第5章 湊印の効果やいかに ③

 己では全くそうは思っていない播磨が、躍り場を曲がった所で待ち構えていた悪霊を踏み潰して祓う。靴底に仕込まれた護符により、ボールを踏んだように脇に膨れて弾け飛ぶ。それを見た葛木が「うわあ」と護符の扇で引きつる口許を隠した。

 何食わぬ顔で眼鏡を押し上げた播磨が、階段に足を乗せる。


「単に眼鏡かけてるからそう見えるんじゃないですか」

「ちげえ、それだけじゃねえって。播磨の坊ちゃんよ」

「その呼び名、やめてくださいよ。二十七にもなる男にいつまでもっちゃんはないでしょう」


 二階にたどり着き、左右へと首を巡らせた。まっすぐ延びる長廊下に等間隔で並ぶ扉は、すべて開かれている。意識を集中し、気配を探ることしばし。二階に悪しきモノのはいないようだ。

 同じく両目を閉じ、聴覚で探っていた葛木が傾く。


「二階は大丈夫そうだな。すまん。つい呼んじまうんだよ、癖で」


 葛木は播磨の父と知己だ。播磨が幼少の時分から面識があり、〝坊っちゃん〟は、当時から変わらぬ呼び名である。一向に悪びれる様子もなくからりと笑う。からかう気も嫌みでもないとは理解しているが、いつまで経っても子供扱いされているようで面白くはない。


 浅く息を吐き、若干の苛立ちを逃がし、階上を見上げた。窓がなく薄暗い階段を、瘴気がゆっくりと漂い下りてくる。人の声と物がぶつかる衝突音も、かすかに聞こえる。他の陰陽師たちが三階で悪霊祓い中なのだと知れた。

 葛木も播磨に倣って階上を見やり、顔を雲らせる。


「どうすっかな。助太刀……要るか? 助けても感謝どころか舌打ちするようなやつに」

「……行かないわけにはいかないでしょう……仕事ですし」


 苦々しさを抑えきれない声。わずかに歪む顔。全身から隠しきれない拒絶がにじている。眉を下げた葛木が、己の肩より高い位置にある肩を労うように叩いた。


「あいつはお前さんへの当たりはいっとうキツイからなあ。嫉妬以外の何物でもねえけど。今回、他に人がいなかったのは災難だったな。まあ、うん、一緒に頑張ろ? 晩飯、おっさんがおごってやるから」

寿でお願いします」

「相変わらず遠慮がねえな、いいとこのご子息なのに。別にいいけどよ」

「あなたの家も似たようなものではないですか」


 双方、代々陰陽寮に従事してきた一族出身で、エリート中のエリートである。

 陰陽師となるには生まれ持つ素質が物をいう。古来より連綿と受け継がれてきた術師の血を引く播磨は、元々の才能だけに頼らずたゆまぬ努力により、現陰陽寮でも一・二を争うほどの実力者だ。

 対して三階で悪霊祓い奮闘中の一人、同期のいちじょうは才能頼り。努力せずとも幼き頃より悪霊を祓えていたばかりに、腕を磨くことを怠り、うぬれだけを増長させた。同年で何かと比較、引き合いに出されてきた二人は、年を追うごとに実力、地位の差は開いていった。

 結果、年々関係が悪化。何かとてきがいしん剝き出しで突っかかってこられ、鬱陶しいことこの上ない。悪霊をより多く祓ったのはどちらか、どれ程強いものを相手取ったのか。いちいち比べて、一喜一憂。子供か。

 完全なる被害者の播磨に周囲も同情的で、極力犬猿の仲である二人の仕事場を被らないように図ってくれている。だが今回、人手が足りずあえなくバッティング。廃校に着き、顔を合わせた時から一条はけんごしだった。殺伐とした空気が漂う中、最も強い悪霊が三階にいると判明。すると「階下のはお前が相手しろ」と上司である播磨に居丈高に命令し、おさなみの女性を引き連れ、三階へと直行した。返事をする間もなかった。


 とうの昔に関係改善は諦めている。陰陽師としての本分をまっとうしてくれれば、それでいい。もう、それだけでいい。そう、割りきるしかない。

 憂鬱そうに視線を落とす。視界に入る、うっすら埃を被った革靴。綺麗好きが眉間に皺を寄せる。どこもかしこも薄汚れ、埃まみれ。空気も淀んで最悪の環境は正直、息をするのも御免被りたい。可及的速やかに悪霊を始末し、校舎を出るべきである。

 中身お子様がいる三階へと向かうべく階段に向き直った。


「年々、見目だけ老け込んでいくのが、またなんとも……」

「おっと。こちらにも流れ弾が」


 葛木がわざとらしくおどけて左胸を両手で押さえる。苦笑した播磨が、重い足を一段目へとかけた、直後。


「ぎゃあああーッ!!」


 聞き慣れた、聞きたくもない声の耳障りな悲鳴。首だけで振り返り、顔を見合わせる。「一条!」と裏返った女の声も後追いで聞こえた。

 葛木が上着の裾を翻し、階段を踏み込む。


「しっかしまあ、なんだ。野郎の野太い悲鳴ってやつあ、急いで駆けつけてやろうって気にならんもんだな」

「相手が相手なので、仕方ないかと」

「違いねえ」


 至って落ち着いた優雅とも言える歩調で、二人は階段を上っていった。


 形ばかり急いだ風を装い、ガラス片が散る廊下を渡り、教室内に踏み込む。中庭に面したガラスのない窓枠の向こう、澄み渡る青空に反して、充満する瘴気で薄暗かった。

 倒れた机と椅子が散乱する中央。人型の悪霊が、長い腕を一条の上半身に巻きつけて持ち上げている。宙に浮くか浮かないか、ギリギリの位置に。爪先立ちで青ざめ、脂汗を流す一条が、ごくわずかだが哀れに思えた。

 悪霊もとい怨霊がこちらを向く。身構えた陰陽師二人に気づくとった男をこれ見よがしに向けてくる。その眼を弓なりにしならせて、三日月形の細い口を頬まで裂いて。

 嗤っている。人間をなぶって愉しげに、嗤っている。

 その愉悦に呼応し、全身から瘴気をらした。息を吞む播磨たちの前で黒い帯が首だけを摑んで揺らす。震える足を交互に片側だけで立つよう、仕向けられる無茶なダンス。強要されている一条が必死に逃れようとするも、決してかなわず。片側の靴が今にも脱げそうだ。たどたどしい足音だけが鳴る。口を塞がれた一条は声を出せないらしい。


 予想以上に危険な相手だった。一条でも祓える程度の中級悪霊だと、高をくくっていた己の落ち度だ。播磨が拳を握り、ギチリと革手袋が鳴る。

 緊張感が高まる最中、怨霊が膨張した。その体から爆発的に放たれた泥状の瘴気が天井、床を舐めるように広がり這っていく。扉近くに座り込んでいた痩せぎすの女が、迫りくる瘴気におびえ、這って廊下へと逃げていった。それを見た一条の怯えきっていた瞳に怒りが滲む。

 濃厚な瘴気が立ち込め、部屋の明度がより下がった。両耳を押さえた葛木が苦しげに唸る。彼は悪霊の気配を主に聴覚で知覚する。悪霊があまりに強力である場合、鼓膜が破れんばかりの苦痛、頭が割れるほどの激痛を伴うという。


 それなりに耐性がある播磨でも、吐き気が込み上げてきた。手で鼻と口許を覆い、上着のポケットに入れていたケースからメモ紙護符を引き抜く。

 刹那、明るくなる室内。半身を曲げていた葛木の目が見開かれる。片足で立つ一条も目を剝き、混乱している様子が見て取れた。

 怨霊が輪郭を激しく震わせる。まるで怯えるように。

 外された革手袋の下から、翡翠の光が現れる。圧倒的な除霊の光が放たれる。一条が床に投げ捨てられた。悪霊が一瞬にして塊に変化し、窓を目指して飛びすさる。

 逃がすわけがない。

 播磨が床を蹴る。横倒しになった机、椅子を飛び越え、数歩で窓際へ。窓の外側に半分近く流れ出ていた塊に翡翠色の光で覆われた拳を撃ち込む。霧散する怨霊。ほんのわずかの間に祓い終えた。窓から生ぬるい風が入り込み、レールから外れかけたカーテンを揺らす。意識から遠ざかっていたセミの大音声が耳についた。




 直射日光を上半身に受けながら、播磨が手の甲を見る。半分ほど薄れた紋でも、まだ祓う力は十分に残っている。光を宿す手に特殊な手袋をつければ、たちどころに光が消えた。その光景を一条は床に座り込んだまま、葛木は立ち尽くして、見ていた。

 手袋の上から手首の辺りを押さえ、指を握って、開いて。指先の具合に納得し、二人の方へと向き直る。


「任務完了です。では、次の案件へ参りましょうか」

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