたよ……ちょっと泣きそうだった」

「見事に目くらましに引っかかってますね」

「うう……」


 同じ目に遭っていたドアンとスズトもげっそりしている。オスカーはそんな彼らをねぎらった。


「ともかく助かった。後は俺が処理しとくから休んでろ。ティナーシャ、ラザルはどこにいる?」

「同じ部屋にいますよ。私も後で行きますので」

「分かった」


 魔女はまだ用事があるらしい。鼻歌混じりに詠唱をしながら城門を出て行った。その背を見送って、オスカーは一人病室へと向かう。

 足取りを重くはしない。自らの選んだことだ。そこに後悔を見せては他の者たちが救われない。

 だからオスカーは、表情を変えぬまま部屋の中に歩み入った。

 寝台にいたラザルが、彼に気づいて半身を起こす。


「殿下……」

「寝てていい」


 魂を抜かれていたせいか、ラザルの動きはまだぎこちない。

 だが彼はよろめきながらも寝台を下りると、オスカーの前に跪いた。深くこうべを垂れる。


「ご無礼を……申し訳ありません」

「俺は謝る気はない。……お前もその必要はない」


 たとえ同じ道を行こうとも、自分たちは違う人間だ。

 そうであることを知っている。だからこそ、友人でいられるのだということも。

 ラザルは顔を上げなかった。代わりに涙の混じる声を洩らす。


「明日からは……また全力で仕えさせていただきます」

「調子が戻るまで休んでろ」


 どれ程親しくとも、言葉にしてしまえることは多くない。

 だからオスカーはそっけなく、しかし親愛のこもった声で返した。




「まだ本調子じゃないんだから起こしちゃ駄目ですよ」


 水の入った円器を持って魔女が入ってきた時、ラザルは既にあらがえない眠りに落ちていた。

 彼女が円器の上で布を絞っているのを眺めながら、オスカーは尋ねる。


「さっきは何してたんだ?」

「城の結界を強化してました。魔法士の不審者も捕捉できていないですし、これ以上の侵入は御免ですからね。私がここにいる限り、この城に正面以外から入りこむことはできませんよ」

「……お前がいると、どんどん強化されていくな……」


 一年の間にどれだけ様変わりしてしまうのか。空恐ろしくもあるが、彼女にとっては大したことではないのだろう。何かを気まぐれで守ることなど、きっとお茶に砂糖を入れるようなものだ。さいで、すぐに過ぎ去って、ただ思い出だけが残る。そうして彼女が七十年前、この城を去っていった時のように。

 オスカーは、守護者の背をじっと見つめる。


「お前、俺と結婚してファルサスに永住しないか?」

「しないよ! ……ってどうしたんですか」


 オスカーの言葉にいつものからかいと違うものを感じてか、ティナーシャは振り返った。彼は真摯な眼差しで魔女の闇色の目を見返す。


「お前は何百年も一人で、淋しくないのか」


 彼女の芯に触れようとする問い。

 魔女は一瞬きょとんとしたが、その質問に苦笑した。


「そりゃちょっとは淋しいですけど、そういうものだと思ってますから」


 急にどうして? と答える彼女の目に、オスカーは少しの哀切と、そして残酷さを見た。

 この魔女には、森に消えた憐れな水妖のように、失っては生きていけない、いつまでも心を捕らえて放さない存在がいないのだ。

 だから永い時を渡っていける。

 ただ美しく、泰然と、孤独に。

 彼女は儚い人間たちの生を、遠くの出来事として眺めている。

 その別離に、死に、悲しむことはあっても狂うことは無い。

 彼女の絶大な力より、その寂漠より、この残酷さこそがより彼女を魔女たらしめている。

 そしておそらく彼女は、自分のその残酷さを知っているのだ。


「ティナーシャ」

「はい、なんですか」

「お前は、いつでも俺のところに来ればいい」


 時を越え続ける彼女が、いつか去っていくばかりの全てにむ日が来たとしたら。

 その時は、自分のところに来ればいい。たとえどんな時でも同じように彼女を迎えるだろう。


「変わらないものが欲しくなったら、俺がそうだ。覚えておけばいい」

「なんですか急に……。貴方の頑固さがずっと変わらないなんて、恐いですよ」


 ティナーシャは目を閉じて微笑む。

 何にも捕らわれない漂白されたそんな顔を見て、オスカーは今、彼女に触れたいと思った。

刊行シリーズ

Unnamed Memory -after the end-VIの書影
Unnamed Memory -after the end-Vの書影
Unnamed Memory -after the end-Extra Fal-reisiaの書影
Unnamed Memory -after the end-IVの書影
Unnamed Memory -after the end-IIIの書影
Unnamed Memory -after the end-IIの書影
Unnamed Memory -after the end-Iの書影
Unnamed Memory VI 名も無き物語に終焉をの書影
Unnamed Memory V 祈りへと至る沈黙の書影
Unnamed Memory IV 白紙よりもう一度の書影
Unnamed Memory III 永遠を誓いし果ての書影
Unnamed Memory II 玉座に無き女王の書影
Unnamed Memory I 青き月の魔女と呪われし王の書影