第5章 湊印の効果やいかに ②
話を合わせた陰陽師は、ここが現世から切り離された神域だと、とっくの昔に気づいているだろうに。わざわざ好き好んで幾度も通ってくるなど、ほんに豪胆な男よ、と山神は喉を震わせた。
楠木邸の庭は、山神が本来の力を取り戻すに従い、徐々に現世から切り離されていった。少し前まで現世の天候と合わせていたが、今は完全に異なる。湊はいつも洗濯物を外に干せていい、と喜んでいる。だが雨が降らないため、庭木に
──ちりん。うららかな春の庭に吹き抜ける風が風鈴を戯れるように鳴らした。
「では、これで失礼する」
「あ、播磨さん」
席を立ち上がりかけていた播磨が、再び腰を下ろす。ポケットから油性ペンを取り出し、湊が手のひらを差し出した。
「お手をどうぞ」
「……何か違わないか」
「お気になさらず。いつも土産もらってるから、サービスってことで」
手を取り、書こうとした湊を「待ってくれ」といやに鬼気迫る勢いで止めてくる。絶対に譲れないという強固な意志が
「できれば格子紋を書いてほしい」
「……星印、嫌でした?」
「いや、その」と口ごもる間、大人しく待つ。次第になぜか播磨の気配が
「五芒星。晴明桔梗紋は、うちの家紋ではないんだ」
「あれって家紋なんだ。すみません、知らなくて。よそのお宅の紋はまずいですよね。じゃあ本数は何本で?」
「横線五本、縦線四本」
頷いた湊の纏う気配が変わる。
両目から光が消えていた播磨が、伏せていた瞼を上げた。その視界に入ったのは、先ほどまでの吞気者とは全く異なる別人かと見紛う姿。極限まで研ぎ澄まされた
息を吞んだ播磨の眼前で、一本、また一本。ゆっくりと丁寧に線が引かれるたび、祓う力が、強く、強く込められていく。幾本かの線が入った手の指先が、かすかに
見守る山神が
「はい、終わりました」
快活な声があがり、清廉な雰囲気に吞まれていた播磨が我に返り、瞬く。
「どうですかね」
手の甲に記された歪みもない格子紋から放たれる翡翠色の光。まばゆい輝きのそれは前回の晴明桔梗紋より、格段に祓う力が強い。気圧された播磨の喉が大きく上下した。
満足の出来具合に上機嫌な湊から疲れた様子は見受けられない。眠そうだった以前とは違うことに訝しそうにしながらも「ああ。あ、りがとう」と辛うじて礼を述べた。
ペンのキャップを閉めていた湊が「あ、そうだ」と呟き、播磨へと視線を向ける。
「次から名刺に字を書こうかと思ってまして。どうしますか、メモ紙の方がよければ、そのま、」
「名刺。名刺がいい。なにがなんでも是が非でも名刺で頼む」
「あ、はい」
食い気味の早口、さらには念押し。しかも少しばかり身を乗り出して。やはりペラペラメモ紙では使い勝手が悪かったようだ。
わずかに身体ごと引いた湊が、さりげなく山神を見やる。顔を伏せて尻尾を床に叩きつけ、声を押し殺して笑っていた。
〇
楠木邸の表門が閉ざされると、神威の気配がピタリと消える。
途端、頭上から
播磨は門へと向かい、折り目正しく深く一礼する。顔を上げ、上着から取り出した革手袋をつければ、格子紋から放たれていた翡翠色の光が消えた。どれだけ暑くとも仕方のない処置だ。深々と息をつき、踵を返した。
ざくざくと砂利と靴底が擦れる音を鳴らし、楠木邸から離れていく。スマホを操作し、耳に当てた。
「お疲れ様です。はい、今からすぐそちらに向かいます」
端的に用件のみ告げ、通話を切る。上着のポケットに戻す所作がぞんざいになったのは、全身から流れ落ちる鬱陶しい汗のせいばかりではない。
田んぼの畦道をのろのろと歩き去っていく足取りは重々しい。いつも伸ばされている背筋が、いやに曲がっていた。
〇
天井の片隅から、人型の悪霊が手の先端を尖らせ、心臓部目掛けて突っ込んでくる。
触れる間際、黒手袋を
廃校の一階の教室内に潜んでいた低級悪霊すべて、ものの数分で祓い終えた。
涼しい顔をした播磨が、スーツの襟を正す。踵を返し、出入り口の扉へと向かう。
「こっわ」
斜め後ろにいた陰陽師の同僚が肩をすくめ、振り返ることもなく長廊下を進んでいく黒スーツの後ろ姿に続く。机や椅子が雑然と並んだ教室を後にした。
室内に潜んでいた悪霊たちを一人で祓う播磨のおかげで、ただ傍にいるだけになっているのは、パナマ帽を被った壮年の男──
今回、三階建ての廃校に巣食う悪霊を祓うべく派遣され、一階を祓い終えたばかりだ。
悪霊が蔓延るのは放置された学校、病院等大きな施設がとりわけ多い。人が多く訪れる場所、加えて長く時間を過ごした場所ほど悪霊が住み着きやすくなる。人から吐き出された妬み、恨み、未練、後悔、様々な悪感情の残留思念が建物にこびりつき、それを餌に同じく負の感情を抱えたまま死した霊が集まってくる。
そして争い、
ひび割れたガラス窓から入る夏の容赦ない日差しにより、場違いに明るい廊下を進む。
葛木が護符を扇状に広げて顔を仰ぐも、閉め切られた校舎内では、その程度の微風で涼をとれるはずもない。
「あっついねえ。俺もそろそろ親父に倣って和服にしようかな」
ぼやいたサマージャケットの葛木を、播磨が横目に見やる。
「
「ああ、先日帰ってきてまたすぐに出ていったよ」
葛木の父は陰陽寮、組織に属することをよしとせず、在野の凄腕退魔師として各地を巡り、悪霊祓いを行っている。年中、パナマ帽を被り、和服を着こなす
父譲りの帽子を被った葛木が、大して汗をかいていない横顔を見やる。
「お前さん暑くねえの。そんな手袋までして」
「暑いに決まってるじゃないですか」
「そうは見えねえが。にしても、武闘派の祓い方、こわ~い、おっさんにはとてもじゃねえけど、
「それぞれ得意なやり方で祓えばいいでしょう」
「まあ、そうだけどよ。久々に組むから知らんかったが、やり方変えたのか? 前はそうじゃなかっただろ。九字切ってたよな」
「殴った方が早いんで」
たるみ始めた腹部が気になるお年頃の葛木が、酢でも飲んだかのような表情になった。
「お前さん、見かけによらず、力こそが正義なやつだった?」
「そうですね。見たままでは」
「何言ってんだか。いかにも、おっと、」
悪霊が天井から落ちてきた。帽子を押さえながら
「頭脳派。デスクワーク向きって感じなのにな」
「そうですかね」



