第6章 山神の御業、とくとご覧あれ ②

「あ、はい。俺の力ってペンと相性がありまして、力が込めやすいのと込めにくいのがあるんです。鉛筆、シャープペン、クレヨンは駄目みたいで。それで今、主に使っているペンよりもっといいのがないかと色々試してみました。問題はないはずですけど」


 山神のお墨つきゆえ、間違いない。インクが柔らかい方が比較的、力を流しやすいと知れて、いい発見になった。書いた物に惜しみなく金を払ってくれるのならば、できるだけ効果の高い護符にすべく日々試行錯誤中である。次は筆ペンを試す予定だ。

 播磨は頷き「確かに」と納得し、色鮮やかな名刺を同型の薄いケースにしまう。祓う力を一時的に封印する物なのだと以前教えてくれた。素のままであれば、遭遇した悪霊を勝手に祓ってしまい、いざという時に使えない事態を避けるためだという。そんな心配があるのかと目が覚める思いであった。


 いつもならば交換後、速やかに暇を告げる播磨であったが、席を立とうとしない。何か言いたそうに躊躇っているようだ。「どうかしました?」と湊が水を向けると、ややしばらく逡巡後、しどろもどろに話し出す。


「その……何か、変な、妙な事は起こっていないか? ……高圧的な男が来たり、妙なモノが家に来たり、だとか」

「いえ? 特に何も」


 首を傾げる。実際何も変事は起きていない。傍らで大狼がそわそわと落ち着きなく巨躯を揺すり、軒から逆さまになった眷属テン三匹がこちらを凝視していたり。播磨が来たので一時的に屋根に上がった霊亀、風神、雷神が賑やかに吞んだくれたりしているが。いつも通り楠木邸の日常風景であり、極めて平和だ。

 怪訝そうな湊の様子を見ながらも、いやに真摯な面持ちになった播磨が一度、山神の方を見やる。また湊へと視線を戻した。


「俺を目の敵にしている少しタチの悪い同期がいるんだが、ソイツに君の護符を見られて、目をつけられた。すまない。俺の行動を監視するために式神を使うようなやつなんだ。その都度始末しているが、人を雇われた場合は対処しきれない。……身辺に気をつけてくれ」

「……わかりました」


 式神なる単語に大いに興味を惹かれたが、神妙に答えた。動かざること山のごとしを体現していた山神の視線が緩慢に動き、播磨を捉える。座卓に置かれた播磨の手に力がこもった。


「案ずるな。人間が愚かしい生き物なのは昔から何一つ変わらぬ。よく知っておるわ。たかが一匹の小物ごときに後れを取る我ではないぞ」


 実に頼もしいお言葉であったが、涎まみれでは威厳の欠片もなかった。



 田んぼの畦道を肩で風を切り、さもかったるそうに歩く一条が、道端に落ちていた空き缶を土もろとも前方へと蹴り飛ばした。

 汗が滴るその顔は不快げに歪み、不機嫌さを隠そうともしない。いけ好かない優秀な同期、周囲からの含みを持った視線の数々。頭上から照りつける夏の盛りを過ぎてなお、いまだきのいい太陽すら腹立たしいのだろう。空き缶に八つ当たりした程度で、苛立ちが収まるはずもなく。鋭く舌を打ち、数メートル先に転がした空き缶まで追いつくと、力任せに何度も踏み潰した。

 子供染みた行動を繰り返す後ろ姿を、同期かつ幼馴染みの女がめた表情で眺める。いつものことだと、終わるのを傍に控えて待つ。零れそうになるため息を喉奥で嚙み殺した。


 ようやく土を蹴る音がやむ。土面にめり込んだ空き缶を踏みつけた一条が、前方を忌々しげに睨んだ。

 緑深い山を背景に、ぽつんと建つ一軒の和風モダンな家。

 なんの違和感もなく山の風景に溶け込み、まるで共生しているかのようにそこにある。二人の目指す目的の家だ。

 一条が忌々しげに舌を打つ。


「何でこの俺がこんなド田舎まで出向いてこなきゃ、なッ!」


 顔面にやぶの群れから特攻をかけられた。


「うっぜえッ、俺じゃなくてアイツんとこに行けよっ!」と女の方へと両手を振り回し追いやる。理不尽な台詞せりふを吐き、滑稽な動作を続ける着崩れたサマースーツの男を、女は無言で見つめた。わずかに眉をひそめ、拳を固く握りしめて。


 女の名はほりかわ、一条家の傍流にあたる血筋の者だ。

 本家の跡取りである一条に逆らえず、言われるまま、されるがまま、ただただ付き従う。まさに主人と下僕といった関係である。幼少期に出会った時に、堀川の地獄が幕を開けた。辛うじて手だけは出さないものの、嫌み、嘲笑がデフォルトの暴君に振り回される日々を送っている。先日、悪霊に捕らえられた一条を見捨てて逃げて以来、前以上に当たりがひどくなっていた。


「くっそ、口ん中入ったじゃねーか!」


 道に唾を吐き続ける見苦しい様を堀川は胸中であざわらう。袖で口許を拭う粗野な仕草は、一応、名家の生まれにもかかわらず残念の極みだ。嫌々ながらもハンカチを出せば、いちべつし「いらねえ」と鼻で笑う。捨てる羽目にならずに済んだと安堵し、ポケットへと戻す。気づかれないよう、ため息を夏風に流し、常に感じている苛立ちをやり過ごした。

 一条が顎で家の方を示す。


「おら、さっさと行くぞ。ノロマ」


 返事を待つことなく、背を向けて歩き出す。しばしの時間を置き、堀川は嫌がる足を無理やり動かした。


 砂利道を過ぎ、二人は表門前に立つ。古式ゆかしい数寄屋門はまだ新しく、今時では珍しいだろう。

 白い塀に囲まれた瀟洒な黒い外観の木造平屋。塀の外側には、家を護るように幾本もの巨木がそびえ立ち、枝葉を四方へと伸ばし、表門に木陰を作っていた。容赦ない日差しを頼もしく遮ってくれる樹冠だが、頭上からひっきりなしに蝉の声が降ってくる。まるで神社のようだ、と堀川は感じた。


「手間、取らせやがって」


 斜め前の男が悪態をつく。

 一条が一方的に敵視している同期の播磨が先日の任務時に使った護符は、異常とも言えるほどの速さと強さで怨霊を祓った。その恐るべき威力を目の当たりにした一条は、なんとしてでも護符の出所を知るべく播磨の行動を式神で監視しようとした。が、即座、看破され消し炭にされてしまう。幾度かの惨敗を得て、民間調査機関に依頼し、昨日、護符の制作者の住む家を突き止めた。取るものとりあえず勇んで赴いた次第だ。


 門柱に掲げられた表札に『楠木』と彫られてある。ここで間違いないようだ。

 形ばかり襟を正した一条が軽く咳払いし、インターホンを押す。待つことしばし。

 応答なし。押す押す、応答なし。押す押す押す、応答なし。

 うんともすんとも返ってこない。格子戸越しに見える玄関扉も開く様子はない。

 もう少し間を置けばいいのに、と堀川は思いながらも、その口は真一文字に引き結ばれ開かれることはない。忠言などしようものなら、何を言われるか知れたものではない。余計なことは言わない、しないに限る。

 だが。

 けんの才も、霊力も優秀とは言えない堀川でも、この家の異質さを知覚していた。断じて土足で踏み入ってはならぬ場所。無闇に近づいてならぬ場所だと、本能が大音量で警鐘を鳴らし続けている。

 なぜ、一条は気づかないのか。なぜ、そんな傍若無人な真似ができるのか。到底理解できない。こちらは先ほどから冷や汗が止まらないというのに。すぐさまここから逃げ出したい。

 なれど自然に後ずさろうとする足を気合いだけでその場にとどめる。先日、叱責され、脅された内容を思い出す。今度また逃げれば、家族に累が及ぶ、と。

 青ざめた堀川の傍ら、インターホンを呆れるほど連打した男が吐き捨てる。


「おいおい、まさか出かけてんじゃねえだろうな」


 調査の結果、楠木湊は一人暮らしで、あまり家を空けることなく、日用品の買い物程度しか出かけないという。どうせいるに違いないと決めつけていた暴君がえる。


「ふっざけんなよ。わざわざこんなど田舎まで出向いてきてやったんだぞ、この俺が! 出てきやがれッ!」


 振りかぶった足が、前へと繰り出される。履き古した革靴が格子戸に触れそうになった直前。

 ──ちりん。

 高く、澄んだ音。凛と響いた風鈴の音が、暴挙を止めるべく一歩前へと歩み出た堀川の耳にだけ届いた。



 スカッと空を切った足に振り回された身体が、派手に地面へと転がった。

 横顔、肩、腰を湿った土で強打。あまりに無様。羞恥を覚えた一条が瞬時に跳ね起き、よろけながら立ち上がる。

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