【閑話】 ディラン・ランチェスター ①

 ディラン・ランチェスターが生まれたのは二十二年前のある雪の日のことだった。

 領地から遠く離れた母親の実家で誕生したことを思えば仕方がないのかもしれないが、ランチェスター公爵家からは誰の見舞いもなかったらしい。

 名門公爵家の跡継ぎが生まれたというのに、とんでもない無関心ぶりである。


(家族に恵まれなかったのは、エイヴリルも俺も同じということか)


 ディランは、実家からの手紙に少しも目を通すことなく内容を把握した契約上の妻・エイヴリルのことを思い浮かべる。全く顔色を変えていないところが自分によく似ている気がした。


「ディラン様。どうかされましたか?」


 クリスからの声かけに、ハッと我に返る。

 夕方の書斎にはオレンジ色の夕日が差し込んでいて、今日の執務はもうほとんどが終わっていた。


「何でもない。ただ、昔のことを思い出していただけだ」

「そうですか。……あ、そろそろお母上にお見舞いの花でも手配いたしましょうか。ディラン様からのお花が届くと大変お喜びになると伺っておりますが」

「いいな、頼む」


 ディランの答えに、クリスが書斎の隅に置いてある花のカタログを取りに向かう。これはいつもの光景だった。

 カタログを持ってきたクリスは意味深に微笑む。


「もしかしたら、これはエイヴリル様にぴったりのお仕事かもしれませんね。ディラン様のお母上にぴったりのお花をお選びになりそうです」

「……ああ……確かにそうだな」


 契約上の妻を思い浮かべたせいで、思わず力の抜けた言い方になった。クリスがプッと吹き出すのが聞こえて、同時にのほほんとしたエイヴリルの顔が脳裏に浮かぶ。


(母上とエイヴリルは全く違うが……エイヴリルを会わせたら、母上が元気になりそうな気がするのはなぜだ)


 ディランの母は、名門侯爵家から嫁いできた箱入りのお嬢様だったらしい。

 家柄だけでなく見た目も可憐で華やか。ちょうよ花よと育てられ、これ以上なく完璧な縁談を組まれて輿こしれした先で待っていたのが遊び人の夫だった。

 それが、運の尽きだった。

 ディランの父は、公爵家の当主としても夫としても父親としても、どこをとっても最低だった。

 領地経営をないがしろにし、ディランが生まれた後はほとんど顔を合わせることもなく離れに入り浸ったらしい。その離れには何人もの愛人がいて、子どももできた。

 ただ、後腐れなく遊べるよう、愛人に十分な金を渡し生まれた子どもたちは跡継ぎ争いには加わらないことになっていた。

 そのおかげで公爵家の体面は一応保たれているものの、社交界ではひどい噂になっている。

 繊細な少女のようだったディランの母は心を病み、変わり果ててしまった。

 ディランが十歳で両親は離縁し、母は実家に戻った。それ以来、自室に閉じこもって夢の中にいる。今でも、ディランのことをまだ幼い少年だと思っているようだ。

 跡継ぎであるディランは公爵家に残されたが、父親を憎んでいる。

 ああはなりたくないと思っているが、悔しいことに親子だ。万一があるかもしれない。

 そういう事情から、ディランは近しい親戚筋から養子をとり、自分の後継として教育するつもりでいた。それが誰も不幸にしない、最善の方法だと信じている。


(悪女をめとって捨てるという契約結婚を思いついたときには、あれほどに大嫌いな人間と血がつながっていることを認識して吐き気がしたな。皮肉なものだ)


 自己嫌悪に陥りながら契約の相手を待っていた日のことを、苦々しく思い返す。

 しかしそこへやってきたのが、悪女になりたいエイヴリルだった。

 彼女は屈辱的な契約に怒るかと思えば、無邪気に目を輝かせ契約書にサインをしてくれた。

 初日から様子のおかしさは感じていたが、今ではエイヴリルと関わったほぼすべての人間が毒気を抜かれきつねに化かされた気持ちでいる。

 けれど、ディランを含めた皆が、彼女がやってくる前よりも幸せなのは確かだった。

 回想を終えたディランは花のカタログを閉じると、クリスを呼びつけた。


「クリス。明日、少し出かけてくる」

「承知いたしました。午後から予定が入っていますので昼前にお戻りいただけると」

「わかった。というか、お前も一緒に来てほしい」

「? どういうことでしょうか」

「いい。付いてくればわかる」



 翌日。ディランがわざわざクリスを連れやってきたのは、エイヴリルがお茶会用のドレスを購入したドレスショップだった。


「少し前にエイヴリルがここでとあるネックレスに興味を示していたと言っただろう? それを教えてほしい」

「ああ、そういうことでしたか。なるほど」

「……今思えば、物欲のなさそうなエイヴリルが興味を示すなんて珍しい。何かある気がする、ただそれだけだから余計な詮索はするな」

「ディラン様はやはりお優しいですねえ」

「……」


 ニコニコと人好きのする笑顔で絡んでくる側近を、ディランは無視した。自分の顔が赤くなっている自覚があるのがまた面倒だった。

 ドアマンに先導されて二人は店内に足を踏み入れる。

 しかし、待っていたのは残念な知らせだった。


「……ネックレスがない、と?」

「はい。数日前に売れてしまいまして。申し訳ございません」

「買い戻すことはできないか? うち──ランチェスター公爵家の名前を出していい」

「それは、なかなか……。お値段もかなり張るものでして」


 恐縮して汗をかきつつも断りを入れてくる店員の様子からは、購入したのがそれなりに地位のある人物だと想像できた。


(購入した人物は聞き出せるだろうが、店経由で取り戻すことは不可能か。それならば別のルートを通じて働きかけるほかないだろうな)


 推測しつつ、違う案を考えることにする。


「そのネックレスの前の持ち主についての情報はあるか?」

「はい、アンティークジュエリーでしたので、その辺はしっかりと」


 店員は取引の情報が記されているらしいファイルを見せてくれた。

 そこには、見覚えのある名前。


「──フランク・アリンガム、か」

「はい。十数年前にアリンガム伯爵家からオークションで買い取ったものを倉庫で保管したままだったのが最近見つかりまして、店頭に並べたばかりでございました」

「なるほど。そういうことか」


(フランク・アリンガムはエイヴリルの父親だ。先日送られてきた手紙に滲む高圧的な態度を踏まえると、恐らくエイヴリルの私物を勝手に売り払ったのだろう。そして、売り払われたネックレスのデザイン書を見るとかなり古いものだ)


 つまり、この店でエイヴリルが欲しそうにしていたネックレスは誰かの形見ではないか、というところにディランの考えが落ち着いたところで、店員は汗を拭き拭き頭を下げた。


「少し前にも、とあるご婦人から問い合わせがあったのですが……。こんなにアンティークのパパラチアサファイアが人気とは恐れ入りました」


 最後にネックレスを購入した人物の名前を聞き、ショップを出たディランはクリスに言い付ける。


「クリス。ネックレスの行方を調べてもらえるか」

「かしこまりました」

「……クリスと一緒にこの店へ来たとき、どうしてエイヴリルはそのネックレスを買わなかったんだ。どう考えても大切なものだろう。悪女なのだから、ジュエリーぐらいいくつ買ってもおかしくないはずだ」


 いらちを隠せないディランに、困ったようにクリスは眉尻を下げた。


「無垢なお姫様ですから。そういう生き方をなさってきたのでしょうね。あなたのように」




 その頃、アリンガム伯爵家には変化が訪れていた。


「ねえ。キーラ。私がこの前オーダーしたドレスが届かないんだけど、一体どうなっているの?」


 不機嫌そうに告げてくるコリンナに、キャロルに代わって彼女付きの侍女になったキーラは眉根を寄せる。


「コリンナお嬢様。この前もお伝えしましたが、それは旦那様にご確認なさってください。支払いが滞っていては、新しく購入したドレスが届かないのは当然のことです」

「何よ! あんたって本当に生意気ね。エイヴリルなんかと仲良くしているメイドなんて、側に置くんじゃなかったわ! 覚えていなさい。、あんたなんてすぐに追い出してやるんだから」

刊行シリーズ

無能才女は悪女になりたい5 ~義妹の身代わりで嫁いだ令嬢、公爵様の溺愛に気づかない~の書影
無能才女は悪女になりたい4 ~義妹の身代わりで嫁いだ令嬢、公爵様の溺愛に気づかない~の書影
無能才女は悪女になりたい3 ~義妹の身代わりで嫁いだ令嬢、公爵様の溺愛に気づかない~の書影
無能才女は悪女になりたい2 ~義妹の身代わりで嫁いだ令嬢、公爵様の溺愛に気づかない~の書影
無能才女は悪女になりたい ~義妹の身代わりで嫁いだ令嬢、公爵様の溺愛に気づかない~の書影