5.水の中に落ちる ④

 その理由はすぐに分かった。事情を聞いてティナーシャが駆けつけた時には、現場には既に数人の人間が集まっていた。廊下の隅に横たえられているラザルには外傷はないが、何をしても目を覚まさない上に、体は氷のように冷えきっている。彼女はラザルを見るなり、ぽつりと言った。


「魂が抜かれてる」

「魂って……助かるのか?」


 オスカーの言葉に魔女は唇を嚙んだ。魔力を両手に集めると、ラザルの体に触れる。


「体は私が維持しますが……魂はもって三日です。早く取り戻さないと四散します」


 ティナーシャは周囲にいる兵士に声をかけて、ラザルを別室に運ぶよう頼んだ。


「一応探してみますが、魂はきっともう城内にはありませんね……。持ち去られたと思っていいでしょう。幽霊を見ました?」

「見た。青白い肌で緑の髪の女だ。剣をすり抜けた。水でも切ったような手ごたえだった」

「水妖かな……」


 振り返ると廊下にみずたまりができている。ティナーシャは眉を顰めた。


「とにかく城にいる者全員に、最近水辺に行かなかったか話を聞いてください。水妖は普通自分の棲み家を離れませんから。何かここに来てしまった理由があるはずです」

「分かった」


 魔女は運ばれるラザルを追って駆けて行く。

 一方オスカーは人を集めるためにそのまま踵を返した。


 詰め所に残っていた者は深夜にもかかわらず、あわただしく起こされ一人ずつ話を聞かれた。

 スズトも勿論その中の一人として呼ばれたが、黙って彼の話を聞いていたアルスは、スズトを伴うと城内の一室を訪れた。

 普段城内にほとんど立ち入らない彼が、部屋に入ってまず気を取られたのは、正面の窓際に置かれている寝台だ。そこには誰かが寝ており、傍らに女が背を向けて立っている。長い黒髪をスズトはどこかで見た気がした。


「──来たか」


 右手から男の声がかけられる。その声はスズトもよく知るものであったので、彼は声のした方に向かって最敬礼をした。オスカーは椅子に座ったままスズトを促す。


「聞かせてくれ」

「は、はい。先日生家に戻った際、近くにある湖に寄りました。散策していたところ、その湖の付近にれた噴水がありまして、水が出る部分に石が詰められていたので、それを……」

「取り除いたのか」

「はい」

「その時何か変わったことは?」

「何も起こりませんでした。水が少し出て手にかかっただけです」


 オスカーは腕組みをすると窓辺を見やった。


「ティナーシャ、どう思う?」

「当たりだと思います」


 振り返った女の姿を見て、スズトは声を失った。

 黒絹のような髪に白磁の肌、闇色の瞳は薄暗い部屋の中、不思議な引力を帯びていた。

 人外の美貌は、青く冴える月夜を人の形に閉じこめたようだ。仲間たちが騒ぐのがよく分かった。


「その噴水はもともと水妖の棲む湖底に繫がってたんでしょう。石でそれを封じてたんです」

「封印が解けたことで湖底に繫がったのか」

「多分スズトにかかった水を追って、ここまで来たんじゃないですかね。何故ラザルが連れ去られたのかは分かりませんが」


 自分の名前を呼ばれてスズトは一瞬ぎょっとしたが、すぐこの女性が一緒に稽古をしていた少女と同一人物であることを思い出した。彼は、突然出てきたラザルの名に不安を覚える。


「あの……俺何かまずいことを……?」

「それについては後で説明する。ともかくすぐに出立しよう。お前、湖まで案内を頼むぞ」

「は、はい!」


 スズトは敬礼すると、アルスと共に部屋を出て行った。オスカーは立ち上がると、寝台に歩み寄りラザルの顔を覗きこむ。目覚めない幼馴染にオスカーは呟いた。


「少し待ってろ。何とかする」


 静かな声に、ティナーシャが契約者を心配そうに見上げる。


「やはり貴方が行くんですか?」

「他に誰がいる」


 魔女は帯剣されたアカーシアを見て小さく息をついた。


「守護結界は一部の魔物や妖精が使う精神系の術は防げないので気をつけてください。感覚を信じて虚構に囚われないように。あと……」

「何だ?」


 ティナーシャは若干言い渋ったが、口を開いた。


「もし貴方が命の危険にさらされた場合、私は守護者として貴方のところに向かいます。その場合ラザルの延命はできなくなる。……分かりますね?」


 オスカーは少なくとも表面的には動揺を見せなかった。彼女を見下ろすと小さな頭を撫でる。


「分かってる。だからそんな顔をするな」


 彼女の顔がひどく心細げな、泣き出しそうな表情に見えたのは、月の作る陰影のせいだったかもしれない。しかし魔女は何も言わず、口元だけで微笑む。


「余裕で勝ってくる」


 オスカーはそう言うと、ラザルの青白い顔から視線を外し部屋を出て行った。



 月の下、城を出立したオスカー、アルス、ドアン、スズトの四騎は、スズトを先頭に東へと馬を走らせた。問題の湖までは普通に向かって三時間、急げば二時間ほどで着く距離である。

 城を出た際、闇の中を大きな鳥が飛びかかってきてオスカーは剣を抜きかけたが、すぐにそれがナークであることに気づいた。ナークは一声鳴くとオスカーの肩に止まる。


「な、なんですかそいつ」


 スズトは初めて見るドラゴンを恐る恐る指差した。オスカーはナークの喉を搔いてやる。


「心配性がよこしたんだろう」


 オスカーが城を抜け出すことにもいい顔をしない彼女だ。防御結界が効かないかもしれない相手のところに、一人で行かせたくはないのだろう。オスカーはナークが落ちないよう気にしながら速度を上げる。

 休憩もなく馬を走らせ、一行が湖の傍についた頃には空が白み始めていた。小さな森の向こう、木立を抜け湖が見えるところまで来ると、見事な風景にドアンは感嘆する。


「これは……すごいですね」


 大きな湖の西半分には森がかかっている。東半分には湖に接する丘があって、上には古い城が建っていた。朽ちかけた城の庭園は丘の下まで広がり、湖水がそれを半ば浸している。水の中に白い円柱が立ち並ぶ様は、まるでここが異界であるかのような印象を一行にもたらした。

 幻想的な光景に、オスカーが暢気な感想を漏らす。


「ティナーシャを連れてきたら喜ぶかな」

「せっかくですから転移座標を取得しましょうか、殿下」

「その方があとあと便利か。頼む」


 座標取得の詠唱を始めるドアンと別に、スズトは食い入るようにして湖を見つめた。


「こ、この前来た時には、庭にまで湖は浸食してなかったんですが……」

「…………」


 黙りこむ三人を見て、スズトは自分がしてしまったことの重大さを身に染みる。

 ──そんなに大したことをしたとは、その時は思わなかった。ただしつように、粘着質に詰められていた石が何となく気持ち悪かった。だから取り除いて綺麗にしてやりたかっただけだ。

 オスカーはそんな臣下の心情を思いやるように、馬を降りると軽く言った。


「気にするな。何とかするさ。とりあえず湖に潜ればいいのか?」

「いえ、森の方に濃い魔力を感じます。先にそちらに行ってみましょう」


 ドアンの指摘の正しさを示すように、ナークがオスカーの肩を離れ、森の方へと飛び始める。人間たちはそれを追いかけて歩き出した。

 森の中はうっそうと暗く、昇り始めた陽も充分にその手を及ぼすことができない。ナークは道もない森の中をふわふわと飛んで行くが、小さな道案内についていくために、先頭にいるアルスは剣を抜いて枝を切りながら進まねばならなかった。


「殿下、足元にお気をつけください」

「魔力が随分濃いですね……霧のようです」


 ドアンはそう言うが、魔法士でない他の三人にはさっぱり分からない。一行ははぐれないように注意しながら森の奥へ踏み入っていく。オスカーは頭上に茂る木々を見ながら、スズトに問うた。


「あの城は、確か昔の領主のものだったよな。今は放置されているのか?」

「近くに住む者は近寄りません。子供の頃聞いた話も、あまりいいものではありませんでしたし」

「どんな話だ?」

「湖に棲む娘の話です。領主の息子が美しい娘に出会って求婚するんですが、娘は自分が人間でないことを理由にそれを断るんです。ですが息子は譲らずに、二人は結婚することになります。ただその後まもなく息子は他の女性に心変わりし、娘は泣きながら湖に去っていく、という話です」

刊行シリーズ

Unnamed Memory -after the end-VIの書影
Unnamed Memory -after the end-Vの書影
Unnamed Memory -after the end-Extra Fal-reisiaの書影
Unnamed Memory -after the end-IVの書影
Unnamed Memory -after the end-IIIの書影
Unnamed Memory -after the end-IIの書影
Unnamed Memory -after the end-Iの書影
Unnamed Memory VI 名も無き物語に終焉をの書影
Unnamed Memory V 祈りへと至る沈黙の書影
Unnamed Memory IV 白紙よりもう一度の書影
Unnamed Memory III 永遠を誓いし果ての書影
Unnamed Memory II 玉座に無き女王の書影
Unnamed Memory I 青き月の魔女と呪われし王の書影