【第五章】悪女とサロンコンサート ②
(ディラン様は……社交の場面でもきちんと婚約者を演じていらっしゃる。すごいわ……!)
古城でのサロンコンサートは定期的に催されているらしく、観客同士はほとんどが見知った関係のようだった。
(視線が痛いですね……)
かつては大広間として使われていたと思われるホール。そこに置かれた豪奢な長椅子に腰を下ろしたエイヴリルは、ゆっくりと周囲の気配を辿る。
(びっくりするほど、皆様に見られています)
皆、前方に置かれたアンティークなピアノに注目することはなく、こちらを見ているのがわかる。その視線のほとんどは、エスコートをされてここを訪れている夫人と令嬢方からのものだった。
鈍いエイヴリルがわかるほどなのだから、相当である。
耐えきれなくなったエイヴリルは、ディランに聞いてみる。
「ディラン様はこのコンサートによくいらっしゃるのでしょうか。周囲の皆様がこちらをものすごく気になさっておいでで」
「そのことか。ブランドナー侯爵家主催のこのサロンコンサートは歴史が長い。子どもの頃はたまに来ていたが、最近は久しぶりだな。そのせいもあるだろう。……居心地が悪いか?」
「いいえ、いいえいいえ」
心配そうに空色の瞳を陰らせたディランに、エイヴリルはぶんぶんと首を振った。
なるほど、半分は美貌の公爵様のせい、残り半分は悪女の自分のせい。
今日のエイヴリルは存在だけで大成功なようである。
(ブランドナー侯爵家といえば、たくさんの音楽家を輩出されている芸術への関わりが深いお
深く感謝したところで、見慣れた側近の姿がないことに気がついた。
「そういえば、今日はクリス様はご一緒ではないのですね。いつもは一緒なのに」
基本的にクリスはディランの仕事のサポートをしているらしい。けれど、エイヴリルが悪女っぽく振る舞おうとするときにはなぜか近くにいて、助けてくれる貴重な存在だ。
「クリスとも大分仲良くなったようだな」
「はい。クリス様は本当にいろいろなことを教えてくださいます。この前も、リンドバーグ伯爵家のアレクサンドラ様からいただいたお手紙に口紅をつけてお返事しようとしたら、香水を振りかけるくらいにしなさいとアドバイスをくださって」
この前、クリスにアドバイスをもらったエピソードを披露すると、ディランは「聞いていないな」と顔を引き攣らせた。
「何よりもまず、エイヴリルの周りにはそんなふうに振る舞っていた人間がいるのか」
「ええ。……ではなく、私がそうです」
コリンナの口紅がついた手紙を、郵便局に預けたことはある。だから、悪女とはそうやって手紙を送るものなのだと思っていた。
「それを真似とは……。無意識とは本当に恐ろしいな……」
「なんか、申し訳ありません」
話が嚙み合っていない気がする。よくわからないのでとりあえず謝ったところで、ディランはまたエイヴリルの手を取った。
「今日はデートだ。だから、クリスはいない」
「デート」
(デートって、デートですよね……あの)
自分には無縁だと思っていたイベントに、エイヴリルは目を瞬く。すると、ディランは低く甘い声でゆっくりと囁いた。
「そして、誰かに手紙を送るときに口紅をつけるのはやめてほしい」
「しょ、承知いたしましたわ」
(今の反応で、悪女の中でも特にはしたない振る舞いということは理解しました……!)
しっかりと頷くエイヴリルだったが、ディランの意図するところは少し違うようだった。
「その手紙は、受け取った方が動揺する。相手が君だと知っていれば、なおさら
「?」
気分がいいものではない、の意味がわからないでいると、ディランはエイヴリルの答えを待たずに続けた。
「エイヴリル。今日、帰ったら私にも手紙を書いてくれるか」
「ええ、もちろんですわ」
エイヴリルは手紙を書くのが好きだ。もし今夜、ディランに手紙を書くのなら、この古城のコンサートの思い出をたくさん書けるだろう。
日頃の感謝の気持ちと、契約をしっかり履行する決意も添えたいところである。
今夜の予定ににこりと微笑んでみせると、エイヴリルの手を取っていたディランの指先に少しだけ力が入る気がした。そうして、やっと耳に届くほどの小さな呟きが空気を揺らす。
「……君は、本当にかわいいな」
「……!? かわいい!?」
驚いて、うっかり大きな声が出てしまった。
エイヴリルとディランのやりとりは、周囲でこちらの様子を窺っていた令嬢方のところまで届いたらしい。
(ディラン様こそ、お外で婚約者を大切にする演技が本当にお上手すぎませんか!!!)
エイヴリルは、ただ心からの賛辞を送るしかなかった。
その後すぐに始まったサロンコンサートは本当に素晴らしいものだった。
それはさておき、
(……ど、どうしましょう。すっかり、覚えてしまいました……)
エイヴリルが何に困っているのかというと、かわいらしい音色に似つかわしくない難曲を響かせるバイオリンに対してである。
ホールから少し離れた場所の練習室で、六〜七歳ぐらいの男の子が一人でバイオリンを練習している。しかし、どうもそれが楽譜と違うのだ。
(そういえば、私も子どもの頃にコリンナの身代わりでサロンコンサートに出たことがあったわ。こんなに素敵な古城が会場ではなかったけれど……)
きっと、あの子もこの後サロンコンサートに出演するのではないだろうか。いや、これだけうまいのだ。絶対に出演するためここで練習をしているのだろう。
記憶力がいいエイヴリルはいまだに楽譜を覚えているし、違うところまでわかる。
(出すぎた
とにかく、どんな理由があれこんなところで盗み聞きしている自分は間違いなく不審者である。
練習室の入り口から中を覗いて、どうしましょうか、ともじもじしていると。
「誰」
とうとう投げかけられた男の子の声に、エイヴリルはびくりと肩を震わせた。
「こ、こんばんは」
「…………」
挨拶をしてみると、男の子は
(間違いなく、将来は素晴らしい美男子になられますね……)
違った。男の子の美しさに
「通りかかったら素敵な音色が聞こえてきまして、つい……。もしかして、サロンコンサートに出演されるのでしょうか」
「はい。でも、出られなくなりました」
「出られなく……? こんなにお上手で、今も練習をしているのに……?」
首を傾げたエイヴリルに、男の子はツンと澄まして言う。
「楽譜を忘れました。僕は緊張するとすぐ暗譜が飛んでしまうので。だから出られません」
「…………」
あまりにもわかりやすくそして非情な理由である。
子どもらしくない言葉遣いとそこに滲む強がりのギャップに、エイヴリルは笑みが溢れそうになるのを抑えた。違うそうじゃなかった。この子は困っている。
さっきから同じ場所ばかり間違えて弾いているのも楽譜がないためなのだろう。緊張しているせいで、間違って弾いていることにも気がついていないのだと思えた。
(ということは、楽譜があれば出られるのね……)
エイヴリルが少し考え込んでいると、男の子は独り言のように告げてきた。
「たくさん練習して、楽譜はお守りがわりのはずなんです。でも……緊張すると頭が真っ白になる。今日だって『家のコネでなんとか出演をねじ込んでもらった』って言っていたのに……楽譜を忘れてそれすらも叶わないなんて、僕は馬鹿です。今頃、お母様は落ち込んでいることでしょう」
「……」
随分と大人っぽい話し方をする子どもだが、お母様、という響きには年相応の幼さが見えた。
(なるほど。それならば)



