5.水の中に落ちる ⑤
「
「同感です……」
「それにしても、湖に棲む娘か」
ティナーシャは水妖の可能性を疑っていたが、この話を聞くとますます怪しい。何の理由かは分からないが、ラザルは人ならざる女に見こまれてしまったのだろう。抜かれた魂はもって三日だというが、まだ一日も経っていない。こんなところでラザルが失われてしまうことなどないはずだ。オスカーは自分にそう言い聞かせる。
幼馴染である二人は、幼い頃から共に城で育った。きっと兄弟よりも互いのことを知っている。
オスカーは、自分の後をついて回るラザルの、人を疑わない微笑を思い出す。
「
そう苦笑はしてみたものの、胸に
──その時、考え事をしていた彼の頭に、引き返してきたナークがぶつかった。
「こら、危ないだろ」
オスカーは頭に張り付くナークを引き剝がす。改めて周囲を見た彼は、いつの間にか自分とナークしかそこに居ないことに気づいた。
「しまった」
いつ何をされたのか、気づかない間に分断されてしまったらしい。ここまでアルスが枝を切り拓いて進んでいたというのに、後ろを振り返っても枝葉が生い茂っている。
「不味いな……アルスは心配ないだろうが、他の二人はどうかな」
ドアンもスズトも腕の立つ人間だが、こんな森では何が起きるか分からない。
オスカーは彼らを心配しながらも、枝を切り除くために剣を抜く。とりあえずナークが首を伸ばして示す方向へと進み始めた。オスカーは道案内をしてくれる小さなドラゴンに感謝する。
不意に足元で、ピシャン、と音がした。
見ると張り巡らされた木の根の隙間に、僅かな水が溜まっている。どうやらここから先は徐々に湖が浸食しているようだ。彼は一層の注意を以て足を踏み出す。
──次の瞬間、オスカーは何かを感じて身を屈めた。
背後から、頭上を風が通り過ぎていく。「それ」は前方の枝に止まると、キッキッと高い笑い声をあげた。見ると
「来たか」
オスカーはもう一度木の根と水に覆われた足場を確認してアカーシアを構えた。それを待っていたように小鬼たちが飛びかかってくる。
彼はまず、跳んできた小鬼に空の左手をかざした。
小鬼は手にぶつかる直前で守護結界に衝突する。空中でよろめく小鬼を、オスカーは正面から来た一匹と共に薙ぎ払った。そうして彼は一歩下がると、横から飛びかかってきた一匹を避ける。標的を見失った小鬼は勢いのまま木に衝突した。その間にも次の一匹が襲ってくる。
「羽虫みたいだな……きりがない。どんどん行くか」
いちいち足を止めて迎撃していては際限がない。オスカーは小鬼や枝を避け、邪魔なものは斬り落としながら足場を探して進んで行った。奥に行くにつれ次第に水が深くなっていき、水上に出ているのは太い根ばかりになっていく。
やがて根の数も減った頃には、追ってくる小鬼もほとんどいなくなった。ようやく彼が一息ついた時、ナークが彼の肩を離れ、ゆらゆら前方に飛び立つ。
「どうした、ナーク」
何もない木々に向かってドラゴンは口を開く。
『──結界を破壊しろ』
それは最初から与えられていた役目だ。主人の命に応えて、ナークは空間を焼く炎を吐いた。
森の中に跳ね返る炎。熱気が渦巻き水面を揺らす。視界を焼く赤色にオスカーは顔を顰めた。
だがすぐにその火熱も過ぎる。
そうして炎が晴れた後に現れたのは──不自然な木の切れ間だ。
左右に生えた木が、まるで小さな門を形作るようにお互いの枝を絡ませている。今まではまったく見えていなかった門に、オスカーは感嘆の声を上げた。
「
これが、魔女に口煩く注意された精神系の魔法なのだろうか。
感心しながらオスカーが木々の門をくぐると、その先は小さな広場になっている。平らな地面には足首が
そしてその中央に横たわる流木には、緑の髪を持つ美しい女と──彼の幼馴染が腰かけていた。
「ラザル!」
名前を呼ばれた彼は、ゆっくりオスカーを振り返る。
その姿はまるで実体のように見えるが、ラザルの本当の体は城の魔女のところにあるはずだ。それを頭の中で確認しながら、オスカーは手を伸ばした。
「迎えに来た。帰るぞ!」
「殿下……」
ラザルの呟きに、隣にいた女が不安げな表情を浮かべた。青白い手で傍にある彼の腕を摑む。ラザルは女の悲しげな顔を見つめた。穏やかな感情が眼差しに浮かぶ。
彼は再びオスカーに視線を戻すと、目を伏せてかぶりを振った。
「こんなところまで私のために来てくださって恐縮の至りです……。でも私は帰りません。申し訳ありません」
予想だにしなかったラザルの返答に、オスカーは一瞬耳を疑った。眉を顰めて聞き返す。
「何だそれは。冗談は生身で言え」
冗談以外であるはずがない。ラザルはきっと、自分がどんな状態であるか分かっていないのだ。
オスカーはアカーシアを握ると一歩踏み出す。それを見た女が怯えてラザルに
「待ってください、殿下。彼女は恋人に裏切られたんです。結婚の約束もしていたのに、別の女性のところに……」
オスカーは不愉快さに顔を歪めた。例の御伽噺が事実だとしたら、彼女の過去には同情する。だが、どんな不幸があろうとも、それがラザルを連れ去っていい理由にはならないのだ。被害者にもかかわらず人の良すぎる友に向かって、オスカーは吐き捨てた。
「だったらその恋人を連れに行けばいい」
「もう何百年も前の話なんです。あの朽ちた城をご覧になったでしょう。とっくに死んでます。でも彼女には……」
ラザルは女を振り返る。
彼女はラザルの視線を受けて、にっこりと微笑んだ。
ようやく見つけてもらえた迷子のような、
ラザルは彼女の笑顔に愛おしげな目を向けた。それはひどく優しい、それでいて揺るぎない情だ。
オスカーはそんな幼馴染に緊張を覚える。
「……お前が死ぬぞ」
──ラザルの人の良さはいつか命取りになると、昔から思っていた。
しかしそれでも、自分の傍にいる限りは何とかできる自信があったのだ。こんな風に伸ばした手を拒否されるとは思ってもみなかった。
ラザルは彼の主人を見て、いつものように申し訳なさそうに微笑んだ。
「だとしても構いません。何百年も彼女はずっと独りだった。死にたくて死ねなくて……恋人を殺したくて殺したくなくて……。私は彼女を救ってあげたいです。それが無理なら慰めを」
せめてそれぐらいの救いがあればいいと、ラザルは願うのだろう。願って、自ら手を差し伸べられる。そういう芯の強さを持っている。だから女もきっと、彼に惹かれたのだ。
オスカーはよく知る幼馴染のそんな姿に焦りを覚える。
「思い上がるな。それはお前がすべきことか?」
厳しい言葉に、ラザルはしかし苦笑しただけだ。彼は真っ直ぐにオスカーを見つめる。
「殿下は彼女を見て、何とも思われないのですか?」
意図の分からない問いを、オスカーは一瞬怪訝に思い、だがすぐに理解した。
何百年もの孤独。
人にして人に
ラザルは言外に、この憐れな水妖を見て──絶大なる魔力を持って一人生き続ける、彼の魔女を想起しないのか、と問うているのだ。
自然とオスカーは溜息を零した。
目を閉じる。
塔の上で見た魔女の愁いが、魔法湖に出立する時の
そんな目をほんの時々にしか見せない彼女を、だからオスカーは、まるで守る人間が必要な本当の少女のように思っていたのだ。



