【第六章】悪女は気づかない ②

(チェスのルールは知っているし、使用人仲間の皆とも遊んだことがあるわ。問題は悪女としてどう振る舞うか、ね)


 上品に微笑んで夫となる人への来客の相手をするエイヴリルは、次期公爵夫人としてほぼパーフェクトのはずだった。

 けれど、その相手は社交界への影響力が絶大な王太子殿下である。「悪女・エイヴリルは意外とまともな淑女だった」という評判が広まり、ディランが「傷物扱いになる前に取り止めよう」と契約を履行してくれなくなったら困るのだ。


(夜の遊び場では、賭けチェスが行われると聞いたことがあるわ。だったら……)


「私は、これを賭けますわ」


 エイヴリルは、さっきメイドが大量に盛り付けていった焼き菓子を指差した。

 これは、ランチェスター公爵家のこの宮殿で焼かれたものだ。自分が仮の主人なのだから、問題ないだろう。

 背後でクリスがごほんごほんとんだのが止んでから、ローレンスが穏やかに聞いてくる。


「……エイヴリル嬢はいつもこうしてボードゲームを?」


 黒曜石のような美しい髪に手を当て瞬きを多くしているのは気のせいだろう。


「ええ。賭け事がないと気が進みませんの」

「……なるほど。では、私はこれを賭けようかな」


 この国の王太子は賭け事に寛容なようである。エイヴリルの提案にひるむことがなかったローレンスは、小さな箱を取り出して開ける。

 その中に入っていた意外なものに、エイヴリルは首を傾げた。


「これは……封蠟? 印章、でしょうか」

「そうだ。これはかつてランチェスター公爵家の女主人が使っていた封蠟印だ。もし君が私に勝ったら、これを渡そう」


(どうしてそのようなものをローレンス殿下が)


 女主人の封蠟で閉じられた手紙は、その名の通り家の意思に等しい。もちろん、ディランとの契約ではそれがエイヴリルに預けられることはない。




(きっと、ディラン様はこれをローレンス殿下に預けていらっしゃったということよね。わざわざ今日この場にお持ちだった理由は置いておくとして……。これを賭けの対象にしてもいいのでしょうか……)


 ぱちぱちと目を瞬くエイヴリルの戸惑いをものともせず、ローレンスは告げてくる。


「私とディランは旧知の仲でね。さぁ、始めようか。先攻は譲ろう」


(……もしかして、これは私たちの契約結婚に関わっているのかしら)


 エイヴリルはぼうっとしたままポーンを手に取る。

 そうして、チェスは始まった。


「単刀直入に聞くんだが、私は君たちの縁談の経緯を噂通りにしか知らなくてね。エイヴリル嬢、君の口から説明してもらってもいいだろうか?」


 コツン。


(そ……それは、仮面舞踏会でやらかしたことをお話しすればいいのでしょうか……)


 あいにくだが、エイヴリルは仮面舞踏会に行ったことはない。けれど、コリンナのように品のない遊び方をしているのは一部だということぐらいはわかる。

 それぐらいの知識で、目の前の王太子殿下を欺けるのか。いやそんなはずはなかった。

 コツン。コツン。コツン。


「私は、少し夜遊びがすぎたのです。その噂が悪女好きなディラン様のお耳に入り、縁談のお話をいただきました」

「その話はアレクサンドラにも聞いたな。ディランが悪女好きなんて意外だった」


 よかった。お茶会で、アレクサンドラ様にディランが好きな女性のタイプは『悪女』だと伝えたことが功を奏したようである。


「ああ見えて、ディラン様は露出多めのドレスを着た女性がお好きなようです。夜遊びも一緒にお出かけなさりたいタイプなようで、仲良くさせていただいています」

「仲良く」

「はい、先ほどのお話ではお手紙も持ち歩いてくださっているようですし。悪女の私と悪女が好きなディラン様とは仲のいい夫婦になれるかと」


 ローレンスの端整な顔に、瞬きが目立ち始めた。


「……なるほど。君のような女性は、実は私も嫌いではないかもしれないな」

「!? なんてことを。お気を確かに」


 ここにいるのが本当の悪女・コリンナでなくてよかった。アリンガム伯爵家が跡形もなく消え去らずに済んだことに、エイヴリルは心の底からほっとする。

 コツン。コツン。


「しかし、私の婚約者はそうは思っていない様子でね。一応、この件に関しては当事者のはずなんだが、君のことをとても気に入っている」


 全然よくなかった。

 コツン。コツン…………


(確かに、私──悪女のエイヴリル、に元婚約者との関係を壊されたアレクサンドラ様が仲良くしたいと仰るなんて、ローレンス殿下から見たらどう考えてもおかしいもの)


 コツン。コツン。コツン…………

 いつの間にか、クリスとメイドのグレイスは席を外していた。

 駒がチェス盤の上を進む音だけが室内に響く。

 まずい事態になってしまった。これは、エイヴリルがコリンナと入れ替わっていると知られるのは時間の問題ではないだろうか。


(アレクサンドラ様は私がコリンナではないことを知りながら、秘密にしてくださっているけれど……これ以上はもう)


 さすがに、噓はつけないだろう。


「……詰みました」

「この場合、本当の意味で詰んだのは私の方だな」


(……え?)


 ローレンスが苦笑する声が聞こえて、エイヴリルは飛ばしきっていた意識を取り戻した。

 チェス盤には、あと一手でチェックメイトできるキングが残っている。

 信じられない。


「えっどうしてこんなことに!?」

「アレクサンドラが言っていた通りだな。手加減はいらないタイプのようだ」


 ローレンスは「私の負けだ」と言いながら、封蠟印が入った箱をエイヴリルに渡してくる。


(ちょっと待って……! こんなことある!?)


「お待ちいただけますか。ええと、多分これは何か反則があって」

「反則をした悪女が口にする言葉じゃないな。却下だ」


 何が楽しいのか、ローレンスはくつくつと笑っているがエイヴリルはそれどころではない。


(だって、この印章はディラン様がローレンス殿下に預けていたとても大切なものなんでしょう……? それを受け取れないわ)


 エイヴリルは目を瞬きチェス盤と箱とローレンスを順番に目で追う。ローレンスはそんな様子すら楽しむように、聞いてきた。


「エイヴリル嬢にディランとの縁談の話が行ったとき、ランチェスター公爵は『すきものの老いぼれクソじじい』という噂だったと思うんだが。それを聞いてどう思った」

「ええと、私が聞いたものよりもすごい二つ名ですね、それは」

「はは。実際そうだったからな。あのクソじじいのせいでディランの人生はめちゃくちゃにされたようなものだよ」

「…………」


 ディランから聞いたことのない話に、エイヴリルは目を伏せた。


(これは……何の覚悟もなしに聞いていいお話ではないような気がするわ……)


「だから、婚約をすると聞いて心の底から驚いたのだ。あの、家族になんの希望も持っていないディランが妻を迎えるというのだからね。初めは契約結婚の類かと疑ったが、お茶会で紹介された君を見てそうではないと確信した。この印章は随分前にディランから預かったものだ。君にもらった手紙を手帳に挟んでいるのを見て、返すべきだと思った」

「ではお返しするのなら、ディラン様に」

「いいや。これは君からディランに返すといい。あいつは詳しい事情を話していないようだ」

「あの、でも」


 これは、ただの契約結婚の相手にすぎない自分が踏み込んでいい話ではない。エイヴリルは固辞しようとしたが、ローレンスは聞いてくれなかった。


「さぁ、そこにある大量の焼き菓子を皆で食べようか? アレクサンドラとディランの話も終わった頃だろう」


 がらりと明るい声色になったローレンスはテーブルの端に置いてあった鈴を鳴らしてメイドたちを呼んだ。静かだった室内に人の気配が戻ってくる。

 遠くからディランたちの声が聞こえてくる中、エイヴリルは肩を落とす。


(詳しい事情も何も、私たちは契約結婚なのです……)



 ローレンスとアレクサンドラの訪問は、日が落ちた頃にお開きになった。


「お腹がいっぱいですね……」


 楽しい時間を過ごし、二人の乗った馬車がランチェスター公爵家の門から帰っていくのを見送りながら、エイヴリルはお腹をさすって呟く。

 グレイスが山のように盛った焼き菓子は多すぎた。

刊行シリーズ

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