5.水の中に落ちる ③
「伝説ですとトゥルダールには十二の上位魔族が『精霊』という名で封印されてたそうなんです。で、王位継承時に新王がその中から一体から三体選んで自分の使い魔にしたっていう。とは言っても昔の話ですし、上位魔族を複数も使役できるとは思えないんで眉唾な話ですけどね」
魔法史を語る彼らに、ティナーシャは苦笑する。
「その手の概念存在は、上位になればなるほど人間に興味がなくなるんですよ。力の差がありすぎますからね。貴方たちだって、わざわざ虫をつついて苛めたりはしないでしょう?」
さらりとした魔女の言葉に、他の人間は顔を見合わせる。オスカーは興味津々に問うた。
「お前から見ても、上位魔族ってのはそんなに力の差があるのか?」
「私だったら圧勝できますね。さすがに最上位相手ともなると大変ですけど」
「おい」
つまりは魔女と他の人間の差もそれだけあるということだろう。彼女は目を閉じたまま微笑んだ。
「だから、城で目撃されたものも、それほど上位の魔族じゃないと思いますよ。そんなのが入りこんで来てたらさすがに私が気づきます」
「とんだ幽霊騒ぎだな。後で調査を出そう」
オスカーは時計を見ると立ち上がった。
「さて仕事だ。ティナーシャ、お前はどうする?」
「私、服買いに行ってきます。体に合わなくなっちゃったんで。シルヴィア、案内してくれるって約束ですよ」
「あ、はい……はい!」
シルヴィアは恐怖をふっきろうとしているのか、気合の声を上げて立ち上がった。黒髪の魔女と金髪の魔法士が並ぶのを見て、カーヴはラザルに耳打ちする。
「あの二人が一緒にいると目立ちますね」
それが聞こえたのか聞こえないのかオスカーは振り返って二人を眺める。彼はまだ顔色の悪いシルヴィアに声をかけた。
「黒か白の服を選んでやってくれ」
「はい……どうしてですか?」
「俺が好きだから」
「そんなの知るか!」
魔女は右手で小さな光球を作ると、部屋を出て行くオスカーに投げつけた。しかしその光球は背中に当たる直前で、彼女自身の守護結界にぶつかって四散する。
彼は振り返らないまま、笑い声を上げて扉の向こうに消えた。苦々しい顔で契約者を見送ったティナーシャは長い黒髪を払うとシルヴィアを手招いた。
「ほら、行きましょう。オスカーの話は真に受けなくていいですからね。服は自分で選びます」
「あ、はい……」
廊下を歩き出したティナーシャは、両手を上げて伸びをする。少女姿だった時には十六歳だった肉体年齢も、今は十九歳だ。身長は大して変わっていないが、体のあちこちが女性らしい曲線を描いている。今は城の魔法着を着ているティナーシャは、よく晴れた窓の外を見上げた。
「ファルサスって妙に暑いですし、服を替えるのにいい機会です」
「ここで暮らしてると気温には慣れてしまうんですけどね……」
シルヴィアの
「あの、わたし本当にああいう話が苦手で……すみません」
「気にしない気にしない。誰だって苦手なものはありますよ」
「ティナーシャ様も苦手なものあるんですか?」
「様はやめてください……」
窓からは兵士たちの訓練場が見える。剣を打ち合う彼らを見ながら、ティナーシャは苦笑した。
「昔は結構苦手なものあったんですけど、長く生きているうちに摩耗してしまったというか……。今はそうですね、『寝かされること』がまだ苦手ですね」
「何ですか、それ。子供にする寝かしつけのことですか?」
シルヴィアは首を傾げて聞き返した。だが魔女はそれについて微笑んだだけで何も言わない。代わりに別のことを思い出し苦い顔になる。
「あとオスカーが苦手。何考えてるか全然分からないから。あの人、私のことを拾ってきた猫か何かと間違えてるんじゃないですかね……」
どう考えても扱いがそれと同じだ。彼女が魔女だということも、猫の毛並みの一種くらいにしか思っていないのではないだろうか。魔獣の一件で少しは忌避されるかとも覚悟していたが、今のところまったく以前と変わりがない。拍子抜けにも程がある。
困惑を隠せない魔女に、シルヴィアは困ったように返した。
「ちゃんと仲よく見えますよ」
「ええ……? ちゃんとって……」
釈然としない顔で黙りこむ魔女に、シルヴィアは噂話の恐怖も忘れたのか声を上げて笑った。
※
「幽霊がいるんだって?」
城内は二、三日前からその噂で持ちきりだ。詰め所内での雑談に、まだ若い兵士のスズトは剣を磨いていた手を止める。
「幽霊? 初めて聞いた」
「つい最近だよ、ほらお前が帰省から戻ってから」
「なんだ、本当に最近だな」
言われてスズトは納得する。ほんの三日前まで彼はファルサス東部の生家に戻っていたのだ。森と湖に囲まれた美しい土地だが、城に仕官するようになってから三年ほど帰っていなかった。今回の休暇では久しぶりに両親を訪ねて、ついでに湖にある古城も見に行ったのだ。
納得して剣磨きに戻るスズトに、一人がにやにやと笑いながら話しかける。
「そう言えばさ、お前もう魔女は見た? すごいよ。前も美人だったけど」
「戻ってきてからは会ってない」
魔女というのは、時々剣の稽古に来ていた魔法士の少女のことらしい。王太子は「魔女の塔から見習い魔法士を連れ帰った」と言っていたが、本当は彼女自身が魔女だったのだ。
御伽噺でしか知らない、この大陸に五人しかいない力の体現者。そんな人間が実在して、同じ城にいるのは不思議な気もするが、ただそれだけだ。野次馬根性を働かせる気はない。
けれどそっけない様子のスズトに対し、他の兵士たちは色めき立っている。
「あれは見るべきだと思うな。傾世の美女ってああいうのを言うんだよ」
「殿下も夢中みたいだし、ついにファルサスは魔女の手に落ちるな」
楽しそうに笑い合う仲間たちにスズトはようやく顔を上げた。笑い合う彼らに冷たい目を注ぐ。
「お前らひでぇな。彼女がここに来てた時話しただろ。優しいしいい子だったじゃないか」
「まぁそうなんだけど……」
無責任な噂話は、空気が抜けたようにあっという間にしぼんでしまった。
※
夜の廊下は、城内であっても薄暗く不気味だ。
等間隔で壁につけられている燭台の明かりが、ちりちりと微かに揺れている。その明かりは廊下を行く二人の影を長く照らしていた。ラザルが一歩前を行く主人を見上げる。
「こんな時間までお仕事をなさっていて、幽霊に会ったらどうするんですか……」
「ティナーシャがそんなものいないって言ってただろう。いるなら魔物だ」
「余計悪いです……」
オスカーは言いながらふと腰に手をやる。そこにあるのは簡素な護身用の剣だ。城内にいる時は基本的にアカーシアを帯剣していないが、王剣を持っていた方がよかったかもしれない。迷う彼に、ラザルはなおも苦言を呈する。
「大体殿下は、何でもご自分でなさろうとするからティナーシャ様が──」
ラザルの言葉はそこで途切れた。尻餅を打つ音が聞こえてオスカーは振り返る。
「何もないところで転ぶな」
「何もないというか……滑って……」
ラザルは床についた手を蠟燭の灯にかざす。
その手は──何故かびっしょりと濡れていた。
オスカーが目を丸くする。ラザルは悲鳴を上げようと口を開きかけた。
だがそれより早く、背後から冷たい女の腕が伸びてきて……彼を包みこむように抱きしめた。
「ティナーシャ! 起きろ!」
自室で既に眠りについていた魔女は、突然入ってきた男に白い手を摑まれた。
彼女の部屋は、王の計らいによって七十年前に使っていた客室を再び割り振られている。レギウスの命令で、その部屋は七十年間ずっと全ての調度品をそのままに、掃除だけがなされていたのだ。かつての自室に通された時、彼女は複雑な笑みを浮かべたものである。
魔女は安寧の寝台から引きずり出されて眠い目をこすった。
「うー、オスカー……どうしたんですか」
闇色の瞳を開いて、ティナーシャは幼児を抱くように自分を抱き上げている契約者を見下ろす。窓から差しこむ月の光のせいか、彼の顔色は若干青ざめて見えた。
「ラザルが……死んだのか?」
「何で疑問形」



