第2章 初邂逅 ②

 りょうに深いたてじわを刻み、獲物に牙を突き立てる。鋭利な牙は食らいついた肉を紙でも裂くようにあっさりとみ千切った。しゃく音を立て、次々と飲み込んでいく。弧を描く黄金の両眼、絶えず振れる長い尻尾。気持ちいいほどの食いっぷりは、至極満足そうだ。


「どうですか、お味のほどは」

「……うむ」


 最後まで飲み込み、大狼は返事をくれる。忙しない尻尾が巻き起こす風を半身に受け、縁側の縁に腰掛ける湊もフライドチキンにかぶりついた。

 大狼は、お隣の山の神だという。

 それを聞いた湊は「りんじん? 山神さんでいいんですかね」とややふざけて尋ねた。すると「うむ。よかろう」とあっさり快諾されてしまう。

 ゆえに、呼称は〝山神さん〟に決定した。神といえど存外気安い方のようだ。


 星空の下、ともに縁側でくつろぎ、夕食をっていた。リビングから漏れる斜光が、仲よく隣り合い談笑する一人と一柱を優しく照らす。


「ちと脂が多いがうまいものよ」

「口直しに酒、要りますか」

「まだ完全に力が戻っておらんのでな。すまぬ、水がよい」

「あー、力が弱ってるんでしたっけ」


 ミネラルウォーターをガラスボウルに注いだ。山神の体が透けているのは、神力なる力が弱まっているからだという。


「おかげで、鬱陶しいモノが祓えんでな」


 水をめながら山神が苦々しく吐露する。それを眺め、グラスを傾けて炭酸ジュースを呷る湊は、下戸である。


「美味である。我の所の清水に勝るとも劣らぬ」とうなり、うまそうに飲み続ける。


「お主のおかげで助かったぞ。礼を言う」

「……心当たりがありませんけど」


 空になったボウルから顔を上げた大狼が、長い舌で口回りの滴る水を舐め取った。じっと見つめてくる。まるで心の奥まで暴かれそうな底知れぬ眼を向けられ、湊は落ち着かない気分になった。

 程なくして、山神が神妙な口調で告げる。


「知らぬ、気づかぬ方が、お主のためなのか。我では計りかねる」

「はあ」

「だが、その力はなもの。自覚し、磨けばさらなる力を手に入れられるであろう」

「はあ……?」


 内容が何一つ理解できない湊は生返事するしかなかった。グラスに炭酸ジュースをし、思いつきで尋ねる。


「無意識で何かしてるとか?」

「ああ。悪しきモノを祓っておる」

「俺がですか?」


 思いがけない情報は、にわかには信じられない。「えー……あ、水もっと要りますか」「頂こう」のやり取りの後、新たなペットボトルの封を開けた。ボウルへと勢いよく注げば、しゅわしゅわと泡立ち、表面から泡が弾ける。

 大狼はそれを無言で見つめ、次いで物問いたげに湊を見やった。ニコッと営業スマイルを返す。長年培った接客用笑顔は、この上なくさんくさい。

 わずかに躊躇った大狼が、恐る恐る長い舌を細かい気泡が立つ水へと伸ばしていく。触れた直後。


「っ!」


 しびびっと耳から頭、背中、尻尾の先まで何かが駆け抜け、毛が逆立った。してやったり、と湊の笑みが深まる。


「炭酸水です」

「舌がひりつく……ぬぅ、これもなかなか」


 尻尾が音高く床を叩く。湊が思考を転がすため、少し遊んだ後に眉間に皺を寄せ、腕を組んだ。


「祓ってるって、どうやって……? 気合い? 無意識で?」

「おぬひが、きゃいたものひょ」

「え、なんて?」


 ひたが、ひたが、と舌のしびれを楽しむ山神の言葉は聞き取りづらい。湊もグラスを傾け、喉を潤した。



 炭酸水を飲み上げた大狼が姿勢を正し、鎮座する。静かに佇むとやけに神々しさが増す。風に揺れる毛並みがきらめいているのは目の錯覚か。最初に見た時よりも、体躯が明瞭になったのは気のせいなのか。

 され、だらけた姿勢は失礼かと、座布団に正座し、背筋を伸ばして大狼と向き直る。神たる獣が御神体である高くそびえる黒山を背に、厳かにかむを乗せてのたまう。


「お主の書いた文字が祓っておる」


 朗々と庭の隅々まで響いた。さながら大気を震わす天からの神託のようだった。思いもよらないお告げは、湊の心にまで深く、重く響いた。美しい神が仰せなのだ、疑う余地はあるまい。雰囲気に吞まれ、ひれしそうになった瞬間、げふっと追加されるげっぷ。威厳が夜空の向こうへと裸足はだしで逃げ出した。

 台無し、台無しだ。

 ただの巨大な狼と化したモノが、ちらりと視線をペットボトルへと流す。


「炭酸水を頼む」

「はいよ」


 猫背に戻った湊が苦笑し、ふとひらめく。


「ああ、だから字が消えるのか!」

「左様」

「おお、謎が解けてすっきりした」


 炭酸水ペットボトルを摑んで持ち上げると、尻尾が激しく揺れた。


「ん? じゃあ、これからも書いた字が消えるってこと?」


 どぼどぼとボウルの半分まで注ぐ。「左様。おっと、もうよい」と前足をかざして制止をかけられる。


「はいよ。えー、迷惑だな。油性でも駄目ってこと?」

「さして変わるまい」と澄ました顔で炭酸水をがぶ飲みしていく。

 いつの間にか敬語ではなくなっているが、山神は気にもしない。


「書いただけで悪いモノなんか祓えるんだ……知らなかった」

「お主が字を書いた紙が触れると、悪しきモノは面白いように消し飛ぶ。我が弱っている隙に、ここに巣食っておったモノどもが一瞬で塵も残さず消え去ったのは、よい見せ物であったぞ」


 人の悪そうな、いや、神の悪そうな面持ちの山の神がわらう。三日月を形作った眼が庭の先、裏門へと向けられた。


「あの表札は、さらによいものぞ」

「書いた大本の字は消えてるような……時間かけて彫ったから?」

「祓う力がよりこもっておる」

「へえ。あー、そういえば、昔作った同じような物をすげえ褒めてくれた人がいたんだけど」

「視える者だったのであろうよ」

「そうかも」と納得し、かつての不思議現象の一つを思い出す。


「表札が一年持たずして割れたりするのは」

「力尽きたからであろうか」

「……そう、か」


 目を閉じ、湊がしみじみとこぼした。過去、表札は幾つも割れた。まれひとつき持たない時もあった。実家が温泉宿を経営していると伝えると、様々な者が訪れる場所は悪いモノが集まりやすいのだと教えられた。加えて温泉は身体の汚れだけでなく、けがれまで落とされていくという。

 実家が心配だが、予備の表札を置いてきているから、もうしばらくは大丈夫だろう。


 五月の夜風はまだ肌寒い。厚着はしていても風に煽られ、寒さに震えた。気づいた山神に促され、初の食事会はお開きとなった。



 それから山神とほぼ毎日、食事をともにするようになった。

 山の神たる大狼はおおむね庭にいる。縁側で寝そべり、微睡まどろんでいる姿をよく見かけた。時折いなくなることもあるが、もはや隣神ではなく、同居神と言えそうな状態である。


 空に浮かぶは上弦の月。いつものように縁側でともに夕飯を済ませ、食後のおやつをつまんでいた。隣で練りきりを頬張る大狼は、リビングからの明かりを受けて煌めき、目にも鮮やかだ。

 湊がまじまじと見つめ、首をひねる。


「山神さん最近、存在感増してないか」

「うむ。お主のおかげよ」


 胸を張るその御身は今や透けたところなどどこにもない。最初の頃、頻繁に濃くなったり、薄くなったりしていたというのに。湊のおかげというのならば、心当たりは一つしかない。


「飯いっぱい食ってるから?」


 返事がない。甘味をこよなく愛する大狼は、練りきりをたんのうするのに忙しそうだ。大きな体躯にしては小さすぎる甘味を、一つずつ、一つずつ丁寧に口へと運び、嚙みしめて食べる。その顔ときたらたまらなく幸せそうで。見ているだけでほほましく、ほっこりと和む。毎回、神の威厳とやらは、空の彼方かなたへと飛んでいってしまうけれども。

 湊は長年、動物を飼いたくても、家業が忙しく、夢叶わなかった。よもやここに来て、傍に動物に近しいモノがいる生活を送れることになるとは、と内心かなり喜んでいる。

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