【第四章】無能な悪女の烙印 ②

「……そういえば、アカデミーからアリンガム伯爵家で雇うのに良さそうな補佐のリストが送られてきている。どの人間も優秀で、出自も確かだ。たとえ金銭に関わることを任せても心配ない人間をピックアップしてもらった」

「……ありがとうございます……」


(ここまでしてくださるなんて)


 正直なところ、エイヴリルはディランがここまでしてくれるとは思っていなかった。

 彼は若くして公爵家の当主になったばかりである。

 しかも、エイヴリルとは契約上の関係にすぎないのだ。ちょっと優しすぎるのではないか。


(ご自分のこともお忙しいでしょうに、私のことまで)


 ぽかんとして悪女のふりを忘れてしまったエイヴリルに、ディランは聞いてくる。


「一度聞いてみたいと思っていたのだが、アリンガム伯爵はどのような人だ」

「……そうですね。お父様はよく言えば楽観的で、どんなときでも自分が楽で簡単な方を選んでしまうお方です。ですから、お父様にお仕事をお渡しするときは、ちょっとコツが必要で」

「……。なるほど、腑に落ちた」


 ディランの眼差しが射るようなものになり、また自身の視線も鋭くなっていることにエイヴリルは気づかない。


「たとえば、今年の農作物の収穫量は決して望ましいものではないでしょう。昨年の干ばつの影響で領民は疲弊しています。けれど、お父様は気づいていない。進言しましたが、聞き入れられることはありませんでした。いつも通り税を取り立てる気でいます」

「その通りだな。アリンガム伯爵領と離れてはいるが、我がランチェスター公爵領も似たようなものだ。今年と来年が厳しいものになるのは避けられない」

「ええ。その瞬間だけを切り取って行われるのは悪政ですわ」

「領民が豊かでなければ領主は生きられない、当然のことだ」

「……使用人の皆様に関してもそうですわ。私、ディラン様がこちらにお勤めの皆様のお名前をフルネームで暗記していることにとても驚きました。屋敷を任せる相手を知り、尊重するのはお互いにとても大切なことです。……代々勤めてくださっている方々の優しさに甘えてはいけません」

「…………」


 ディランは何も言わずにじっと話を聞いてくれている。

 だから、エイヴリルもつい心情を吐露してしまった。


「今回の縁談に飛びついたことからもわかるように、アリンガム伯爵家は健全な状態ではありません。私は、残してきた使用人の皆が心配なのです」

「わかった。そういうことなら考慮しよう。この屋敷で君の部屋は離れまるごとだ。だから、そこで働く使用人は好きなだけ実家から連れてくるといい」

「……え?」


 自分でも間抜けな声が漏れたと思う。間違いなく悪女ではない。けれど、呆気にとられているエイヴリルにディランは事もなげに告げてくる。


「必要なら、別の屋敷で働くための紹介状も書こう」

「え、あの、ディラン様……?」

「給金もアリンガム伯爵家並み以上を保証するし、もし人が余るようなら新しく仕事を増やせばいい。ちょうど新しい事業を始めようと思っていたところだ。まぁ、適任がいればの話だが」

「ディ、ディラン様?」


 一体何がどうなってこんな話になったのか。


(ディラン様は……お優しいを通り越して神様なのでは?)


「それよりも」


 表情だけなく頭の中までほうけてしまったエイヴリルに、緊張感の混ざった声が投げかけられる。

 見ると、ディランの手の中でエイヴリルの父親からの手紙がくしゃくしゃになって潰れていた。

 いつもは美しい碧い海を思わせるディランの瞳には怒りが滲んでいる。


「──エイヴリル、君を無能の悪女と言ったのは誰だ? 許さない」

「……ええと、あの……?」


 エイヴリルはぱちぱちと目を瞬く。

 一応、完璧に悪女を演じてきたつもりのエイヴリルには、せいてんへきれきだった。


(ええと、まずディラン様は私が悪女だとは思っていらっしゃらない……かもしれない)


 これは、悪女として無事に三年間を過ごしたいエイヴリルにとって由々しき事態である。

 一体どこが悪女ではなかったというのか。

 今すぐに具体例を挙げて聞きたいところだったが、目の前のディランはそれに付き合ってくれる雰囲気でもなかった。

 エイヴリルの心情は置いてきぼりにして、極めて真面目に堅苦しく告げてくる。


「最初から、君の人柄や知性が噂で聞いていたものとかけ離れていることに違和感は持っていた。どう考えても、明らかにおかしかった」

「私の……どの辺がおかしかったのでしょうか……」


(そこを直せば……何とかなるかしら)


 たぶん何とかはならないのだが、エイヴリルはどうしても無事に三年の契約満了を迎えたうえで離縁されたいのだ。

 不幸なことに、エイヴリルとディランはまだ結婚式すら挙げていないし婚姻誓約書へのサインもこれからだ。

 悪女でないと知られてしまったら「今ならまだ間に合う」と追い出される可能性は十分にある。


(でもさっき、ディラン様はこの宮殿で使用人を好きに雇っていいと仰っていたわ。ということは、私が悪女ではないとバレても平気なのかもしれない)


 しかし、残念である。エイヴリルも自分なりに努力はしたつもりだった。やっぱりどんなに物覚えが良くても至らないことはある。

 そして、ディランやアレクサンドラが言ってくれた通り、エイヴリルが無能というのはアリンガム伯爵家の価値観に基づいた判断なのだろう。それが理解できたことだけはありがたいものの、今問題なのはそこではない。

 ディランからの返答はないが、悔しさでため息が漏れた。


「完璧な悪女になりたかったのに。うまくいかないものですね」

「…………」


 思ったことをそのまま口にしてしまうことがあるのはエイヴリルの悪いくせである。

 ディランがハッと息をんだ気配がするけれど、へこんでいるエイヴリルは顔が上げられない。

 しゅんとして、数秒後。


「すまない。君は悪女だ」

「えっ。悪女で大丈夫でしょうか、私」


 この数秒の間に、ディランに一体何があったというのか。エイヴリルは目の前の青年の美しい顔を見つめる。

 瞬きの回数はちょっと多い気がするが、そのほかは変わりない。いつも通り整っていて、冗談を言っているようには見えなかった。


「あっ……ああ。ここへ来てすぐ、街に買い物に行かせたら店で一番高いジュエリーを選んだだろう。さすがだな」

「あっ、そうですね。事故に近いところはあるのですが、一応しっかり見極めましたわ」


(実際には、本で見たことがないからお安いと思ったものの真逆だったのだけれど!)


 褒められて頰を染めていると、ディランはまだ続ける。


「朝食も、こんなに手のかかるメニューを作らせて、非常に優秀だ」

「……はい! 固いパンを作るのって、なかなか時間がかかると思いまして」

「カビが生えないように湿度の調節も難しそうだな」

「料理人の方が頑張ってくださっていますわ」


 王都の気候ならキッチンに数日放っておけばいいだけの話なのだが、なぜかディランは褒めてくれた。しかも、このパンはエイヴリルの好物である。


「わざわざ実家から連れてきた侍女のことも遠ざけている。最低で最高だな」

「そうなのです。邪魔なので、母屋の方に行かせて仕事は与えておりません……!」


(そして、こんなところで役に立ってくれるキャロル……!)


 エイヴリルはキャロルとあまり仲良くしていない。けれど今は確実に好きだった。


「君が、悪女だということはよくわかった」

「おわかりいただけて何よりです」


 ディランに絶賛されてほっとしていると、彼はとても落ち着いた声色に戻った。


「同時に、とても優秀な人間だということもわかった」

「……って、あっ、はい?」


 ちょっと待ってほしい。

 会話の温度差についていけないでいるうちに、ディランはまっすぐにエイヴリルを見つめてくる。


「……だから、ここから出ていかないでほしい」

「私が、出ていく……?」

「君を実家に送り返すようなことはしない。何があっても守ると約束する。だから、このままここにいてほしい」


 それは、エイヴリルにとってもこれ以上ない幸せな申し出だった。まだしばらくここで快適な生活を送りつつ、長すぎる余生への支度を整えることができるのだから。

 目の前にいるディランは、エイヴリルの仮の夫となる大人の男性だ。姿も声色も堂々としているのに、なぜか視線だけはすがるようで。


(……もちろん、三年が経つまでは出ていくことなんてしないわ。契約だもの、当然です)


 納得したエイヴリルは悪女の笑みを浮かべた。


「はい。私は良き妻として、また影の薄い公爵夫人かつ世間から印象最悪の悪女として、精一杯契約を履行いたします」

「…………」


 契約上の、仮の夫が遠い目をした気がするのはエイヴリルの気のせいだろうか。


「まぁ、いい。私たちは初対面が最悪だった。これからばんかいしたい」

「……そうでしたか? 私にとってはとても素敵で忘れられません」


 素晴らしい内容の契約結婚を申し入れられて、最高だった記憶しかない。

 首を傾げたエイヴリルに、ディランはふっと優しく微笑んでみせた。


「……そういうところだ、エイヴリル」

刊行シリーズ

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