第6章 山神の御業、とくとご覧あれ ③

「ッんだよ、一体、なんだっつー……」


 絶句。眼前の景色が様変わりしていた。

 山だ。

 なぜかおびただしい数の木々の合間にいる。視界に入るのは、緩やかな斜面にのびのびと生える数多の太い幹を持つ針葉樹ばかりだった。


「ああ?」


 首を巡らす。どう見ても山の中腹辺りだろう。半開きの口で、見上げる。遥か高み、枝葉に細く切り取られた薄い青空が見えた。信じ難い光景にがくぜんとなり、首の痛みに顎を引く。昼なお薄暗い静まり返った山中には、誰もいない。あれだけうるさかった蝉も、すぐ傍にいた幼馴染みもいない。たった一人きりだ。


「な、なんでだよ、だって、今まで、門の前に、いただろ!? ゆ、ゆめじゃ、」


 震える自分の声だけが深山に木霊した。戦慄く手で痛む頬に触れる。ざらざらとした土の鮮明な感触が、夢ではなく現実の出来事だと伝えてきた。

 護符で式神を呼ぼうとポケットに手を入れて探るが、ない。確かに入れていた頼みの綱がない。一枚もない。慌てふためき、すべてのポケットを引き出し、くまなく探るも無駄に終わる。ならば、と苦手な印を結び、術を発動させようしても、無駄だった。何も起こらず、霊力を操れない。ただの一般人と成り果てていた。


 なんで、どうして。幾度も壊れた機械のように繰り返し、頭を搔きむしる。程なくすれば、冷静になってくる。音がしない。するのは、己が発する音のみ。どこからも生き物の気配がしない。動物、虫、何一つとしてその息遣いを感じられない。

 もしかして、ここはこの世ではないのか。

 ぞくり、と背筋に震えが走った。

 身も世もなく大声で叫んだ男が駆け出す。だが斜面を這う幾筋もの根に爪先を引っ搔けて転んだ。倒れ伏し、首だけで振り返る。額から血を流し血走った目が、地面から浮き出た憎い根を捉えた。奇声をあげて起き上がり、踵で太い根を蹴りつける。

 何度も、何度も。根が土から捲れ上がっても。

 最後に木肌が剝げて折れた根を蹴り飛ばし、幹に叩きつけた。荒々しく肩で息を繰り返し、走り出す。滴る汗を撒き散らし、斜面を下っていく。けつまろびつ、落ち葉を跳ね上げ、脱げた靴をはね飛ばし。麓を目指して、転げ落ちるように下っていった。



 緑一色の連峰をあかね色が覆っていく。一段と暗さを増した山中、比較的緩やかな斜面に立つ太い幹に一条がもたれ、座り込んでいた。

 どこまで下っても、終わらない斜面。変わらぬ景色。山を下りられない。

 いつまで経っても麓にたどりつけず、夕焼けに気づき、とうとう足が止まってしまった。闇雲に山中を駆け下り続け、一体どれほどの時間が経過したのか。

 木々の額縁の中、太陽が山間へと滑るように落ちていく。楠木邸に着いたのは昼前だった。恐らく七時間以上、彷徨さまよい続けているだろう。

 切り傷の入った両手で片足の膝を抱え、ただただ太陽を見つめ続ける。たとえそれが、己の知る太陽でなくても。尋常ではなく疲れているが、喉の渇きも空腹も感じない。あり得ない事態を受け入れられず、思考を働かせることすら脳が拒否していた。

 薄汚れた両手で、血がこびりついた頬を包んだ。


「い、やだ、いやだ。もうたくさんだ」


 悲痛な声が終わると同時、日が落ちた。辺り一帯、闇に包まれる。

 ──ちりん。

 どこからともなく聞こえてきた、かすかな音。真の闇の中、淀んだ瞳に怯えの色が走る。

 ──ちりん。

 音が大きくなった。音の発生源がわからない。前からなのか後ろからなのか。あるいは、右か左か。伸ばしていた脚を引き寄せ、腰を浮かせる。

 ──ちりん。

 またも大きく。軽やかな、涼しげな、場違いな音。

 少しずつ、近づいてきている。

 破れた靴下を履いた足が地面を蹴った。よろめきながら駆け出して間もなく蔓延る根につまずく。宙に投げ出され、風圧で巻き上がる髪、服、内臓が浮き上がる感覚。必死にもがく手は何も摑めない。固い幹に全身を叩きつけられるまでの刹那の間。

 あれは風鈴の音だ、との閃きが頭の片隅を過った。



 空振った足が宙で弧を描き、軸足だけで踏ん張りきれず、一条が土の上へと転がる。


「いっでッ!?」


 地面に側頭部をしたたかに打ちつけ、星が飛んだ。頭を抱えてもだえることしばし。顔を上げ、滲んだ視界に数えきれぬ木立が入った。忙しなく瞬き、見上げる。所狭しと枝葉を伸ばす合間には、青い空があった。どう見ても、昼だ。


「う、そだろ。おれ、し、死んだんじゃ……」


 つい先ほど、恐らく幹に全身を強打したはずだ。骨が砕ける音も聞いたはずだ。かつて感じたこともない激痛を思い出し、脈拍が加速していく。息がしづらく身体の震えが止まらない。あれだけの痛みを受けてなお、生きているなどあり得ないだろう。

 現実ならば。

 地面に打ちつけた左半身が鈍痛を訴えてくる。痛みを感じるというのならば夢ではなく、現実ではないのか。生きているのではないのか。

 訳がわからず、小刻みに震え続ける男にさらなる追い打ちがかかる。止めどなく流れる涙で滲む視界に入ったのは、土から無理やり引き出されて千切れた太い根だった。つい今し方、無残に土から引きずり出されたばかり、といった土の形状、色と鼻をつく濃い土の匂い。揃いの土気色になった相貌で、恐る恐る視線を動かす。幹の傍、地に転がる根っこの破片があった。

 元に戻っている。最初の場所に戻された。時間も、身体の状態も。何もかも。

 早鐘を打つ心臓を押さえ、身体を丸めて泣き暮れた。


 数時間以上泣き続け、泣くことに飽きた一条は、荒々しい足取りで斜面を下る。鼻先に垂れるつたを手で払い退け、「蔦がうぜえ」と相も変わらず悪態をつきながら。悲嘆にくれて涙を流すだけ流せば反動で、怒りが込み上げてきていた。


「なんで俺がこんな目にあわなきゃなんねえんだ。ぜってー、麓まで下りてやる」


 腫れた瞼の下の目は完全に据わり、鼻息も荒く気色ばんで燃えていた。


「あいつか? あいつのせいか? そうだ、そうに決まってる。いつも取り澄ました顔しやがって、ムカつくんだよ。何もかもお前が悪いんだ、播磨! お前のせいだろ!」


 木霊する裏返った声に何も応えは返ってこない。湧き上がった怒りに任せ、摑んだ枝をへし折る。

 ──……りん。


「なんだ、なんの音だ……?」


 かすかに何かの音が聞こえた。が、大声で喚き散らし気が大きくなっている一条は、空耳だと片づけてしまう。


「それともなんだ、あの家のやつが、」


 ──ちりん!

 みみもとではっきりと音が聞こえ、怯えて肩を跳ねさせた。

 思い出した。前回この風鈴の音が鳴り、突然吹いた風に背中を押されて斜面を転がり落ちたことを。

 ひゅっと息を吸い込んだ直後、背後からまたも暴風に叩きつけられた。声をあげる間もなく、摑んだ枝ごと急斜面を、弾みをつけて転がり落ちていった。


 死に戻ること、既に七回。木立の合間、胡座をかいて座る一条が千切れた根を指先でくるくると回す。下っても、下っても、決して下れない。あと何度同じことを繰り返せばいいのだろう、よもや永遠か。震え上がり、激しくかぶりを振る。

 図らずも力が入り、握り潰しそうになった根からゆっくりと力を抜き、静かに地面に置いた。息を潜め、耳をすませる。どこからも、あの風鈴の音色は聞こえてこない。条件反射で強張っていた身体から力を抜いた。幾度も深呼吸し、ころりと地面に転がる木肌が剝き出しになった痛ましい根を見つめる。

 七回、死に戻った男は、ようやく頭を働かせ始めていた。

 繰り返すうちに、わかったことがある。悪態をつき、山の物に傷をつければ風鈴の音が鳴る。そして暴風が吹いたり、巨木が倒れてきたり、巨岩が空から降ってきたり。強制終了させられることに。

 片意地を張り続け、態度を改めなかった男が、ついに改心を決意した。縦横無尽に地を這う根の合間、比較的平たい箇所に正座し、手前の根と差し向かう。


「申し訳ありませんでした」


 深々と一礼。下げたままの頭の下で、下唇を強く嚙みしめて、膝の上で握った拳にあらん限りの力を込めて。

 風が吹き、垂れた前髪が揺れる。がばり、と勢いよく顔を上げた。くるくると回る根っこを手に汗握り見守る。徐々に回転速度を落としていき、やがて止まる。尖る先端が指したのは、山の上方。素早く立ち上がった。

刊行シリーズ