第6章 山神の御業、とくとご覧あれ ④

 斜面を登り始めると次第に山の様子が変わってきた。

 針葉樹が無限に続いた下りと一転、広葉樹が続く。見慣れた広い葉を揺らす巨木の合間を進んだ。樹林帯を抜け、草薮を搔き分け、全身汗みずくで重い足を引きずり、山頂を目指す。緩やかな登りの緑のトンネル内に、自分の息遣い、踏み分けた草葉が立てる音だけが響いた。

 やがてトンネルの先に平坦な道が見えてくる。

 いても立ってもいられず、駆け出す。喘鳴を響かせ、雑木林から足を踏み出した。傷だらけの革靴の底が踏むのは、ならされた狭い道幅の山道だった。明らかに自然にできたものではなく、人工的なものだ。喜びに一時的に脚、はいの痛みを忘れ、口角を引き上げた。

 左側を向けば、緩く曲線を描き、下方へと伸び、途中から丸太を並べた階段になっている。次いで、右側。下り道と打って変わり、急勾配の坂道が上方へと伸びていた。

 一条の顔が曇る。急坂には行く手を阻むようにいくつもの巨岩が転がる。


「……どっちだ」


 膝を折り、山道に座り込む。乱れてた呼吸が落ち着くまで、どちらを選択すべきか悩み続けた。



 一人きりの食事は、ひどく味気ないものだ。

 ダイニングで一人寂しく昼食を終えた湊が、椅子から立ち上がる。子供の頃から食事時はテレビをつけないのが習慣だ。己の立てる物音しかしないダイニングからキッチンへと足を向ける。テレビの力を借りなくても、会話が途ぎれることなく賑やかだった実家を思い、ふと息をついた。

 静かな部屋で一人黙々と食すのは、今もって慣れないでいる。

 シンクの前に立ち、数分で食器を洗い終える。一人分程度、さほど時間もかからずあっさり終わった。シンクに散る水滴を丁寧に拭き取る。あまり屈む必要もない高めのシンクは、こだわりが強く長身だった故人に合わせて備えつけられた物だ。至って使いやすく、気に入っている。

 最後に手を洗い、タオルで拭きながら縁側を見やる。窓際に、寝そべる大狼の背中があり、微動だにしない。

 近頃、山神は寝てばかりで、眷属たちも久しく訪れていなかった。珍しく起きた際、具合でも悪いのかと尋ねてみれば、何も問題ないという。ゆえに無理やり起こすような真似はしない。

 が。

 冷蔵庫から食後のおやつを取り出し、皿に盛りつけ、窓を開けて縁側へ。ことり。顔の近くにそっと置いた。すぐさまうごめく鼻っ柱。大きく上下する胸部。振られ始める尻尾。

 嗅いでる嗅いでる。しゃがんでほおづえをついた湊がにやけて見つめる。くわっと両眼を見開いた大狼が「黒糖饅頭であろう!」と確信を持って叫び、ムクッと頭部を起こした。鼻先には、ピラミッドを形成した黒糖饅頭お供え物。両眼を細め、深く頷く。


「……やはりな」

「一緒にどう?」

「うむ。頂こうではないか」


 時折、誘いはしていた。釣果は七割、まずまずといったところである。

 ともに饅頭に舌鼓を打った後、またしても山神は瞼を閉じてしまった。特にしょうすいしているようには見受けられず「ま、いっか」と二つの皿を持って立ち上がり、庭を見やる。視線の先には、ひょろりとした一本のクスノキがある。種から急激に育ち、それから全く成長が見られない。

 青葉がついていることから、元気ではあるようだ。山神も大丈夫だと言っており、心配はいらないのだろう。しかし、どうにも気にかかり眺めていると、不意に気づく。


「……最近、動くの見てないな……」


 しばしば風に揺られ、戯れるようにざわざわと枝葉を動かしていたのに。


「……風が吹いてないからか」


 そのうえ、久しく風鈴の音も聞いていないことにも、気づいてしまった。しばらく無風の縁側に立ち尽くし、軒先に下がる風鈴を見つめていた。



 一条が嫌がらせに近い急坂道を登れば、祠があった。

 なんの変哲もない、ありきたりな古びた石造りの祠の前に立つ。だが期待感がわき起こり、落ち着いていた心臓が高まっていく。苔一つない祠の中を覗いてみれば、丸い石が三つあり、一つは真っ二つに割れていた。

 この祠が元の世界へと戻れる場所だという保証はどこにもない。

 けれども、ここから先の道は大岩が道を塞ぎ、登るのは不可能に近い。やるしかないだろう。

 プライドだけはエベレスト級、謝罪の経験などほぼない男が片膝を地につけた。正座して一度背筋を伸ばし、三つ指をつく。ゆっくりと頭を下げると、汗で束になった前髪が土についた。


「伏してお願い申し上げます。お願いします、俺を、俺を元の世界へ帰してくださいっ、元に戻してください!」


 何度も、何度も、何十回も。土下座して地に額をこすりつけ、乞い願う。腹の底からありったけの声を張り上げて、噓偽りのない真摯な思いを込めて。

 されど山に反射した男の必死な声は、自分にむなしく戻ってくるだけだった。

 事態は何も変わらない。風もなく、風鈴の音もない。それでも、一条は諦めない。傷つけた山の木々、葉、つる、根へ向けて、申し訳ありません、すみません、ごめんなさい。自分が知る謝罪の言葉すべてを繰り返す。ただただ、繰り返した。

 徐々に、徐々に声が小さく掠れていく。それでもなお、れた声を吐き出し続ける。震える両手で土を握りしめ、声を振り絞った。


「山の神よ、どうか、どぅか、お願いしますっ、俺を、」





「帰して! く、ぅわっ!」


 よろめいた身体は、腕を引かれたことにより転倒を免れた。たたらを踏み、体勢を立て直した一条は、眼前の数寄屋門に気づく。大きく身震いした。


「何、言って……?」


 片腕に添えられたほっそりとした手の持ち主が小声で問う。背後を見やれば、そこには、見慣れた幼馴染みの顔があった。鉄面皮の堀川が浅く眉を寄せている。通常であれば能面だの、陰気くさいだの、罵っていたその顔を見て、どっと安堵が押し寄せてきた。


「……も、もどった」


 震える声でたどたどしく呟き、片手で身体の至る所を探るように撫でる奇妙な挙動を繰り返す。先刻までの威勢はどこへやら。あれだけ傍若無人に振る舞っていたというのに。


 堀川にしてみれば、格子戸を蹴りつけようとした一条が、突如、後ろへ飛ぶ勢いで下がってきたのだ。初訪問の他人の家、得たいの知れぬ雰囲気の家への、神をも恐れぬ所業。それを止めようと手を伸ばしたところに、ちょうど腕が来たので支えたに過ぎない。あげく大声で帰してなどと叫び出す始末。訳がわからず面食らう。

 間近の顔が泣きそうに歪む。暴君の突然の変貌が微塵も理解できない堀川は、気味が悪そうに腕から手を離した。

 距離を取るべく二歩ほど後退すると、一条が二歩前進してきた。三歩横に逃げる、斜めから三歩寄ってくる。

 ざざっ、ざざ! と踏まれ続ける砂利の音だけが、しばし門前で鳴った。

 いつまでも、振りきれない。このままでは、すがりつかれそうだ。想像しただけでおぞが走る。

 やだ、怖い。誰か助けて。神様、仏様、お母様! 誰でもいいから! それになんなの、その安心しきった薄気味悪い顔は。私に近寄らないで!

 そう言えない自分が、情けなくて、がゆくて荒れた下唇を強く嚙みしめた。その時。

 ──ちりん。

 家から聞こえてきた音で、劇的に状況が変わる。

 凛と高く鳴った音色が聞こえるやいなや、一条の顔が赤から青に急変し、だっのごとき勢いで逃げ出した。音高く砂利を蹴立て方々へ跳ね飛ばし、数歩大股で進んだ先で、スッ転ぶ。ズザーッと横倒しで派手に滑り、砂利を搔き分けて長細い穴を作る。即、跳ね起き、舗装されていない道を疾走。みるみるうちに遠ざかり……また、転んだ。豊かに実る田んぼの稲穂たちに隠れ、見えなくなった。その上を赤とんぼの群れが横切っていく。

 幼馴染みの本気走りを初めて目にし、堀川はあっられていた。

 背後から風鈴が連続で鳴り響く。

 なぜか、今し方聞こえた時に感じた身体の芯が凍えそうな恐ろしさはない。ただの風鈴の音が、やけに荘厳な調べのように感じられた。

 なぜか、呼吸がしやすい。かすかに笑みを浮かべた堀川は、目を閉じ、涼やかな音色にしばらく耳を傾けた。




「まったく喧しいやからよ。はようねばよいものを」


 大狼は目を開けざま、ぐるぐると喉を鳴らし、鼻梁に深い渓谷を刻んだ。

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