第6章 山神の御業、とくとご覧あれ ①

 ぱらり、ぱらり。縁側の定位置に寝そべる山神が、器用に前足で雑誌を捲る。

 気だるげに伏せられた眼、緩慢な仕草。果たして読んでいるのか、いないのか。全く変わらぬ一定の速度でページを捲る様子から、さほど興味はないようだ。

 その音をBGMとして座卓に向かう湊が、真白の名刺に一筆、一筆、心を込めて書き記していた。心地いい風が一人と一柱の合間を通り抜ける。そんな穏やかな時間が流れていた平穏な楠木邸の庭だったが、突然終わりを迎えることとなる。

 ピタリと紙の音が止まった。代わりに山神がぐるぐると低く喉を鳴らす。次第にうなり声へと変化し、どんどん高まっていく。

 不穏な気配。

 さりとて湊は表情を変えることなく、これから起こるであろう事態を察する。名刺の束から一枚のまっさらな名刺を取り上げ、手元に置いた。準備完了。時を待つ。


「ぬぅ、抜かったわ、この我としたことがっ。かような事態を想定しておらぬとは、なんたる怠慢か!」


 ビリビリと大気を揺るがすほどの己への罵倒。大層やかましい。先刻までのだらけた姿とは一変、爛々と眼をギラつかせ、牙を剝き出し、射抜かんばかりに雑誌を睨みつけた。

 鼓膜にややダメージを受けた湊の指先でペンが回転し始める。人差し指から中指、中指から薬指へ。くるりくるりと移動していく。


「情報収集は戦の要ぞ」と悔しげな唸り声。ふんまんやる方なしと特大のため息をつき、大狼がゆるゆるとかぶりを振った。


「……秋の新作とはな」


 地元情報誌の見開きに描かれているのは、和菓子屋MAP。色とりどりの和菓子の写真がちりばめられている。来る秋に向け、地元和菓子屋が相次いで新作を発表し、数頁に渡り特集が組まれた豪華版だ。


さついも、栗……柿……どれもよき……」


 うっとりと陶酔した声色で呟く間も、視線は、断じて一文字足りとも見落としはしない。洗いざらい舐め尽くす勢いで紙面を這い回る。

 一方、出番待ちである湊の華麗なペン回しはまだまだ続いていた。指のみならず手首を軸に回転させ、反動をつけて宙へと飛ぶ。一回転後、逆手でキャッチ。流れるように今度は左手へ。指先を回りながら軽快に移動していく。ミニバトンと化したペンが指の背、手のひら、甲をくるくると回転方向を変えて回った。

 そんな妙技に一切気づかない山神が、戦慄く。


「ぬ! なんと! ほ、干し柿の中に栗きんとんだと!? そ、そのような罪深い物があってよいのか。欲張りが過ぎよう。……ぬうぅ、かれるわい。こし餡こそ至高とするこの我が、な。……だが致し方あるまい、季節限定物は旬を楽しむだいゆえ。左様左様、致し方なし」


 己を慰め、幾度も頷く。その様子にペンの回転が止まった。

 前足でがっちり両側を押さえつけられた雑誌を、湊が横から盗み見る。黒い鼻が指し示す紙面のセンターを飾るのは、干し柿。オレンジの鮮やかな切り口の中心から、とろ~り黄色い栗きんとんが覗いていた。

 あれか。

 卓に肘をついて伸び上がる。商品名、店名を視認し、軽く首肯する。体勢を戻し、ペンを握り直して粛々と書いていった。


 こうして毎回、山神の独り言にしては大き過ぎる声で選抜された和菓子名を表側、店名を裏側に記していた。折角手土産を頂けるのならば、山神ご所望の品の方がよかろうという完全なる善意である。

 山神は、湊が独り言に耳をすませていると気づいていない場合が多い。ゆえにいつも気になって仕方なかった和菓子を持ってくる播磨の株は右肩上がり、上昇の一途をたどっている。


 眼を伏せ、しみじみと語り続けていた山神は、雑誌の隅から隅まであますことなく読み終え、満足げな深い息をついた。頁を捲り、とある文字を目にした瞬間、グワァッと眼をかっぴらく。


「な、なぬっ、えち屋め、新作はこし餡ではなくつぶ餡だと!? なにゆえそのような愚かしい真似を! 貴様のところはこし餡がウリであろうがッ。し、信じられぬ。……うぬぅ、あの老いぼれじじいめ、ついにもうろくしおったか……」


 山神は独り言では結構な口の悪さを露呈する。それに慣れきった湊は今さら驚くこともない。

 いやに越後屋さんについて詳しいな、と疑問に思いながらも表に和菓子名を書き終え、名刺を裏返した。

 しばし毛を逆立て憤っていた大狼であったが、ふと静かになった。かすかに鳴る風鈴の音が過去を呼ぶ。遠くを見つめるその眼を細め、いだ声で穏やかに言の葉を紡ぐ。


「……様々な甘味を食してきたが、いまだ主のところの甘酒饅頭に敵う物には出会っておらぬ。昔から変わらぬあの味、我の甘味の原点たるあの味を、頑固に、忠実に、真摯に守り続ける十二代目よ、まこと大義である」


 深く感謝のこもった声だった。軽く眼を伏せる。


「主に幸あらんことを」


 巨躯から金色の光が放たれた。数多の細い光線が鼻先に集束し、渦巻き、球を練り上げていく。やがて美しい白きたまが出来上がった。湊の拳大ほどのそれが中空で回転しながら金の光をく。

 山の神が、立ち上がる。

 珠を前に強靭な四肢で立つ、その威風堂々とした御姿から神の威厳が迸った。大狼を起点に爆風が吹き荒れ、放射状に広がる。割れんばかりに振動する窓ガラス。ざわめく神木クスノキ。御神体たる高山の木々も大きく横殴りにされ、葉が、枝が大空へと飛んでいく。軒先の風鈴が高く、激しく、鳴り響く。こうこうと光輝く白い長毛がなびき、黄金の眼が一際強く光った。

 そうして腹底に響く重低音で、厳かに神託を下す。


「よいか、十二代目。これは我からの下賜品である。心して受け取るがいい。最近ちと中身の方が傷んできたであろう。なあに案ずるな、その憂い、即刻、晴らしてくれようぞ。『ワシも、そろそろ引退じゃな』ではないわ。職人たる者、生涯現役ぞ。次代はまだまだ育ちきってはおらぬ。主の足元にも及ばぬ。今のままでは到底我の舌を満足させられはせぬ」


 緩く首を振り、前足を振り上げる。


「精々頑丈な身体を取り戻し、最期の最期までこし餡饅頭作り、次代の育成に励むがよい」


 勝手極まる言霊を乗せた珠を、力強くぶっ叩いた。

 ひゅごっと風切り音を立て、豪速球が山の反対側の塀へと飛んでいく。一瞬ですり抜け、跡に残された金色の軌跡が風にさらわれ消えていった。

 珠が向かった先には、山神御用達の越後屋がある。


 ぱたりとやむ暴風。荒れ狂っていた木々も風鈴も大人しくなり、元の静寂を取り戻す。名刺とペンが飛ばされないよう、必死に両手で押さえていた湊が安堵の息を吐き、卓に突っ伏した。

 どっこらせ、と神の御業を成し終えた大狼が、大仰に座す。後ろ足で踏んで押さえていた地元情報誌を引き寄せ、ふたたびくまなく目を走らせる。またもぶつぶつと呟き出した。

 湊が新しい名刺を手に取る。神様ってほんと勝手だ、人間ごときには推し量れん、と思いつつ、さらさらと書き記していく。もちろん越後屋の紅白甘酒饅頭である。

 毎回、店名を書いたものを二、三枚紛れ込ませていた。全国を飛び回る多忙な陰陽師が選びやすいようにとの配慮からだ。

 どれが選ばれるのかは、播磨のみぞ知る。



 簡素な紙で包装された越後屋の紅白甘酒饅頭を播磨から受け取った。全体がほんのりと温かく、蒸したてであろう旨を伝えてくる。甘酒とこし餡の甘やかな香りが湊の鼻先をくすぐった。

 当然、座卓についていた大狼の尻尾は高速で振られ続けている。もはや残像が見えない。越後屋名を記した名刺を渡す前に実物を頂けたのはぎょうこうだった。

 播磨の身体から力が抜ける様が、湊からも見て取れた。彼はいつも異常に緊張しているようで、若干気の毒さを感じる。傍らにいるのはどれだけ気安くとも、偉大なる神だ。ある意味仕方がないともいえよう。

 たとえその姿は見えておらずとも存在を認識していることは、山神から聞かされずとも湊は気づいていた。しかしあえて本人には確かめていない。播磨の態度が硬いのもあるが、用事が済めば、さっさと帰ってしまうせいでもあった。

 手土産と引き替えに名刺の束を渡す。礼を述べて珍しくうっすら笑ってくれたが、名刺を丁寧に捲り、怪訝な顔になった。


「いくつかペンの種類が違うようだが」

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