第5章 湊印の効果やいかに ④

「ちょ、ちょ、ちょっと待って待って!? おっさん全然ついていけなかったんだがっ。え、何、その手の甲。や、坊っちゃんとこの家紋だろうけど。あと、最初のやつも何、すご過ぎだろ。何あれ!」


 葛木が素っ頓狂な声をあげ続ける間も、歩みを止めなかった播磨は、既に出入り口付近にいる。葛木が飛びつく勢いで引き留めた。背中に感じる刺し殺さんばかりの強い視線を感じつつ、平坦な声で告げた。


「知人から、心ばかりの気持ちです」

「え、は?」

「夕食楽しみにしてます」

「……お、おう」


 言外に後で説明すると匂わせれば、察しのいい彼は気づいてくれたようだ。


 ポケットのケースはメモ紙の祓う力を封印するためのものである。

 悪霊蔓延る現場に素のまま持ち込めば、無差別に祓ってしまい、いざという時に効力を発揮できなくなるからだ。

 前回の紋は、さして強くもない低級悪霊を歩くだけで次々と祓ってしまい、あっなく消えた。ありがたくも実にもったいなかった。昨日、思いがけず再び書いてもらえ、念のためケースと同様の特殊な手袋を作成依頼しておいたのが、功を奏した。手袋だけでは完全に湊の力は封じきれない。だがそれを逆手に取り、直接悪霊に触れて祓う戦法を取っている。


 扉をくぐり、手の甲をさする。

 楠木湊の護符の威力は絶大だ。その圧倒的な力を知ってしまえば、さほど力もない護符に高い金額を出す気にはなれない。今ではメモ紙護符のみを購入し、播磨家ゆかりの一族のみで使用している。

 播磨にも陰陽師としてのきょうがある。湊の護符にばかり頼るつもりは毛頭ないが、己の霊力には限りがある。ここ数ヵ月、とみに悪霊絡みの案件が増加しており、メモ紙に頼らざるを得なくなっていた。今日もこれからもう一件、別の場所へと行かねばならない。

 睨み続けている相手にあえて声はかけない。睨むだけの元気はあるのならば、問題ないだろう。気遣ったところで返ってくるのはぞうごんのみ。耳が腐る。

 晴明桔梗紋は、一条の家紋だ。前回、手の甲をいつ見られやしないかと随分ひやひやしたものだ。今回、見られてしまったのは失態だったが、今さらどうしようもない。


 廊下に出た二人は、靴音を響かせ遠ざかっていく。ギリッと音が鳴るほど奥歯を嚙みしめた一条が、筋が浮く拳を床に叩きつける。乾いた音が荒れた室内にむなしく響いた。



 中庭の片隅にて。

 三階の窓から生い茂る草むらへと落ちてきた白い塊がうごめく。次第に幾筋もの青みの強い真珠色の光が立ち昇る。やがて真珠の光沢を放つ塊が、一直線に雄大な入道雲へと向かっていった。



 どぼん。楠木邸の御池に亀が勢いよく飛び込んだ。

 高い位置の大岩からの華麗なるダイブにより高い水柱が立ち、近くを歩いていた湊のサンダルに水飛沫がかかる。


「お、珍しい亀さんの大ジャンプ。なんか機嫌よさそう」


 笑って御池を覗く。透明度の高い水を搔き分けて泳ぐ速度も異様に速い。黄みが強い真珠色の亀が縦横無尽に泳ぎ回り、水圧に煽られた水草がなびいた。

 砂利しか入ってなかった御池に、いつの間にか豊かな水草が生えていると、つい先日気がついた。今さら驚くことでもない。他に生き物の影も形もなく、こうも広い池に直径十センチほどの亀が一匹だけなのは正直、寂しい。魚くらいいてもいいのではないか、とは思う。けれども。


「まあ、亀さんが居心地いいのが一番だしな」


 勝手にいらぬ気をきかせ、生物を入れるつもりはない。

 風に吹かれた風鈴が、かすかに音を鳴らす。湊が空を仰ぐ。中天から容赦なく照りつける太陽。青空に明確な輪郭を刻み、存在を主張する入道雲。どう見ても夏真っ盛り。

 なれど。庭の端から端まで見回す。

 青々とした葉の落葉樹は目にも鮮やかで、絶えず柔らかい風が吹く。暑くも寒くもない快適な気温は、まさに春そのもの。御池に手を入れると、ひんやりと程よい冷たさだ。水温は常に一定に保たれている。搔き回せば、揺れる水面に映る己の顔が揺らめいた。

 庭は明らかに現世から切り離された異質な空間。現世の生き物がいない、異様な空間。現世の生き物は、湊のみ。

 しかし不思議と空恐ろしさは感じていない。


「居心地いいからな」


 鼻歌を歌いながら手を引き上げ、神水を汲むべくじょうろを池に入れた。



 葛木ようたしの寿司屋は今日も繁盛していた。

 賑わう店内に反して、静かな別棟に並ぶ個室の中の一室。ゆとりのある広いしきの中央に座卓、水墨画の掛け軸がかかる床の間。障子の向こうは、ささやかな枯山水の坪庭。水流を模した砂紋の中、石灯籠から漏れる淡い明かりが、意図して配置された石たちに陰影を落とす。

 座卓を囲む仕事上がりの陰陽師たちは、食事を済ませ一息ついたところだ。胡座をかいた葛木がビールジョッキ片手に、枝豆へと手を伸ばす。


「なるほど。お前さんが近頃、顔色がいいのは、そのありがたいメモ紙様のおかげだったというわけだ」

「そうですね」


 メモ紙と手の紋について経緯を話し終えた播磨が、ウイスキーで疲れた喉を潤す。空のグラスを卓に戻すと中の氷が音を立てて回った。卓上におびただしい数の酒の空瓶が並ぶ。ほぼ一人で吞み干した播磨は顔色一つ変わっていない。

 播磨は人一倍多くの悪霊を祓う。近頃、他者が対処できない怨霊が多く、過剰労働気味だった。久々に気の置けない相手との食事、しかもおごり。鬱憤晴らしも兼ねて浴びるほど吞んでいた。

 葛木が卓上に置かれたメモ紙を手に取り、しげしげと眺める。


「……すごいねえ。ただ和菓子の名が書かれてあるだけなのに」

「稀有な能力ですよね。さらに最近能力が上がってるようなんです」

「ほう。けどよお、その相手のバックには太古の神がついてんだろ。おっそろしい。いくらとんでもねえ威力の護符だろうが、手に入れるためにマジもんの神域に通うなんぞ、おっさんだったら御免被るが」


 すぼめた肩を震わせた。そして何気なくメモ紙を裏返すと、店名が小文字で書かれてあるのに気づく。それを目にし、眉を上げて何度も頷いた。


「備前あんの大福、うまいんだよな、餡は甘過ぎないし、餅の歯切れもよくてさ。一日の販売個数限定、開店後数時間で売りきれるから、滅多に食べられないのが難点だけどな」

「そうなんですか。では早めに買いに行かないと。毎回、店名が書かれてあるので助かってるんですよね」

「ちゃっかりしてんな」


 けらけらと葛木が笑う。笑い事ではすまない播磨がはく色の液体をグラスに並々と注ぐ。メモ紙の文字がなんであろうと効果があれば一向に構わない。何より助かっているというのは、天地神明に誓い噓偽りのない本心からの言葉だ。記された店の品を持っていけば、神の機嫌を損なう恐れがほぼなくなるのだから。


 楠木邸の表門をくぐった瞬間、全身に重い圧力がかかる。

 強大な力を持つ太古の神から意識を向けられ、呼吸すらままならず、歩くのも一苦労。さらには神威入りの風に追い打ちをかけられる。気を抜けば、膝を折り、地にひれ伏しそうになるほどの重圧がのしかかってくる。

 しかし手土産を差し出せば、事態は急変する。地獄の釜の縁に立たされている絶体絶命の心地から、呆気なく解放されるのだった。


 実際は山神の威嚇ではなく「今日の菓子はなんぞ。無論、こし餡であろうな」という期待と催促の重い気持ちが、込めに込められたものである。


「しっかしよお、メモ紙って使いにくくないか。そこそこ投げなきゃならん時があるだろ」

「ええ、まあそうだったんですが。大丈夫です、次から名刺にしてくれるそうなので」

「名刺を投げる……レオタード着て、姉ちゃんと妹ちゃんと一緒に三人で?」

「……何故なぜです」

「通じない、だと? コレがジェネレーションギャップ……。世代の違いを感じるわ」


 不可解そうに眉を寄せた若者を前にして、おっさん悲しい、と葛木が目頭を押さえた。レオタードうんぬんより、同じく陰陽師のアグレッシブで自由人の姉と妹とともにというのが大問題だ。一人でも厄介で手に負えないというのに。三人で仕事するなど考えただけで胃が痛くなる播磨だった。

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