第2章 初邂逅 ①
一瞬だった。
人の何倍にも膨れ上がった怨霊が、歩いていた青年に襲いかかった瞬間、祓われた。
怨霊を祓うべく追いかけていた黒スーツの若い男が、両手で印を結んだ状態で凍りついた。
何が起きたのか。今、目の前で起きたのは果たして現実の出来事なのか。
すぐには理解が追いつかない。眼鏡奥の両目を見開き、メモ帳片手にぶつくさ呟きながら近づいてくる青年を凝視するだけだった。
かつての活気を失った古めかしい商店街の一角。澄み渡る
細い路地に面した、亀裂の入った壁の二階、割れたガラス窓から瘴気が
「まずい、外に逃げたぞ!」
建物内から焦った声が発せられたと同時、ガラスが割れる派手な音。割り砕かれたガラス片と窓枠が弾け飛ぶ。そこから、どろりとタール状の黒い塊が流れ出てきた。大蛇を
「俺が行く!」
鋭い声が室内から響く間も、黒い塊は遊ぶように蛇行しながら大通りへと向かう。
空き店舗の二階に巣食っていた怨霊を、あと少しのところで取り逃がした陰陽師、黒スーツの男が部屋を飛び出す。至る所に物が散り、剝がれが目立つリノリウムの狭い階段を駆け下りる。最後の四段を跳び下り、着地。手すりを軸に上着の裾を翻して回る。狭い廊下を駆け、裏口扉を蹴り開けた。片方の
路地に出ると、はるか先に地を這う怨霊の姿があった。
一帯は空き店舗ばかりで、人気はない。速やかに退治してしまえば問題ない、と走りながら考えたのも
人がいた。
二十代前半と
瞬く間に膨れ上がった黒い塊が、青年を頭上から包むように覆い尽くす。すかさず立ち止まった陰陽師が、九字を切ろうと両手で印を結ぶ。
その時突然、怨霊が爆発四散した。
周辺の淀んでいた空気もろとも吹き飛び、瞬時に除霊された。「
今のはなんだ。実力のある陰陽師三人がかりでも苦戦していた怨霊があっさり祓われてしまったのは。夢か、幻か。
「うわっ、また消えてる!」
メモ帳を捲っていた青年が出した大声で、我に返った。
「な、にが?」
意図せず、ぽろりと問いかけていた。青年は、怨霊に一切気づいていないようだった。怨霊クラスの悪しきモノであれば、いくら鈍い人間でも悪寒を感じる等、何かしらの異変を感じるものだ。けれども、けろりとしている。
鈍感体質か、あるいは、何かに
顔を上げて陰陽師を視認した彼は、
「文字だよ、文字! 書いたばかりだったのに!」
「文字……」
意味もなく
「買ってすぐのペンで書いたんだけど、あー、もう、なんで消えるんだ。それはそうと、ゲルインクのペンって書きやすいけどすぐ減るのは、玉に
「はあ」
「あー、うっかり買い忘れたの、なんだったか。ほら、あれだよ、あれ」
「あれと言われても」
「なんかこう、日常に欠かせない物だったはず。毎週決まった日にいる大事な、」
「ゴミ袋?」
「それだ!」
満面の笑みになったものの、すぐさま真顔になり、周囲を窺う。「あのさ」と声を抑えた。
「俺、越してきて間もなくて、ここ初めて来たんだけど、すげえ寂れてるね。シャッター下りた店しかないし。また買い物した場所まで戻るの
「……君が来た反対側の方、大通りを抜けた先に新しい商店街がある、が……」
「助かった。ありがとな、親切なお兄さん! じゃ!」
片手を挙げて快活に笑い、
「お、い、
背後から、ようやく追いついた陰陽師仲間が声をかけてきた。片や荒く肩で息し、片や膝に手をつき
さて、どう説明したものか。
しばし悩み、答えを
陰陽師たちが連れ立って歩き去った後、祓われた怨霊の跡から小さな白いモノがうごめく。少しずつ、少しずつ。移動し始めた。湊が去っていった方へと向かい、じりじりと。
その光景を目にする者は、ただの一人もいなかった。
〇
やがて太陽が沈みゆく時間帯。
商店街で己が怨霊に襲われたことも、意図せず祓ったことも。
神棚に供えるべきか、庭に供えるべきか、それが問題だ。
「庭にしよ。催促されたし」
かすかに笑みを浮かべ、わずかにカーテンを開けた。
「えっ」
いる。
縁側の中央辺り、白い獣がこちらを向いて座っている。
半端に開けたカーテンを摑んだまま、
犬か、
意を決し、窓を開けて静かに縁側へと足を踏み出す。二メートルほどの距離を空けて
逃げるそぶりなど欠片もなく、泰然と鎮座する美しい純白の獣。緊張から
「邪魔するぞ」
腹の底に染み入る深い深い声色。総毛立った湊は、軽く身を震わせる。人外の声を聞いたのも無論、初めてのことであった。
獣の食事風景は豪快だ。



