【第五章】悪女とサロンコンサート ①
ランチェスター公爵家にエイヴリルがやってきてから二ヶ月ほどが経った。
エイヴリルが暮らす離れ──〝宮殿〟にはいつも通りちょっと変わった空気が流れている。
身支度を手伝ってくれていたグレイスが、ブラシを手に聞いてくる。
「エイヴリル様。今日はどのような髪型にいたしましょうか」
「そうね。全体的にぐるんぐるんに巻いて、髪飾りを着けていただけるかしら」
「……旦那様に伺っている今日のお出かけ先には向きませんね。ハーフアップにして、リボンを結びましょう」
「…………」
コリンナがよく好んでいた髪型をオーダーしてみたが、だめだった。
最近、エイヴリルは身支度を自分ですることがなくなった。
それどころか、朝になるとグレイスが音を立てずにやってきてカーテンをそっと開けて優しく起こしてくれる。
それをぼうっとしながら見つめて眠い目を擦っていると、いつの間にかサイドテーブルに
初日は何が起こったのかわからず、白湯とグレイスを交互に見比べた。五往復ほどしたところで、彼女は頰を赤くして「身支度をお手伝いいたします」と言ってくれた。
もちろん高飛車に断ったが、「随分お優しい悪女ですね」と微笑まれて断れなくなった。
まだわずかな間しか一緒に過ごしていないはずなのに、エイヴリルが弱い言葉を熟知しているようで、
ちなみに、本来そのポジションにいるはずのキャロルが毎日何をして過ごしているのかは不明だ。
けれど、母屋では悪女にいじめられることなく意外と真面目に働いているらしいという話は聞こえてきていた。お互いにメリットしかない関係である。
「ねえ。グレイスは今日の行き先を知っているのかしら?」
「はい、もちろんです。旦那様に、エイヴリル様をしっかり着飾るようにと承っております」
「……夜会ではないのよね」
「ええ」
今日は、ディランの誘いで夕方から出かけることになっている。
先日、そのために王都でも有数のドレス工房の職人がランチェスター公爵家を訪れ、エイヴリルにぴったりのドレスを作ってくれた。
夜にお出かけするためのドレスと聞いて、「悪女らしく露出が多いものを選ばなければいけない」とエイヴリルは意気込んだ。実際に、提示されたデザインは肩まわりが寒々しいものばかりで、スカート部分には深いスリットが入ったものまであった。
気が遠くなりかけたところで、旦那様も好きそうなデザイン、としてクリスから死ぬほどお薦めされたのが普通のノースリーブのロングドレスだった。
エイヴリルは「それならば仕方がないわね」とふんわり毒づきつつ内心ほっとしたのだが、薦めてくれた張本人のクリスが笑いを堪えていたことだけは意味不明である。
(グレイスが支度を手伝ってくれると、公爵夫人っぽい見た目になって助かるわ!)
後は素行の悪さを足すだけ、とばかりに支度を終え、馬車に乗り込んだエイヴリルにディランから知らされたのは意外な行き先だった。
「今日はサロンコンサートへ行く」
「って、貴族の方のお屋敷で音楽家の方を招いて行われる、あの……?」
「ああ。夜会ではないが、華やかな場だ」
「まあ」
ということで、今日の訪問先は王都内でも少し郊外にあるお城だった。
案の定、会場に到着したエイヴリルは心の声を抑えきれないことになる。
「素敵です……! ここは、六百三十年前に建てられた古城ですね。当時の城主は王族の血を引き、かつ芸術の分野に造詣が深い方だったと聞いています。ご覧になってください! この外壁の石の積み上げ方! 防御の要でありながらも当時としては斬新な美しさを追求しています。こんなふうにこの敷地のあらゆるところに当時の文化の名残が、」
「よく知っているな」
しまった。本で見たことがある場所に気持ちが
「ええと、仮面舞踏会で来たことがあるので。そのときに少し」
「……エイヴリル。ずっと聞いてみたかったんだが、君は仮面舞踏会で一体何を?」
「!?」
「話せる範囲でいい」
ちょっとやめてほしい質問なのだが、ディランはなぜか上機嫌だ。
(悪女を
少し前なら取り繕いきれずに
けれど、先日エイヴリルは悪女としてのお墨付きをもらってしまった。ディランから絶賛されて、これ以上ないほどに褒めちぎられてしまったのだ。
だから今のところ怖いものはない。
「ディラン様。そのようなことをしゃべらせようなんて、無粋ですわ」
「もう少し仲良くなったら教えてくれるか?」
「なかよく?」
(それはどういう意味でしょうか……)
まるで三年以上先を見通しているような親しげな言い方だった。
意図がわからず、おっとりと首を傾げたエイヴリルにディランは自然な動作で肘を差し出してくる。エスコートをしてくれるのだろう。
「失礼いたします」
「まだ時間はある。ゆっくり見るといい」
肘に軽く手を添えるとディランはゆっくりと歩き始める。この古城をじっくり観察したいエイヴリルを気遣うような速度だ。おかげで、立ち止まることなく古城に夢中になれる。
(ランチェスター公爵家のお城は、真っ白い大理石がふんだんに使われた宮殿だけれど……ここはまるでおとぎ話に出てきそうな素敵な古城だわ!)
外見は石造りの古城でも、暮らしやすさのために中身を改築されているものも多い。けれど、ここは内部まで石造りで歴史を感じさせてくれる。
石畳の床を歩いて出る靴の音が、高い天井にカツンカツンと響く。
アーチ状の窓には電気を使った照明ではなく
(このお城は建築・芸術的に評価が高いだけではなく、小さな子どもが初めて読む絵本から有名なファンタジー小説までたくさんの物語の舞台になっているのですよね。想像がふくらみます!)
そんなことを考えては胸をときめかせているエイヴリルだったが、ふと隣を見上げるとディランも同じように頰を緩ませ、ひどく楽しげにしていることに気がついた。
「ディラン様。とても楽しいですね!」
「ああ。……今日、私がエイヴリルに行き先を伝えていなかった理由がわかるか?」
「もちろんわかりますわ。私では、ふさわしいドレスを選べないとお思いになったのでしょう?」
「いや、違う。きっと君はこんなふうに喜ぶと思った。それを一番近くで見たかったからだ。想像通りだった」
「……!?」
契約結婚の相手に対して、この言葉は甘すぎるのではないだろうか。しかも、とびきりの笑顔である。
エイヴリルは顔を赤くして固まってしまったが、ディランは気を悪くする素振りもない。「大丈夫か?」と思わず肘から手を離してしまったエイヴリルの手を取ってくれる。
一見冷酷そうに思える美貌の公爵閣下の、優しげな眼差しと甘い声色には周囲の人々も気がついているようだった。キャッ、と誰かの悲鳴があがる。
(ディラン様はこの場にいるだけでとても目立つ方だもの。それが、こんなふうに評判が最悪の悪女をエスコートしているとなれば……注目を集めますよね……)
自分がコリンナと同じ髪と瞳の色をした悪女ということだけが申し訳ない。
いや、エイヴリルにとってはそれでこそ満足なのだが、ついこそこそと確認したくなる。
「ディラン様は、私をこんなふうに外に連れて歩いてもいいのですか?」
「妻となる人を連れて歩くことの何がそんなにおかしい?」
「それは、」
エイヴリルは、本当の妻ではなく契約上の妻ですよ、と返すこともできた。
けれど、美しい横顔に鼻歌でも聞こえてきそうな表情を隠さないディランを見て、何も言えなくなってしまう。
周囲の注目を集めていることを知ってか知らずか、ディランは人が一番集まっているホールの入り口で立ち止まり、エイヴリルの耳元に唇を寄せた。
「エイヴリル。今日の君は本当に美しく
「……!?!?」
エイヴリルはぽかんと口を開けた。悪女にあるまじき振る舞いである。



