第1章 悪霊溜まり場、一掃 ②

 昨日、付箋を貼りつけた最後の場所は、玄関扉だ。この家に廊下はなく、リビングの引き戸を開ければすぐに玄関という構造になっている。こちらも剝がれ、スニーカーの横に転がっていた。それを手に取り、裏表を見る。

 予定を記していた文字が、完全に消えていた。


「今のところは、これで」


 メモがないと落ち着かない。新しい付箋に『買う物 付箋、ペン』と書き込む。玄関扉に貼りつけ、上から何度もこすりつけた。実家ならば、同じ位置にあるボードに『窓の鍵、ガスの元栓。要確認』と書いてあるのにな、と少し感傷的になる。

 しばらく物憂げに、剝がれた付箋の糊部分をペタペタと指で触っていると、消えてしまった文を思い出した。


「そうだ、今日は庭師の人が来るんだった」


 ぼんやりしている暇はない。玄関扉へと背を向けた。


 天気は快晴。雲一つない青空が広がっている。

 人を招く前に空気を入れ替えようと、家中の窓を豪快に開け放つ。庭に面したダイニングの窓を開けた途端、室内に突風が吹き抜けた。床に置いていた空バケツが音高く倒れて転がり、テーブルの上に置いてあった大量のコピー用紙が流され、窓の外へと飛び出していく。視界を紙片が埋め尽くす。


「うわっ」


 とっに片腕で目元をかばった。紙は鋭利な凶器にも成りうる。危険極まりない。

 その隙に湊の横を、白い帯と化した紙束がすり抜ける。空に舞い上がり、四方へと拡散。そして庭の上空に薄くかかっていた瘴気を、瞬く間に消してしまう。数多あまたの紙の活躍により、一瞬にして薄暗かった庭が、穏やかな光が満ちる庭へと変貌を遂げた。

 だがしかし、その鮮やかに変化する様を湊が目にすることはなかった。

 紙片の乱舞と床で回転していたバケツが止まる気配を感じ、腕を下ろす。その視界に入ったのは、白い紙片が散らばる殺風景な庭だった。


「あー、拾わないと……めんどくさ」


 暇潰しに文字を書き連ねていたのがあだとなった、とうなれた。磨き上げた縁側から庭に下り、片っ端から拾い上げていく。

 コピー用紙に書かれていた文字群の半分以上は、せていた。



 熟練の庭師たちにより、庭は見違えるほどに整えられた。

 塀の上から大幅にはみ出していた山側の樹木、伸び放題だった雑草も消え去った。申し訳程度に植えられていた低木も綺麗に刈り込まれ、随分見映えはよくなった。だがやはりどうしても、寂しい印象は拭えない。

 どうぞ、と湊が縁側に腰掛けた若い庭師に煎茶を振る舞う。つなぎを着た大柄の庭師が快活に礼を述べ、首に掛けた手拭いで顎を伝う汗を拭った。


「いやあ、あまり時間もかからず、あっさり終わってしまいましたよ」

「午前中で終わってしまいましたね。お世話になりました」


 丸一日の予定だったが存外早く片づき、まだ昼前だ。大勢いた他の作業員たちは、先ほど軽トラック三台に小山を築いた枝葉とともに帰っていった。


「山からのお客さんがごわかったくらいですねえ」

「塀の半分は上から覆って見えてませんでしたからね。白い壁がまぶしい」


 からからとおかしそうに笑った庭師がお茶で喉を潤す。それから空の池を眺め、目を細めた。


「ここを中途半端に放り出すかたちになったおやは、とても残念がっていました」


 彼の父が作庭を依頼されたのだという。志なかばで断念せざるを得なかったのは、この家の持ち主が急逝したからだけではない。彼の父もそう間を置かず鬼籍に入ったからだった。

 グラスを握る庭師の手の甲に力が込められたのが、湊からも見て取れた。静かで温度のない声の彼はどんな思いを握りしめたのか。

 死因について詳しく語られることはなく。一度深く息をついた若い五代目は、愛想よく問う。


「庭の方は、どうしますか。よければ俺が引き継ぎますよ。とりあえずシンボルツリーでも植えますか? 今のままではあまりにも寂しいでしょう」

「そうなんですけど、俺がここにいるのは一時的なものなんですよね」

「……そうなんですか」

「はい。なのであまり勝手にするのもどうかと思ってまして」


 少し残念そうに首を傾けた庭師が顔をゆがめ、肩をつかんだ。いやに痛そうだ。


「もしかして作業中に痛めました?」

「いえ、ここのところ、どうも調子が悪くて」


 ぎこちなく肩を回すその顔色もあまり優れない。早めにお帰りいただいた方がいいだろう。


「この家の持ち主に、庭のことをいてみます。俺もこのままではどうかと思いますし」

「わかりました」


 湊は連絡を取る旨を書き込もうと上着のポケットからメモ帳を取り出した。直後、背後から強い風が吹く。メモ帳がめくれ、間に挟んでいた一枚の書きかけのメモ紙が飛ぶ。庭師の肩に当たった瞬間、双方、驚きの表情になった。


「すみません!」

「え? あ、いや、大丈夫ですけど。なんか肩が、急に……」

「どうかしました?」


 曲げた腕をぐるぐると前後に回し、次に首も回す。その軽快な動きに合わせ、乾いた快音が鳴った。


「……軽い。あんなに重かったのに」


 幾分か顔色がよくなった庭師が、にわかには信じられないといった口振りで呟く。


「え、まったく?」

「はい、腕を上げるのが辛かったんですが……」

「まあ、痛みがなくなったのなら、よかったですね」


 湊がのんに笑顔で告げた。


「ええ、まあ、そうです、ね……?」


 困惑しきりながらも同意した庭師が、きつねにつままれた面持ちで暇を告げた。

 裏門まで見送るべくついていく湊には視えていないが、視える人であれば視えただろう。たたきつける勢いで貼りついたメモ紙により、家を訪れる前から彼の肩にべったり乗っていた悪霊が、爆散された無残な様を。

 綺麗に祓われた背中が、軽い足取りで裏門をくぐっていった。



 黒い外観のしょうしゃな家屋は白い塀に囲まれている。

 表と裏に数寄屋すきや門がある。表門の柱に木製の表札を取りつけ、湊は満足げに首肯した。


「一時的だけど、俺がいる間くらいは、いいよな」


 二十四歳にして初の一人暮らし。しかも大層立派な一軒家で、仮とはいえ憧れの一国一城のあるじである。自分の家に己の表札を掲げるのは、ささやかな夢だった。厚木に彫られた楠木の黒文字を上から人差し指でなぞる。表札は湊の手作りだ。


「結構、上手うまくできたな。うん」


 書道の心得はなくとも、読みやすく綺麗な字だと褒められることが多い。

 字の歪みもなく納得の出来栄えに、思わず自画自賛する。幾度もニス塗りと乾燥を繰り返し、墨で書いた文字を彫刻刀で彫った後、を塗り、黒色を入れる。またニスを複数回塗れば、完成となる。心を込め、時間をかけて作成した。

 子供の頃から実家の表札、温泉宿の看板を作り続けており、今回二つ作り上げ、持ってきていた。


 出来のいい方を表門に取りつけ、裏門へと向かう。塀の外側を埋めていた雑草も消え、歩きやすくなったへいたんな細道をたどる。家を取り囲む塀は湊の背丈よりも高く、外からの視線を完全に遮断してくれる。


「そういえば、なんで表札を作るようになったんだっけ。あー、そうだ。子供の頃、すげえ褒めてくれた人がいたからだ」


 小学校高学年時、宿題で作った物だった。今よりはるかに出来が悪く、いびつに曲がった文字で素朴な木材の切りっぱなしに、温泉宿名を彫っただけの物だ。父に渡せば、温泉宿の門柱に飾られてしまい、気恥ずかしくもうれしかったものだ。それを宿泊に訪れた客人が、手放しで褒めてくれたのだ。パナマ帽をかぶり、和服を着た壮年の男性だった。

 ──これは素晴らしい、君が作ったのか。絶対に外さない方がいい。もう一つ作って家の方にもつけることを強くお勧めするよ。ついでにおじさんにも作ってくれないかい、お金はちゃんと払うから。


「そう言われた時は、驚いたけど」


 かすかに笑い、裏門柱にも表札を取りつけた。

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