第5章 湊印の効果やいかに ④
「ちょ、ちょ、ちょっと待って待って!? おっさん全然ついていけなかったんだがっ。え、何、その手の甲。や、坊っちゃんとこの家紋だろうけど。あと、最初のやつも何、すご過ぎだろ。何あれ!」
葛木が素っ頓狂な声をあげ続ける間も、歩みを止めなかった播磨は、既に出入り口付近にいる。葛木が飛びつく勢いで引き留めた。背中に感じる刺し殺さんばかりの強い視線を感じつつ、平坦な声で告げた。
「知人から、心ばかりの気持ちです」
「え、は?」
「夕食楽しみにしてます」
「……お、おう」
言外に後で説明すると匂わせれば、察しのいい彼は気づいてくれたようだ。
ポケットのケースはメモ紙の祓う力を封印するためのものである。
悪霊蔓延る現場に素のまま持ち込めば、無差別に祓ってしまい、いざという時に効力を発揮できなくなるからだ。
前回の紋は、さして強くもない低級悪霊を歩くだけで次々と祓ってしまい、
扉をくぐり、手の甲をさする。
楠木湊の護符の威力は絶大だ。その圧倒的な力を知ってしまえば、さほど力もない護符に高い金額を出す気にはなれない。今ではメモ紙護符のみを購入し、播磨家ゆかりの一族のみで使用している。
播磨にも陰陽師としての
睨み続けている相手にあえて声はかけない。睨むだけの元気はあるのならば、問題ないだろう。気遣ったところで返ってくるのは
晴明桔梗紋は、一条の家紋だ。前回、手の甲をいつ見られやしないかと随分ひやひやしたものだ。今回、見られてしまったのは失態だったが、今さらどうしようもない。
廊下に出た二人は、靴音を響かせ遠ざかっていく。ギリッと音が鳴るほど奥歯を嚙みしめた一条が、筋が浮く拳を床に叩きつける。乾いた音が荒れた室内に
中庭の片隅にて。
三階の窓から生い茂る草むらへと落ちてきた白い塊がうごめく。次第に幾筋もの青みの強い真珠色の光が立ち昇る。やがて真珠の光沢を放つ塊が、一直線に雄大な入道雲へと向かっていった。
〇
どぼん。楠木邸の御池に亀が勢いよく飛び込んだ。
高い位置の大岩からの華麗なるダイブにより高い水柱が立ち、近くを歩いていた湊のサンダルに水飛沫がかかる。
「お、珍しい亀さんの大ジャンプ。なんか機嫌よさそう」
笑って御池を覗く。透明度の高い水を搔き分けて泳ぐ速度も異様に速い。黄みが強い真珠色の亀が縦横無尽に泳ぎ回り、水圧に煽られた水草がなびいた。
砂利しか入ってなかった御池に、いつの間にか豊かな水草が生えていると、つい先日気がついた。今さら驚くことでもない。他に生き物の影も形もなく、こうも広い池に直径十センチほどの亀が一匹だけなのは正直、寂しい。魚くらいいてもいいのではないか、とは思う。けれども。
「まあ、亀さんが居心地いいのが一番だしな」
勝手にいらぬ気をきかせ、生物を入れるつもりはない。
風に吹かれた風鈴が、かすかに音を鳴らす。湊が空を仰ぐ。中天から容赦なく照りつける太陽。青空に明確な輪郭を刻み、存在を主張する入道雲。どう見ても夏真っ盛り。
なれど。庭の端から端まで見回す。
青々とした葉の落葉樹は目にも鮮やかで、絶えず柔らかい風が吹く。暑くも寒くもない快適な気温は、まさに春そのもの。御池に手を入れると、ひんやりと程よい冷たさだ。水温は常に一定に保たれている。搔き回せば、揺れる水面に映る己の顔が揺らめいた。
庭は明らかに現世から切り離された異質な空間。現世の生き物がいない、異様な空間。現世の生き物は、湊のみ。
しかし不思議と空恐ろしさは感じていない。
「居心地いいからな」
鼻歌を歌いながら手を引き上げ、神水を汲むべくじょうろを池に入れた。
〇
葛木
賑わう店内に反して、静かな別棟に並ぶ個室の中の一室。ゆとりのある広い
座卓を囲む仕事上がりの陰陽師たちは、食事を済ませ一息ついたところだ。胡座をかいた葛木がビールジョッキ片手に、枝豆へと手を伸ばす。
「なるほど。お前さんが近頃、顔色がいいのは、そのありがたいメモ紙様のおかげだったというわけだ」
「そうですね」
メモ紙と手の紋について経緯を話し終えた播磨が、ウイスキーで疲れた喉を潤す。空のグラスを卓に戻すと中の氷が音を立てて回った。卓上におびただしい数の酒の空瓶が並ぶ。ほぼ一人で吞み干した播磨は顔色一つ変わっていない。
播磨は人一倍多くの悪霊を祓う。近頃、他者が対処できない怨霊が多く、過剰労働気味だった。久々に気の置けない相手との食事、しかもおごり。鬱憤晴らしも兼ねて浴びるほど吞んでいた。
葛木が卓上に置かれたメモ紙を手に取り、しげしげと眺める。
「……すごいねえ。ただ和菓子の名が書かれてあるだけなのに」
「稀有な能力ですよね。さらに最近能力が上がってるようなんです」
「ほう。けどよお、その相手のバックには太古の神がついてんだろ。おっそろしい。いくらとんでもねえ威力の護符だろうが、手に入れるためにマジもんの神域に通うなんぞ、おっさんだったら御免被るが」
すぼめた肩を震わせた。そして何気なくメモ紙を裏返すと、店名が小文字で書かれてあるのに気づく。それを目にし、眉を上げて何度も頷いた。
「備前
「そうなんですか。では早めに買いに行かないと。毎回、店名が書かれてあるので助かってるんですよね」
「ちゃっかりしてんな」
けらけらと葛木が笑う。笑い事ではすまない播磨が
楠木邸の表門をくぐった瞬間、全身に重い圧力がかかる。
強大な力を持つ太古の神から意識を向けられ、呼吸すらままならず、歩くのも一苦労。さらには神威入りの風に追い打ちをかけられる。気を抜けば、膝を折り、地にひれ伏しそうになるほどの重圧がのしかかってくる。
しかし手土産を差し出せば、事態は急変する。地獄の釜の縁に立たされている絶体絶命の心地から、呆気なく解放されるのだった。
実際は山神の威嚇ではなく「今日の菓子はなんぞ。無論、こし餡であろうな」という期待と催促の重い気持ちが、込めに込められたものである。
「しっかしよお、メモ紙って使いにくくないか。そこそこ投げなきゃならん時があるだろ」
「ええ、まあそうだったんですが。大丈夫です、次から名刺にしてくれるそうなので」
「名刺を投げる……レオタード着て、姉ちゃんと妹ちゃんと一緒に三人で?」
「……
「通じない、だと? コレがジェネレーションギャップ……。世代の違いを感じるわ」
不可解そうに眉を寄せた若者を前にして、おっさん悲しい、と葛木が目頭を押さえた。レオタード



