これは、一人目の話だ。
遠い鉤爪のユノにとってのそれは、同窓の友人、リュセルスの記憶から始まる。
リュセルスは美しい少女だった。陽光に流れる銀の髪。整った睫から覗く、切れ長の碧の瞳。人間なのに森人や血鬼よりも魅力的で、同じ女のユノが見てもそう思えるほど、養成校の中で──それどころか彼女の住むナガン市の中で、誰よりも輝いて見えた。
だから級分けのはじめ、詞術の授業中にリュセルスが教えを請うてきた時、ユノは内心の喜びを抑え切れなかったものだ。
詞術の中では多少、力術の分野を得意としてきたユノにとって、多くの同級生の中から彼女が自分を見つけて、ユノの唯一の取り柄を認めてくれたことは、初めての誇りだった。
生来の少ない口数を振り絞って、ユノは彼女と話した。
話してみると、リュセルスも華やかな見た目からは意外なほど臆病で、成績が悪い事に悩んだりもする、普通の少女だった。しかし彼女の話し方はいつでも思慮深く、優しく、ユノの憧れが裏切られることはなかった。やがて植物学の分野で驚くほど話が合うことに気付いた。
彼女らはいつしか一緒に行動することが多くなって、新しく見つけた星の名前や王国の併合の話、想いを寄せる男子候補生について教え合ったりもした。
ナガン市は、大迷宮を中心に発展した新興の学術都市である。この市には複雑な生い立ちを持つ者も多い。遠く親元を離れて探索士養成校まで志願したリュセルスにももしかしたら、ユノの知らない何か複雑な事情があったのだろう。
けれどそういった話に踏み込まなくとも、二人は友人でいられた。
魔王自称者キヤズナが作り上げたナガン大迷宮には、二人が大人になってもきっと掘り尽くせないほどの無数の秘密と遺物が残されている。この市ならば、どのような過去の者にも、どのような身分の種族にも、栄光を摑む道が拓けているのだ。
〝本物の魔王〟が死んで、恐怖の時代は終わった。破滅に怯える必要もなくなったこの時代なら、未来にそんな夢を見ることだってできた。
──その未来が今だった。
「かはっ」
炎に包まれたナガン市の石畳の上に、リュセルスの体は踏みにじられていた。
彼女の細い背を見下ろしているのは、緑を帯びた金属光沢の、虚ろな巨躯の鎧だ。太く重い四肢。頭部はその殆どが胴体に埋まっていて、青い単眼の光だけが見える。歯車仕掛けの機魔。
「あっ、ぎ」
リュセルスの美しい腕はユノの眼前で無造作に二回り捻られて、ブチブチと裂けた。
「リュセ、リュセルス……」
それがユノではなくリュセルスだったのは、ただの偶然でしかなかった。リュセルスが左側を逃げていたから、石路地の左から飛び出してきた機魔に彼女が捕まった。
刃も通さぬ重金属の装甲で鎧われた機魔には、馬の胴をも捻り切る力があるのだという。ただの少女二人には、立ち向かうことはおろか、逃げ延びることも不可能だった。
それが全てだった。
「嫌! そんな、嫌ぁっ!」
ユノは叫んだ。美しいリュセルスの肩の付け根から覗いた醜い骨と肉を、見ていることしかできない。肋骨ごと肺を押し潰されたリュセルスは、末期の悲鳴も上げられずにいるようだった。
リュセルスは、掠れる声を吐いた。
「痛い……いっ、う……ああ……」
親しい誰かが死にゆく時、自分が無力であること以上の絶望が、この世にあるのだろうか。
──ああ。それとも、絶望ではなかったのか。
最後の言葉が『助けて』という懇願でなかったことへの安堵を、一片でも抱きはしなかったか。
大好きだったリュセルス。誰しもの憧れだったリュセルスは……
そのまま、左脚も根元から引き抜かれた。まるで食肉みたいに脂肪の膜が糸を引いて、もがいていた膝関節は、だらしなく垂れた。
機魔は何ひとつとして感情を見せず、他の市民を尽くそうしたように、ユノの崇拝する美しいリュセルスをも、生きながら解体した。
華やかな見た目からは意外なほど臆病な、普通の少女だった。
リュセルスの苦悶の断末魔を聞きながら、ユノはぐしゃぐしゃになったナガン市を逃げた。
「ああ……! うあああああああああ!」
走る景色が、歪む陽炎に溶けて流れていく。
意識すら手放した捨て鉢の逃避の中で、街を徘徊する機魔のどれかに一度も捕らわれることがなかったのは、天の与えた不運だったのかもしれない。
傷だらけの足がついに歩みを止めた場所は、いつかリュセルスと休日に通った思い出の丘の上である。
汚れた血が、顎を伝って落ちた。ズタズタにほつれた三つ編みを気にかける余裕すらなかった。
──ナガン迷宮都市。町の中心にそびえる鉄と歯車の仕掛け迷宮のまわりを、真鍮色に縁取られた商店や学校が取り巻いた、学問と工芸の市。
この丘の上で、緑に茂る木々の枝の合間から見えた光景は周囲の自然とは別世界のようで、けれど不思議なほど調和の取れた、素晴らしい景色だったことを覚えている。
もはや何もない。都市も、草花も、全てが燃えていた。残酷な炎の内には、まだ動き回る影がある。燃えることのない、無慈悲な機魔の群れだった。
「……ねば、よかった」
変わり果ててしまったあらゆる全てに、ユノは呆然と呟く。
あの炎の中に、リュセルスがいた。小麦屋のミラー小母さんも、同窓のゼンドも、あんなに強かったキヴィーラ先生も、森人のメノヴも、盲目の詩人ヒルも、皆がいた。
彼女は頭を搔き毟った。
「わ、私も……引き裂かれて、死ねば、よかった……!」
何も分かっていなかった。誰一人、何も分かっていなかったのだ。
あの〝本物の魔王〟の出現によって霞んでしまったとしても、かつて魔王を名乗っていた者達──魔王自称者達もまた、人を脅かす最悪の脅威で、魔王だったのだと。
……魔王自称者キヤズナが作り上げたナガン大迷宮には、きっと二人が大人になっても掘り尽くせない秘密と遺物が残されている。
まさしくその通りであった。この日、かつてない規模で機魔を生成しはじめた大迷宮によって、午前が終わるより早くナガン市は滅んだ。
なぜ、なんのためにと、理由を考えることすら許されなかった。そうすることができたはずの教授達は教員棟から出ることもできず、真っ先に焼け死んだ。
ユノやリュセルスにとって雲の上の存在だった正規の探索士達は、虫よりも群れる機魔の軍勢を前にして、信じられないほど、ただ死んでいった。一級生も、二級生も。ユノの背丈の半分すらない二十四級生に至るまで、生きたまま解体されて死んでいくのを見た。
「もう……もう……嫌だ……」
繁みの中に、機魔の青い眼光がある。こんな街の外れにまで。ユノのように、心折れた少女すら。
今は、ユノの左を歩くリュセルスはいない。同じように死ぬのだと悟った。
「嫌だ……【ユノよりフィピケの鏃へ。軸は第二指──】」
「ジッ」
無機質な軋み声とともに、機魔の突進が地面を抉った。
その時には叫んでいる。
「【──格子の星、爆ぜる火花、回れ!】」
袖の内から、研ぎ澄まされた鉄の礫が弾けた。素早く、円を描く軌道で、機魔の装甲の間隙へと突き刺さった。
金属の擦れる、鳥の囀りのような命中音。キュイ。キチキチキリ。
「ジ、ジリ、ジ……ギッ」
それが機魔の内側のどこか致命的な部分を引っ搔いて、巨体は停止した。
機魔は精巧な機械仕掛けの人形だが、それに命を与えているのは、一体ごとに異なる位置に刻印された、命の詞術だ。それは授業で習って知っていた。
……けれど今しがたのユノの芸当は、奇跡的なまでの偶然だった。狙いをつけたわけでもない。ひどく捨て鉢な、苦し紛れの力術に過ぎなかった。