5.水の中に落ちる ⑥
今はもうとっくにそうではないと気づいている。彼女がやはり、人とは違うのだということも。
オスカーは目を開けると、アカーシアを握り直した。子供のように
その目を一生忘れることはないかもしれないと、オスカーは思う。
それでも、譲れないものはあるのだ。
「恨み言は城で聞く」
返事はない。女は幸福そうに微笑んでいる。
御伽噺の終わりは、いつも無慈悲で唐突だ。
そしてオスカーは、己の剣を振り上げた。
※
城に戻った一行は、城門で待っていた者たちに迎えられた。
魔法着姿のティナーシャは、オスカーを見ると頷く。
「お疲れ様です。魂ちゃんと戻りましたよ」
にっこりと微笑む彼女の肩にナークが降り立つ。彼女は自慢げなドラゴンを見上げると、小さなその頭を撫でた。一方アルスは、馬を兵士に渡しながら零す。
「俺とか森の中でずっと同じところをぐるぐる回ってたよ……ちょっと泣きそうだった」
「見事に目くらましに引っかかってますね」
「うう……」
同じ目に遭っていたドアンとスズトもげっそりしている。オスカーはそんな彼らを
「ともかく助かった。後は俺が処理しとくから休んでろ。ティナーシャ、ラザルはどこにいる?」
「同じ部屋にいますよ。私も後で行きますので」
「分かった」
魔女はまだ用事があるらしい。鼻歌混じりに詠唱をしながら城門を出て行った。その背を見送って、オスカーは一人病室へと向かう。
足取りを重くはしない。自らの選んだことだ。そこに後悔を見せては他の者たちが救われない。
だからオスカーは、表情を変えぬまま部屋の中に歩み入った。
寝台にいたラザルが、彼に気づいて半身を起こす。
「殿下……」
「寝てていい」
魂を抜かれていたせいか、ラザルの動きはまだぎこちない。
だが彼はよろめきながらも寝台を下りると、オスカーの前に跪いた。深く
「ご無礼を……申し訳ありません」
「俺は謝る気はない。……お前もその必要はない」
たとえ同じ道を行こうとも、自分たちは違う人間だ。
そうであることを知っている。だからこそ、友人でいられるのだということも。
ラザルは顔を上げなかった。代わりに涙の混じる声を洩らす。
「明日からは……また全力で仕えさせていただきます」
「調子が戻るまで休んでろ」
どれ程親しくとも、言葉にしてしまえることは多くない。
だからオスカーはそっけなく、しかし親愛のこもった声で返した。
「まだ本調子じゃないんだから起こしちゃ駄目ですよ」
水の入った円器を持って魔女が入ってきた時、ラザルは既にあらがえない眠りに落ちていた。
彼女が円器の上で布を絞っているのを眺めながら、オスカーは尋ねる。
「さっきは何してたんだ?」
「城の結界を強化してました。魔法士の不審者も捕捉できていないですし、これ以上の侵入は御免ですからね。私がここにいる限り、この城に正面以外から入りこむことはできませんよ」
「……お前がいると、どんどん強化されていくな……」
一年の間にどれだけ様変わりしてしまうのか。空恐ろしくもあるが、彼女にとっては大したことではないのだろう。何かを気まぐれで守ることなど、きっとお茶に砂糖を入れるようなものだ。
オスカーは、守護者の背をじっと見つめる。
「お前、俺と結婚してファルサスに永住しないか?」
「しないよ! ……ってどうしたんですか」
オスカーの言葉にいつものからかいと違うものを感じてか、ティナーシャは振り返った。彼は真摯な眼差しで魔女の闇色の目を見返す。
「お前は何百年も一人で、淋しくないのか」
彼女の芯に触れようとする問い。
魔女は一瞬きょとんとしたが、その質問に苦笑した。
「そりゃちょっとは淋しいですけど、そういうものだと思ってますから」
急にどうして? と答える彼女の目に、オスカーは少しの哀切と、そして残酷さを見た。
この魔女には、森に消えた憐れな水妖のように、失っては生きていけない、いつまでも心を捕らえて放さない存在がいないのだ。
だから永い時を渡っていける。
ただ美しく、泰然と、孤独に。
彼女は儚い人間たちの生を、遠くの出来事として眺めている。
その別離に、死に、悲しむことはあっても狂うことは無い。
彼女の絶大な力より、その寂漠より、この残酷さこそがより彼女を魔女たらしめている。
そしておそらく彼女は、自分のその残酷さを知っているのだ。
「ティナーシャ」
「はい、なんですか」
「お前は、いつでも俺のところに来ればいい」
時を越え続ける彼女が、いつか去っていくばかりの全てに
その時は、自分のところに来ればいい。たとえどんな時でも同じように彼女を迎えるだろう。
「変わらないものが欲しくなったら、俺がそうだ。覚えておけばいい」
「なんですか急に……。貴方の頑固さがずっと変わらないなんて、恐いですよ」
ティナーシャは目を閉じて微笑む。
何にも捕らわれない漂白されたそんな顔を見て、オスカーは今、彼女に触れたいと思った。



