第1章 悪霊溜まり場、一掃 ③

 キンッと高く澄んだ音が鳴る。湊の耳には聞こえない、結界が張られた音だ。閉じられた正方形のしきから、すい色の光が四方へと放たれた。家の上空にわずかに渦巻く瘴気を消し去っていく。瞬時に薄く陰っていた家と山肌が、鮮明な姿を取り戻した。

 柔らかな一陣の風が吹く。隣の山の斜面を埋める木々がざわつき葉音を立てる。まるで歓喜に震えるように。歌うように。


「うん。こっちもなかなか」


 表札だけを眺めていた湊は、何一つ気づかない。たとえその目を向けていたとしても視ることはかなわなかっただろう。悪霊を視認できる特殊な目を持たないのだから。


 助言をしてくれた客人の勧めで作った実家の表札は一年も持たず割れてしまい、今の物は一体何代目になるのか覚えていない。懇願してきた男性にも作成して渡せば、非常に喜んでもらえた。そして謝礼として渡されたのは、温泉宿の離れに半月は余裕で泊まれる金額だった。家族一同騒然となったものだ。以来、彼が訪れることはなく。今もどこかで元気に過ごしてくれていればいいと湊は思う。


 思い出に浸りつつ、門扉を閉じた。結界の中に満ちた清浄な空気の中を、気負いのない歩みで家へと戻っていく。

 かたん。

 誰もいないはずの裏門で、表札がほのかに揺れた。



 表門のすぐ手前に青々とした草がこんもりと盛られているのが見えた。食料品の買い出しに出掛け、昼過ぎに帰り着くと、この有り様だった。

 両手に買い物袋を提げた湊が周囲を見回す。誰もいない、人っ子一人いやしない。つい今し方降りたばかりのタクシーが、舗装されていない道をのんびりと遠ざかっていくだけだ。その道の両側にはくさやぶだらけの空き地と田んぼのみ。タクシーが向かう先に片側一車線の車道が見え、その向こう側にまた田んぼと数件の民家、さらに山へと続く。視界を遮る高層建造物は一切見当たらない。

 紛うことなき田舎の風景が広がっている。

 心地よく視界が開けた片側と打って代わり、反対側は山が高くそびえ、樹木が風にそよいでいる。

 緑深い山中にお住まいの人はいない、と思われる。

 近所とは到底言えない、田んぼと道を隔てた家の方からのお裾分けの線も考えにくい。

 思案しながら、しばし見晴らし抜群の景色を眺め、門へと向き直る。ざくざくと砂利道を踏みしめ、低い石段を上がる。採ったばかりであろうみずみずしい草の青くさい匂いが鼻をついた。

 円形の手のひら形をした、道端によく生えているありきたりな草だった。


「……まさか、嫌がらせとか?」


 わざわざ、このような酔狂な嫌がらせをする者がいるだろうか。

 湊はこの土地にみがなく、知り合いすらいない。ここに来ていまだ庭師数人としか面識もなく、他に心当たりの人物など当然いない。先ほど初めて赴いた、商店街の人たちなど論外であろう。田舎だろうが、都会だろうが、どこだろうが思いもよらない行動を起こすれつな人間はいるものではあるが。


「様子見で」


 草山をかいし、格子状の門扉を開けた。


 小山を築くのはチドメグサ。葉の汁には、その名の通り血止めの効能がある薬草である。それを知らない湊には、ただの雑草に過ぎない。

 強めの風が吹き、小山の頂の数本が飛ばされていった。


 翌朝。表門の格子戸をわずかに開けてのぞく。昨日の草山は跡形もなく消えていた。

 だが。

 代わりのように新たな花付きの草が、地面に整然と並び置かれていた。卵状えん形の葉が対生し、その合間に筒状の白い花弁が二つ。甘い芳香を放つ。


「これって確か、蜜を吸えたはず」


 さして植物に興味がない湊でもそれくらいは知っていた。亡き祖父から聞いた覚えがある。


「甘い物は昨日買ってきたから間に合ってるんだよね。それに、地べたに置かれた物を口にしたいとは思わんし」


 すげなく顔を引っ込め、ぴしゃりと格子戸を閉めた。田舎育ちのわりに、スイカズラの甘い花の蜜を吸った体験がない湊の反応はどうにも芳しくなかった。

 誰の視線もない静かな道端で、横一列に並んでいた薬草が瞬く間に消える。後には花弁一つも残されていない。


 翌々朝。格子戸の隙間越しから、そっとうかがう。

 鮮烈なあさに照らされた地面には何も置かれていなかった。もう不思議現象は終わりかな、と思い、格子戸を引き開ける。頭を全部出して首を巡らすと、表札の真下に見慣れた物が置いてあった。


「あ、よもぎだ」


 つい喜色が乗った声をあげてしまう。のこぎりのよもぎ束が大振りの葉に包まれ、さらに平たい石の上に置かれていた。細やかな気遣いが素晴らしい。

 ガラリ。門扉、全開。

 近づくと、心落ち着く独特な香りが鼻を掠める。思わず笑顔になった。


「もらっていいのかな」


 好物の前では、多少の不穏さなぞ吹き飛ぶ。ちょうど団子の粉を買ったばかりで、実にいいタイミングであった。よもぎ団子に思いをせ、いそいそとよもぎの束を抱えて格子戸を閉ざした。

 かたん、かたん。

 無風無人の場で、弾む表札が高い音を打ち鳴らす。湊の喜びに呼応するように、さも楽しげに、愉快げに。


 朝から郵便受けを確認すべく玄関扉を開ける。足を踏み出すと、玄関ポーチ脇に置かれた物に気づいた。いささか古びた竹籠の中、あふれんばかりの小粒の赤い果実が、大葉に包まれて入っている。


「これ食べたことある。甘酸っぱくて、美味おいしいやつだ」


 弾けそうな実をたたえたクサイチゴが入った籠を両手に掲げ「ありがてえ」と湊は頭を下げ、嬉しげに笑った。



 それなりにいいとしをした湊だが、こんないかにも怪しげな物を喜んで受け取るのには理由がある。

 実家の仏壇と温泉宿の神棚に供えた物は消えるのが当たり前、いつの間にか食卓上に残していた菓子も消えるのも日常茶飯事。幼少期から幾度も不思議現象と遭遇してきており、馴染みがあったからだ。

 亡祖父が生前に教えてくれた。

 ──うちには童子さんがおる。悪いモノではない、むしろいいモノだ。いいか、湊。菓子をられても決して怒るなよ。菓子の一つや二つぐらい気前よくくれてやれ。

 彼は人ならざるモノが視える人だった。

 湊自身、その存在をはっきりと視たことはない。しかし、家中でふとした時に視界の隅を巨大な影が掠めていったり、廊下の角を曲がる人ではあり得ない小人の後ろ姿を目撃したり。不可解なことがあったのは、一度や二度ではなかった。

 それを興奮しながら祖父に伝えれば。

 ──あれらは童子さんのお友達だよ。どうやら、お前はいいモノしか視えんようだなあ。

 そう言って深く刻まれた笑いじわをより一層深めたものだ。



 過去を振り返り穏やかな顔で、クサイチゴが入った籠をキッチンの流し台に置いた。庭側の窓を見やる。青空の下、庭の片隅を白っぽい巨大な影が掠めていった。瞬いた湊の口角が上がる。

 実家で見掛けるモノたちと同じ、淡く発光した白いモノ。

 位置は低かったが湊と同等か、それ以上はありそうだ。人に似た姿ではなく、獣に似た姿だった。

 この家にも神棚はあるが、掃除したきりで何もあげていなかった。ポケットからメモ帳を取り出す。


「お礼しないとな」


 盗るどころか、好物をくれたのだから。何モノかはわからなくとも亡き祖父の言葉を信じるならば、あれはいいモノだ。何より、今まで不思議現象で嫌な思いをした経験は一切なく、何も心配していなかった。


「童子さんたちはなんでもござれで、酒ならなんでもよかったけど、無難に日本酒にしとくか。甘い物は……やっぱり和菓子?」


 ガタガタッと勝手口の扉が不自然に揺れた。さも催促するかのように激しく、音高く。よほどお好きと見える。

 声を立てて笑い、メモ帳に品々の名を書き込んでいく。


「えーと、他にもあったな。そうそうゴミ袋、と」


 実家のモノたちとは、ここまで鮮明なやり取りしたことはない。わざとテーブルにいくつか菓子を残しておくと、時折、礼なのか窓辺に季節の花が置かれていたことがあったくらいだ。そんな経験もあり、草のプレゼントにも動じなかったのだ。

 ともあれ、こちらのモノは随分と自己主張が激しいらしい。

 笑いが引かないまま、カウンター上の財布へと手を伸ばした。

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