Ⅰ ②

 足の悪い母を連れて逃げることはできず、ラクリアメレクはくわを手に必死で魔族を追い払おうとするが、歯が立たず、その身にやりを突き立てられて倒れ伏す。

 数時間後、ラクリアメレクは目を覚ました。

 彼は自身の命が奇跡的に助かったことを知ったが、同時に幸運が彼にしか与えられなかったことも理解した。

 目の前で母が、原型をとどめぬほどに切り刻まれていたのだ。

 たったひとりの肉親の無残な死を目にしたラクリアメレクは、傷が開いて全身から血が噴き出すほどにどうこくした。

 その日から彼は、日々の大半の時間を祈りに費やした。

 最低限の糧を得るために畑を世話し、それ以外の時間は大樹のそばで神に祈った。

 当時は各地に土着の信仰があるのみで、今日の統一神教であるヨナ教は無かった。

 ラクリアメレクも神をよく知らず、何に祈れば良いのか、どう祈れば良いのか分からなかった。

 だが母の魂の安寧を祈らずにはいられなかったのだ。

 母の向かった先が天国と呼ばれる場所なのか、ほかのどこかなのかよく分からないが、どこであれ、もう傷つく必要のない安らぎを得て欲しかった。

 そして魔族と戦う力を、悲しみを繰り返させない力を希求せずにはいられなかった。

 なんの落ち度もない、平和に暮らしているだけの人々を突如じゅうりんする理不尽にあらがうにはどうすれば良いのか、その術を知りたかった。

 それで、知る限り最も立派な大樹を神に見立てて毎日祈り続けたのだ。

 祈るぐらいなら戦う力を身に付ければ良いものを、などとそしる者は居なかった。

 人と魔族の力の差はあまりに明らかで、人が鍛えて戦えるようなものではなかったのだ。

 だからラクリアメレクにできるのは祈ることだけだった。

 穏やかなものであるはずの祈りという行為だが、彼のそれは苛烈だった。

 雪が降り積もる日も、嵐がすさぶ日も、だるような酷暑の日も、ラクリアメレクは小動こゆるぎもせず祈り続けた。

 畑に出る日は最小限になっていき、彼の人生は祈るための人生となった。

 飲まず食わず眠らずで何日も祈り続ける彼の姿は、聖者と呼ぶにはあまりにも鬼気迫るものであったと伝えられている。



 ここまで読んで、いったん俺は本から目を上げた。


「兄さま、こちらでしたか」


 そこへフェリシアがやってくる。


「ああ、これをもう一度読むようにと、さっき父上から言われたからね」

「兄さまは一度書庫に入ると何時間も出て来なくなるから心配です。明日は大事な日なんですから、今日は早めにお休みになってくださいね」

「分かったよ、ありがとう。フェリシアもお休み」

「はい。えっと、お休みなさい、兄さま」


 そう言って、フェリシアは立ち去った。

 もう少し話をしたかったのかもしれないな。だとしたら悪いことをした。

 でも読書の邪魔をしては悪いと、フェリシアは早々に立ち去ったのだ。

 彼女の心遣いに感謝しながら、俺は再び本に目を落とした。



 祈り続けたすえ、ある日ラクリアメレクはついに天啓を得る。

 脳裏に、途切れ途切れではあるが、どこまでも温かく、そして力強い声を聞いたのだ。


「……聞……ますか? ……聞こえますか?」


 ラクリアメレクは、声が神のものであることをすぐに理解した。

 何故なぜなのかは分からないが、それが神の声であると確信できたのだった。


「優しくて、そしてそれ故に祈り続ける人よ……。女神ヨナの名において、あなたに秘奥を授けます」


 ラクリアメレクは何かがその身に流れ込むのを感じた。

 そして女神との間にきずなを作る術を知ることとなった。

 それこそが女神の言う秘奥であったのだ。


「どうか、これを人々に伝えてください。そして……よこしまに……立ち向かって……」


 声が段々と遠くなっていく。


「人よ……どうかあなた方の力で、本来の世界を取り戻して…………」


 神の声が消えると、ラクリアメレクは大樹の下、ゆっくりと立ち上がった。

 神の声はどこか母の声に似ていたような気がした。


 それからラクリアメレクは各地を巡り、人々に秘奥を施した。

 秘奥により魔力を得た人々は、その力で魔法を行使し、魔族から家族を守り、生活を守った。

 人々はラクリアメレクに深く感謝し、地位や財を差し出そうとしたが、彼はそのすべてを固辞した。

 感謝されるべきは女神ヨナであり、自分は神と人とを仲立ちしたに過ぎない、と彼は言ったのだ。

 そしてラクリアメレクが没した後、彼と女神ヨナを愛する者たちはヨナ教を作った。

 女神ヨナとの間に繫がりを作る秘奥はしっかりと伝えられ、ヨナ教の神官たちがそれを人々に施し続けた。

 秘奥は、しんの秘奥と呼ばれるようになっていた。

 ヨナ教の神官たちは、魂に神との繫がりを通す際の負荷を考慮し、しんの秘奥を授けるのは十五歳になってからと定めた。

 そして各地で秘奥を施し、人々に力を与え続けた。

 魔族に対する人々の反攻は次第に組織化していき、都市が作られ、国が作られた。

 特にラクリアメレクの生地に興ったロンドシウス王国は、人類圏最大の国となった。

 そして今日に至るのだ。




「ふぅ……」


 本を閉じて一息ついた。

 明日、俺はしんの秘奥を受ける。

 そして魔力を得る。魔族と戦う力を。

 魔族。

 人にあだなす存在。

 生まれつき強い魔力を持つ者たち。

 魔力を持たない時代、人は魔族に蹂躙されるのみだったと言われている。

 だが、六百年前に聖者ラクリアメレクを通して魔力を与えられて以降、人は魔族と戦い続けているのだ。

 ロンドシウス王国では、しんの秘奥を受けた者は皆、騎士団への入団資格を得る。

 特に貴族の多くは、秘奥を受けてすぐに入団する。

 魔族と戦う人間たちが組織を為し、やがて興ったのがこのロンドシウス王国だ。

 したがって王国の貴族にとって、魔族と戦うことは義務なのだ。

 俺とエミリーも騎士団に入団することが決まっている。

 もっとも貴族の子女が死地に赴くことは殆ど無い。

 騎士団に数年在籍し、騎士の叙任を受けて少しの従軍経験を得たら領地へ戻るのだ。

 要するに騎士団へはキャリアを作るために行くのである。

 でも俺の思いは違っていた。

 物心ついたころから騎士物語が大好きで、ずっと騎士になるのが夢だった。

 誰より剣を振ってきたのはそのためだ。

 いずれ領地を治めることになるが、幸い父はまだまだ壮健だ。

 騎士になりたい。

 そしてできるだけ長く、騎士でいたい。

 エミリーをないがしろにするつもりは無い。家を継ぐ前に結婚するつもりだ。実際、騎士団在籍中に結婚する貴族は居るらしい。

 そして騎士として誇れる自分になったら領地に戻る。

 それが俺の願いだった。




「ロルフ、今日は頑張ろうね!」


 エミリーが両手に握りこぶしを作り、力強く言う。

 頑張ると言っても、しんの秘奥を施すのは神官だ。


「俺たちは神官様の前にひざまずいて目を閉じるだけだよ。頑張りようが無いんじゃないかな」

「でも意気込みがヨナ様に伝わって欲しいじゃない!」

「そうですよ兄さま。頑張ってヨナ様から魔力をもらってきてください。私も兄さまの勇姿を見に行きますからね」


 フェリシアは教会に付いてくる気だ。

 勇姿と言われても困ってしまうのだが。


「いやまあ、分かったよ。頑張ってみるよ」

「兄さまのお姿を目に焼きつけたいのです。しばらくはお会いできないのですから……」


 しんの秘奥を受けたら、俺とエミリーはすぐに第五騎士団に入団する。

 第五騎士団の活動拠点は、王都に隣接するノルデン侯爵領だ。

 俺たちは秘奥を受けた翌日に侯爵領へ向けて出発する。

 このバックマン男爵領からそう遠くはないが、かといって簡単に帰ってくることはできないだろう。


「でも来年はお前も入団するんだろう? 待ってるよ」

「そうだよフェリシア! 一年なんてあっという間だよ!」

「はい。二人とも、すぐに追いかけますからね!」


 俺たちは笑いあう。

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