第6章 山神の御業、とくとご覧あれ ⑤

 山神は鬱陶しい一条を追い払うべく、風鈴を搔き鳴らしたに過ぎない。結果的に堀川を助けることになっただけだ。山神にとって己に敬意を払わない人間が、どうなろうと知ったことではない。気にかけてやる気も毛頭ない。

 普段から神の存在を信じてもおらず、どころか馬鹿にしておきながら困った時だけの神頼みなど、片腹痛い。そんな調子のいい願いに耳を貸す気など更々ない。

 神とは人間にとって都合のいい存在ではなく、呼べば飛んできてくれるお手軽なヒーローでもないのだから。


 目覚めたばかりの山神は、ご機嫌麗しくないようだ。

 玄関チャイム連打など一つも耳にすることなく、座卓に向かっていた湊が無言で室内へと戻っていく。ふたたび現れたその手には、きんつばが載った皿。見るまでもなく、匂いで気づいた大狼の逆立っていた毛が大人しくなった。

 人間一人分の精神のみを神域に閉じ込めるため、神力を使い過ぎた山神は、一時、眠りにつかねばならない。その前に英気を養う気満々である。


「頂こう」

「どうぞ」


 ばったばったと忙しなく振られる尻尾を見ながら、湊もきんつばにようを刺した。



 性根のねじ曲がったタチの悪い人間が、たかだか数ヶ月程度の短期間で容易たやすく心を入れ替え、聖人君子になれるはずもなく。人間、喉元過ぎれば熱さを忘れるものである。一時的に鳴りを潜めていた一条のモラハラが、最近また見られるようになっていた。


 昼食後、国に属する陰陽寮部署内の一室。ブラインドが下ろされた室内の一角で、一条がポケットに両手を突っ込み、大股を開いて自席に座る。その対面、最近やや雰囲気が明るくなった幼馴染みの堀川が、スマホを眺め続けていた。

 ちらほらと周囲の席にいる同僚たちが、険悪な雰囲気を放ち始めた一条へと控えめに視線を向けている。一様に何かを期待して待っているような、妙に浮わついた空気が漂う。

 そんな周囲の様子を、一条は何も気づいていない。何を言っても生返事しか返さない、幼馴染みに苛立っていた。


「アイツとは駄目だっつてんだろ。行くんじゃねえって」

「無理です。仕事なんで」

「最近のお前は、かわ、あー、いや、ちがっ、ふ、太ったから前以上に足手まといになるだけだろ」


 バキッと小気味よい音。ボールペンを音高くへし折ったのは、近くの席にいた歳若い女性だ。美しくネイルが施された手が、真っ二つに折ったボールペンを足元のゴミ箱に、叩き入れた。すかさず椅子を後ろへ下げる。立ち上がりかけたその細肩を、隣席から素早く伸ばされた手にわしづかまれる。椅子に縫い止められた。立てぬ。

 万力のごとき力の持ち主に鋭い目を向ける。そこには中年に差し掛かってもなお、美しさを保つ女性の至って涼しい顔。仲のよい先輩への暴言に堪えきれず、はんにゃと化した女性からまがまがしいオーラが放たれる。

 止めてくれるな、姉上よ! 今日こそあのモラハラヘタレ野郎ぶっ潰す! と般若から無言の訴えを受け、年かさの女性が首を振る。鮮やかな紅色唇の片側をつり上げ、ビューラーマスカラなしでもくるんと上向きバサバサまつげの下から、意味ありげなメッセージを放つ。

 しばし、待たれよ。

 ハッとその意味に気づいた般若がとした令嬢に舞い戻り、にんまりと笑う。無言で頷き合う、よく似た面差しの播磨姉妹であった。


 基本的に任務は二人一組で当たることになっている。一条は近頃とみに気になる堀川が、己以外の男と組むのが気に入らない。なんと言っても今回の相手はあのにっくき播磨である。行くな断れ、と私情を挟みまくった命令をしていた。しかしそのれったい感情が、どこから来るものなのか理解していない。周囲は情緒未発達の一条に、日々生ぬるい視線を送っている。

 にべもない堀川に対し、一条の苛立ちが増していく。

 スマホを見つめ、流れ落ちてくる髪を耳にかける堀川も無論、一条の淡いおもいに気づいていない。


「おい! いい加減にこっち向けって、」


 ──ちりん。

 途切れた罵声。息つくまもなく、膝裏で椅子を蹴倒した一条が身を翻す。必死の形相で机と壁の合間を駆け抜け、部屋を飛び出していった。疾風で捲れていた壁に貼られた紙片が、順に元の位置へと戻っていく。

 これで数日は大人しくなる。

 億劫そうに立ち上がった堀川が、さも面倒くさそうに倒れた椅子を戻した。それから肩を震わせている男性陣と、サムズアップを向けてくる女性陣に向き直る。


「お騒がせして、大変申し訳ありませんでした」


 一転、晴れ晴れとした笑顔で謝罪した。その艶かな口唇くちびるの両端は上がりっぱなしで下がる様子はない。

 隣席の葛木が呆れたように告げる。


「効果抜群だねえ、ただのスマホの着信音なのに」

「これの何が怖いんでしょうね。いい音なのに」


 大切な宝物を抱くように両手でスマホを胸に抱き、血色のいい頬を綻ばせて笑う。


「ほんとだねえ。俺も念のため入れとこ」と葛木がスマホを取り出した。

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