【第五章】悪女とサロンコンサート ③

 エイヴリルは、少しかがんで男の子と目線を合わせた。


「わかりました。まっさらな五線譜はありますか」

「ありますけど……」


 不思議なものを見るような雰囲気の男の子に向かって、エイヴリルはふふっと微笑んだ。


「私も、子どもの頃にこの曲を弾いたことがあります。ですから、この楽譜を覚えていて、書いて差し上げられます」

「雰囲気じゃだめなんです。僕、本当に頭が真っ白になるから」

「大丈夫。ちゃんと書きます」


 がっかりして首を振る男の子に、エイヴリルは重ねて告げる。


「ですが、『悪女のエイヴリル』が書いたことは絶対に覚えていてくださいね……!」

「あく……?」


 男の子は目を瞬きぽかんとしている。

 子どもには少し刺激が強すぎる言葉だったかもしれない。

 いけない、と間の抜けた笑みを浮かべたエイヴリルはペンを取り、さらさらと楽譜を書き始める。

 そうして、十数分後。


「書けました。確認していただけますか?」

「……すごい。記号まで欠けることなくきちんと書いてある……! それに、あなたはとても字が綺麗ですね」

「ありがとうございます。お父様が溜めに溜めたお手紙の山に返事を書くのが仕事でしたから」

「……何だか、大人って大変そうですね」

「まぁ、ふふふ」


 いけない。子ども相手では、つい気が緩んで自分が悪女だと忘れがちになってしまう。慌てて取り繕ったところで、男の子もエイヴリルの懸念と同じ疑問を持ったようだった。


「あなたは少し変ですね」

「へ、変」


 エイヴリルの脳裏を『一度で何でも覚えられるなんて、どう考えてもおかしい』と詰るコリンナの顔がよぎる。


(もしかして、私はこの子を……おびえさせてしまったでしょうか)


「差し支えなければ、どの辺がおかしいのか教えていただけますでしょうか」

「あまり失礼なことは言いたくないので濁しますが、例えるなら……煮すぎて高級な食材の味が台無しになったスープみたいです」

「なんか、おいしそうですね」

「そういうところです」


 少なくともエイヴリルにとっては大好物である。怖がられているわけではなくてよかった、とあんしていると、彼はさっきまで警戒心全開だったのが信じられないほどの笑顔を見せてくれた。


「僕の家は音楽一家なんです。今日のコンサートも、そのコネがあるから出られるのです。母に、あなたにお礼をお渡ししたいと伝えてまいります。少しお待ちいただけますか」


(まぁ)


 随分としっかりした子どもである。けれど、エイヴリルは別にお金のためにしたわけではない。


「お礼なんて、結構です。私は、〝悪女〟のエイヴリル・アリンガムと申します。あなたのお名前を教えていただいてもよろしいでしょうか」

「僕はサミュエル・ブランドナーと言います」

「サミュエル……、」


 その家名は、さっきディランと話した「このサロンコンサートを主催する歴史ある名門」だった。まずいことをしたかもしれない、と息を吞むエイヴリルに男の子は恭しく告げてくる。


「エイヴリル嬢、心の底から感謝します。僕の母は厳しい人ですが、あなたのような方のことはとても好きだと思います」

「そのように丁寧なお礼の言葉は私にはもったいないですわ。『悪女』のエイヴリル・アリンガムですから」

「はい。エイヴリル嬢」


(なんてかわいいの……)


 小さな紳士・サミュエルはとてもかわいくて麗しい。

 このサロンコンサートを取り仕切る重鎮に自分の名が伝わるかもしれないことはいささか不安だったが、エイヴリルは悪女だと三回も言った。

 これで、間違って伝わることなどないだろう。

 ──そのはずだった。


 ホールに戻ったエイヴリルを待っていたのは、ディランが貴婦人方に囲まれている姿だった。


「ディラン・ランチェスター公爵閣下。この度は、ランチェスター公爵家当主への就任、おめでとうございます」

「本当にお久しぶりですわね。こういった場にはなかなかお出ましになりませんもの」

「ディラン・ランチェスター様。うちの娘を紹介しますわ」


(……ええと?)


 騒々しい集団を前に、エイヴリルは自分の席に戻れなくなってしまった。


(ディラン様はどちらへ行かれても人気者ね。隣に陣取っていた悪女の私がいなくなったのだから、お話をしたいと思う方々が集まるのは当然だわ)


 その、当の本人がうんざりした表情をしていることまではエイヴリルには見えない。

 目立たずにこの場をやり過ごそうと空いた長椅子に腰を下ろすと、輪から外れた数人の声が聞こえてきた。


「ディラン様は公爵位を継がれる前も一部では知られていた存在よ。それなのに、どんな縁談もお断りしてきたというじゃない」


(やっぱり。傷物になっても強く生きていける令嬢をお探しだったのでしょう……!)


 エイヴリルは心の中で相槌を打つ。


「そうそう。それがどうして、遊び相手の婚約者から借金返済を迫られるような中途半端な悪女と婚約を?」


(それは、ディラン様がお優しいからですわ)


「エイヴリル・アリンガムにディラン様は騙されているんだわ。下品な夜遊びをしている方はこの場にふさわしくないし、ブランドナー侯爵夫人だってお認めになるはずがないわ。芸術への素養がない方がこのサロンコンサートに出入りするなんて、許せない」


(……私の悪女としての振る舞いには問題がないようです)


 達成感でいっぱいである。エイヴリルは胸を押さえて幸せを嚙み締めた。

 ここまで『悪女のエイヴリル』が嫌われるのは、ディランへの好感度が高いからこそなのだろう。

 ランチェスター公爵家の使用人たちが見せるディランへの尊敬の眼差しに近いものを感じ取って、温かな気持ちになっていく。


(私は……とてもいおうちに嫁いだようです。……契約結婚だけれど)


 そのうちに、客席部分の照明が落とされて第二幕の始まりが告げられた。

 暗くなってもわかるディランのオーラある佇まいと、その近くから退こうとしないおやが見える。

 会話の片隅に聞こえた「娘を紹介します」の続きと思えた。そして、悪女のお手本であるコリンナならあの場に行って「お退きなさい」と言うのだろう。


(でも今は、少しだけ悪女をお休みさせていただきます。だって──)


 アンティークピアノの方に視線を移すと、さっき仲良くなった少年──サミュエル・ブランドナーが現れた。


(来たわ!)


 かわいらしい少年の登場に、客席が俄に沸き立つ。その中、譜面台に置かれたのはさっきエイヴリルが書いたばかりの楽譜である。

 哀愁を帯びたアンティークらしいピアノの音と、色彩豊かで煌めくバイオリンの音色。

 サミュエルの演奏は、とても素晴らしかった。



「──サミュエルの演奏は素晴らしかったですね!」

「あの少年は、そういう名前なのか?」

「……!?」


 独りごちたはずなのに、慣れた返事があってエイヴリルは驚いた。いつの間にかディランが隣に座っていることに気がついてさらに驚き飛び上がる。


「ディ、ディラン様!」

「どうして私の隣に戻らない」

「ええと。今は一人になりたかったといいますか」


 悪女業務をお休みしたかったといいますか。──とまでは言わずに収めたところで、ディランが不機嫌そうに眉間にしわを寄せる。

 ディランが座っていたはずの中央の特等席に視線をやると、そこには「娘を紹介します」の母娘がいた。なんだか申し訳なかった。


「今日はデートだと伝えたはずだが」

「デートもですが、こういう場は楽しくあるべきです。私だけではなく、皆にとって」

「誰かに何か言われたのか。……一人で行かせてすまなかった」


 いつもの威厳ある姿が信じられないほどに、目の前のディランはしゅんとしている。


(ええっと……! そういうわけではないのですが……!)


 第二幕が終わり、周囲では帰りの準備が進んでいた。それぞれが主催者や顔見知りの相手と挨拶を交わし、ホールから退出し始めている。


「ディラン様。私とのデートもですが、今日はほかに目的がおありだったのではないですか」

「……どうしてそう思う」

「最近は出入りしていなかった場に急にお顔を出されるなんて、何か事情があるのではと」

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