一章 贈り物
峰島勇次郎を優秀な科学者と解釈するのは間違っている。
もちろん数多の発明や発見を行った天才であることは疑いようのない事実だ。しかしその技術のほとんどは未完成のまま放置されている。おもちゃに飽きた子供のように唐突に興味を失うのだ。
しかし不思議なことに、ある日突然その技術が完成し世に広まることもあった。
誰が、あの天才が放り出した研究を受け継ぎ完成させたのだろう。同等の天才がこの世にいるのだろうか。
「峰島勇次郎の謎」の初版より抜粋。二版以降は検閲により削除済み
1
「やあ、岸田君、久しぶりだね。今日呼んだのは他でもない。君には教えておかねばならないと思ってね。私の名を娘にあげようと思うのだ。今日から私は勇ではなく勇次郎と名乗ろう。なぜならこの子は私を超える天才だからね」
目の前にいる峰島勇、改め峰島勇次郎から発せられた言葉の意味を岸田博士はとっさに理解することができなかった。
以前そんなことを言っていたような気もする。まだ勇次郎が世に知られていないころ、郊外に建つ木造の古い一軒家の、木の机と椅子と旧型のパソコンと、大量の紙に埋もれた研究室の中で。しかしてっきり冗談だと思っていたし、なによりこの変わり者の科学者に子供などとても似つかわしくない。似つかわしくないと言えば、岸田はこの数年で様変わりした峰島勇の研究室にもいまだに馴染めない。木造の一軒家は都心のコンクリートのビルに変わり、コンピュータもモニターもすべてが最新のもので埋め尽くされている。
経緯はよく解らないが、真目家がスポンサーに名乗りをあげたと聞いた、その頃から峰島勇は変わってしまった。距離をとりはじめた岸田の思いを知ってか知らずか、二人は二年ほど疎遠になり、その間に娘が産まれていた。
父の勇の名を与えられた勇次郎の娘、峰島由宇を初めて見たのは彼女が一歳のときだったが、正直なところ腕に抱かれた赤子の印象はあまり強くない。母は由宇を産んですぐに亡くなったと聞いた。産後の肥立ちが悪かったのだという古風な響きは、天才科学者の妻が死んだ理由として妙にすとんと腑に落ちた。残された一人娘を抱く勇次郎は、
「今日からこの子が峰島由宇だ」
と微笑みながら岸田に出来のいい発明品を見せるように紹介した。
由宇は小さな手でノートに何か書いていた。三歳の子供ならそこに並ぶのはお姫様やペットや花や家族を描いた拙い絵だろう。しかし由宇が書いているのは拙い絵ではなく細かく規則的に並んだ文字、それも複雑な数式や理論だった。
まぎれもなく峰島勇次郎の娘。しかし父親とは一つ決定的に異なる部分があった。勇次郎の書式は彼独自の理論で編み出したものだ。対し由宇の書いているものは一般的なルールにのっとった数式だった。内容も理路整然とし効率的でよけいな回り道をしていない。逆に言えば現在の数学世界に縛られていると言っていい。
この子の思考は父親と違い少し堅くなるだろう。現在の人類の科学を学べば、少なからずその考え方に縛られることになる。何も知らず一から構築し自由奔放な理論展開をする父親とは違う。
それよりも気になるのは勇次郎の娘に対する放置ぶりだ。親としての務めを果たしているとはお世辞にも言えなかった。
いつしか幼い少女のことを岸田博士は気にかけるようになった。折を見ては話しかけ、たわいもない話をし、父親の代わりに頭をなでてあげた。
三年後。六歳になっても小学校には行かず、父親と一緒にいることを誰も咎めない程度には由宇の天才性は明らかになっていた。父の言葉を理解する幼子を周囲の大人は気味悪そうに見ていたが、岸田博士は変わらず由宇に接していた。
「これ……。誕生日プレゼント」
はにかみながらおずおずと手紙を差し出してきた。封筒には岸田群平さんへと書かれている。
「私にこれを?」
感動で手が震えた。
由宇が自分の誕生日を知っていたことも驚きだし、ましてプレゼントをくれるなど思いもよらなかった。
「あ、あ、ありがとう」
受け取った手紙を開けようとすると由宇が慌てて止めた。
「いま開けないで。……恥ずかしいから」
可愛すぎる。とても勇次郎の娘とは思えない。
家に帰り、はやる気持ちを抑えながら手紙を開けた。
――お誕生日おめでとう、とでも書いてあるのかな。
自分の似顔絵など描かれていたら、嬉しさのあまり気絶するかもしれない。
数枚の便箋が丁寧に折りたたまれていた。にこにこと便箋を広げると、そこには小さい文字でびっしりと数式が並んでいた。
徹頭徹尾数式しかない。
目をこすり眼鏡のレンズをふき便箋を光にかざし何度も見返したが、数式以外何も書かれていない。
「これはいったいなんなんだ?」
説明がまったくないところは父親に似ている。
浮かれた気持ちはどこかにいってしまった。しかし次に会ったとき、この話をしないわけにもいかない。何を伝えようとしたのか少しでも理解しようと、解読を試みた。
気づいたときにはいつのまにか夜が明けて、窓から朝日が差し込んでいた。
「なんて、なんてものをプレゼントしてくれたんだ……」
全身から冷や汗が吹き出してくる。
大統一理論を完成させていた。電磁相互作用と強い力と弱い力の統一理論は長らく謎であった。峰島勇次郎も本人曰く完成させたとのことだったが、一部不可解で理解しがたい部分もあった。
しかし由宇のそれは父親のアプローチと異なり、単純明快で――それでも便箋七枚分の紙にびっしり数式を埋める程度のものではあるが、ともかく父親のものより完成度が高かった。
「あの子は、天才だ……」
まぎれもなく峰島勇次郎の娘であると痛感した。同時に、父親と違う天才性をいかに伸ばしてやるべきか岸田博士は思案しはじめ、すぐにもっと喫緊の課題に気づく。
「プレゼントのお返しをしなければ!」
徹夜明けの疲れも忘れ、岸田博士はいそいそとプレゼントを選ぶために外出した。デパートに行き丸一日悩んだあげく、おもちゃのフロアで首に赤いリボンがついたクマのぬいぐるみを選んだ。
しかし岸田博士がプレゼントを渡す直前に、ぬいぐるみを使った爆破テロが起こってしまう。由宇の子供らしさと純粋さと、なにより彼女の孤独につけこんだ悪質なテロだった。半壊した研究所の前で、深く傷つき立ち尽くしている由宇に、岸田博士はぬいぐるみを渡すことはできなかった。
その一年後、新しい研究所として峰島親子が移り住んだ比良見で大爆発が起こった。
近郊の街がまるごと消滅。核かそれに匹敵する破壊力のある兵器が使われたのだと推測された。その事件の唯一の生き残りであり証人だった峰島由宇は極秘裏に保護された。
「なぜこのような施設に閉じ込める必要があるのです!」
岸田博士は強く机を叩く。声を荒らげることなど無縁の人生を送ってきたが、ここしばらくは声を荒らげてばかりだ。相手はつねに一緒で、いま目の前にいる遺産管理の責任者である伊達真治だ。
「必要だから閉じ込める」
伊達は一歩も引かない。常日頃、峰島勇次郎の存在を危険視していた彼は、その先見の明を買われて峰島勇次郎が発明した技術に関する犯罪を取り締まる組織、The Administrative Division of the Estate of Mineshima――ADEMのトップに収まった。
「比良見の爆発はいまだに原因不明。あの娘は父親に勝るとも劣らない能力を持っている。ならば、次の厄災の芽を早めに摘み取るのは必要不可欠だ」
伊達が徹底して情報統制をしていたことは知っていた。峰島勇次郎の名はすでに世界にとどろいている。ならば娘の存在は陰に隠してしまおう。そのような思惑があった。
家族として紹介されている記事はあるが、彼女の才覚に言及した記事のたぐいは皆無といっていい。情報の統制をお家芸とする真目家もかくやという手腕であったが、それだけ勇次郎の存在が大きかったというのもあった。
それでも峰島勇次郎が死亡、あるいは失踪したいま、生き残った娘の存在が明るみに出れば、好奇の視線にさらされ、父親と同じ才覚を期待されただろう。そしてすぐさま期待通り、否、期待以上の天才性を有していることに世界は気づいてしまうだろう。
「ならば名前を変えて、人知れず暮らしていくという方法も……」
「岸田博士、俺が何も知らないと思っているのか? 現在管理されている峰島勇次郎の技術の半分はあの娘が関わっている。たかが七歳やそこらの娘が、だ。これから集まってくるものもそうだろう。ならばその技術を見極める目が必要だ」
「私がやります。こう見えても勇次郎君の研究の理解者だ」
「もちろんあなたにもやってもらう。そのためのNCT研究所の所長だ。しかしかの天才科学者の残した研究はあまりにも多い。人一人でなせる量ではない」
勇次郎は才能ある科学者が一生をかけて行う偉業を数日で成してしまう。さらに研究しているジャンルも多岐にわたっているため、あらゆる分野の才能ある研究者を集めて、開発された技術の検証をしなければならない。
現在の科学は細分化が進みすぎていた。行き詰まった理論の証明にまったく他ジャンルの知識が邂逅し研究が進んだという例はいくつもある。
しかし峰島勇次郎、そして由宇の知識と知性は専門ジャンルに特化していない。あらゆるジャンルを網羅している。一般の科学の発展で偶発的に起こる他ジャンルとの邂逅によるブレイクスルーが、日常的に頭の中で起こっている。
さらに岸田博士の私見では、その能力は勇次郎より由宇のほうが優れている。すべてが混沌としている勇次郎の知識より、すべてを理論体系化している由宇のほうが、効率的なのだ。
以前、峰島勇次郎は言った。由宇は自分よりも優れていると。その可能性は大いにある。しかし一つだけ勇次郎は解っていなかったことがある。
由宇はとてもいい子だった。
倫理観は科学の発展において、はっきり言ってしまえば邪魔でしかない。勇次郎はその倫理観が欠如していた。しかし由宇は違う。優しさを感じる感性があり、小さなものを慈しむ愛情があり、美しいものを愛おしむ感受性があった。
父親のような異常性を持ち得るような子ではなかった。由宇は由宇らしく健やかに育って欲しかった。
「だとしてももっと人道的な扱いをすべきだ! あなたは由宇君のことを何もわかっていない!」
「岸田博士……」
だからいまの扱いはまるで納得ができない。さらに声を荒らげる岸田博士に対し、伊達の声はワントーン低く小さくなった。
「岸田博士、あなただから本音を言おう。俺はあの娘が怖い」
「あんな幼子に何を言うんです?」
「とぼけているのか? それとも本当に気づいていないのか? 相手の心をすべて見透かしたような目、いや、実際見透かしているだろう。この前視察に来た権力ばかり持っている連中を言葉一つで手玉に取っていた。罪がない? 俺はそうは思わない。あの娘は何か大きな隠し事をしている。比良見のことも、行方不明の父親のことも、絶対に何か知っている。あれは罪を犯した者の目だ。疑わしきは罰せずなどと人道的なことを言って、また比良見で起こったようなことがここで起こらないとも限らない。だから峰島由宇は厳重に管理する」
伊達の言葉には揺るぎない信念があった。対し岸田博士にあるのは幼子に対する情だけだ。彼の信念を覆させるものは持っていなかった。
峰島勇次郎の娘がNCT研究所の地下1200メートルに幽閉されて二年が経過した。
由宇はたまに活動する。研究らしきこともしている。しかし以前、峰島勇次郎の研究所で見せたまばゆいばかりの才覚はなりをひそめていた。伊達の言う通り彼女は何か隠している。そして恐れている。無意識に才能をセーブしているように感じられた。
そのくびきを取り除くことは由宇のためになるのかどうか岸田博士には判断できなかった。見守ることしかできない己がもどかしかった。
「何か欲しいものはないかい?」
由宇の誕生日が近くなったある日、岸田博士は尋ねた。
「欲しいもの?」
ベッドに寝転がっていた由宇は起き上がり岸田博士をまっすぐに見上げて言った。
「自由」
絶句する岸田博士に由宇は笑う。
「欲しいと言ったらくれるのか?」
もうそこに誕生日プレゼントの数式をくれたときのような年相応の笑顔はなかった。いつの間にかそういう笑い方しかしなくなっていた。
2
三年後、NCT研究所で一つの事件が起こった。Dランクの遺産、ゲノム・リモデル技術を使われたネズミが研究所内で暴れ回り、甚大な被害が出るところだった。その危機を救ったのは新人局員だった八代一、そして由宇だ。
しかしここで一つ、大きな問題が生まれた。由宇が危険なのは頭脳だけだと思われていた。だが事件のさい由宇と行動を共にしていた八代の報告から、たぐいまれな身体能力を有していることも発覚してしまったのだ。
由宇の監視と行動制限は以前にも増して厳しいものになった。
「なぜ解ってあげないのです! あの子は研究所の皆を守るため、己の危険もかえりみずに戦ったというのに! なのにさらに不自由を強要するなど!」
「岸田博士こそ解らない人だ。あれだけの戦闘能力を隠し持っていたんだぞ。武装した兵士が束になってもかなわない。たった十二歳の子供相手にだ。なぜ危険だと理解しない!」
二人が言い争っているのを、首が痛くなるなと思って見ていたのは由宇だ。透明なガラスの天井の向こうで、二人はいつにも増してひどい言い争いをしている。声が聞こえてくるわけではない。ただ唇を読むのは日常化しており、声が聞こえてくるのとさほど変わらない。
由宇は手近にあったものを手に取ると、天井のガラスめがけて投げつけた。驚いた岸田博士と睨みつける伊達に向かい、
「うるさい。よそでやれ」
と一言だけ言うとベッドのシーツの中に潜り込んだ。
岸田博士と伊達の言い争いはほとんど日常化していた。気づけば二人の言い争う姿が見える。初めのうちは煩わしくて無視したか、あるいは物を投げつけて止めた。やがて毎回よくもあきもせずあれだけ言い争えるものだと感心するようになった。
さらにもう一つ気づいたことがあった。ガラスの向こうの職員はいつも無表情だ。由宇に感情を読ませないため、自衛手段として身についたのだろう。
しかし岸田博士は違った。伊達と言い争い怒ることもあるが、他の職員相手に笑顔を向け、落胆し、驚き、とにかく喜怒哀楽が大きな人であった。
「一つ尋ねたいことがある」
「なんだね? なんでも聞いておくれ」
岸田博士はすぐに通信を開いて、無害そうな笑顔を浮かべた。
「伊達のことが嫌いなのか? なのにどうして一緒に仕事をしている?」
岸田博士は面食らった顔をして、しばらくどう答えるか悩んでいるようだった。
なぜわざわざ聞いたのか自分でも解らない。そもそも答えは解りきっているではないか。NCT研究所の給料はいい。多少の不自由さなど問題にならないほどだ。ガラスの向こうに見える職員達の事情など、観察していればすぐに解る。岸田博士のデータは乏しいが、他の職員と大きく違うことはないだろう。
「私が最後に地上に出たのはいつだと思うかね?」
返ってきたのは質問の答えではなかった。しかし問われると分析を始めてしまうのは、いつのまにか身についた性分だ。
過去に見た岸田博士を思い出す。会話や服装、肌の調子など様々な項目から解析した。
「百四十七日前……」
「おお、おおおっ! 正解だ!」
岸田博士は目を丸くして驚いている。そしてすぐに気味悪がるだろう。他の職員と同じように感情を見せなくなる。岸田博士の喜怒哀楽が見られなくなるのは、なぜか少しさみしく感じた。しかし岸田博士の反応は由宇の予想と異なった。
「いやあ、やっぱり由宇君はすごい。何からそう判断したのかな。服装や言動だけでは、その結論にたどり着けない。肌の調子かな。メンタルの分析もあるだろう。いったいどうやって解ったのか、できれば教えてくれないかね?」
好奇心いっぱいに岸田博士は由宇の顔をのぞき込んでいる。
「な……わ、私が質問をしたはずなのに、なぜ私が答える羽目になる?」
「ああ、そうだったね。すまないことをした」
岸田博士は腕を組んで頭をひねりなんと答えようか考えているようだった。
「私がNCT研究所の外に出るのは数ヶ月に一回しかない。前回は百四十七日前。これは最長記録だね。その前は九十三日前。さらに前は百二日……いや百三かな。ともかくそれくらい前だ」
やはり由宇の質問から少し外れているように感じるが、黙って聞いておくことにした。
「NCT研究所は山の中にある。周辺に見えるのは草木ばかりでさほど面白い光景ではない。それでも久しぶりに外に出ると、面白みもない見慣れた山の風景に感動してしまうのだよ。太陽の暖かさ、自然の香りが私に喜びをもたらしてくれる」
一つ一つ言葉を選びながら丁寧に話していく。
「そうした感動も心が死んでしまっては無理だ。しかし太陽を見ずに施設内に閉じこもっていると、徐々に心が死んでいくのが解る。そのために私は心のリハビリを行うのだよ。喜びや驚き、悲しみに怒り、それらは人としてすべて必要な感情なのだ。だから私が伊達司令と言い争うのは、リハビリに無理矢理付き合わせているようなものなんだ」
そう言って岸田博士は少年のようにイタズラっぽく笑う。その印象は初めて会ったときからまるで変わっていなかった。
「由宇君もいずれ外に出られる日が来る」
それは残酷な言葉だ。岸田博士もそれは解っているはずだ。しかし真正面からまっすぐに由宇を見つめ語る。
「私はいつか君に感動することを思い出して欲しいのだ。それは慈しみから生まれる感情であり、優しさから生まれる想いであり、愛がもたらすものなのだよ」
「そんなもの私には……」
「自分を卑下しちゃいけない。悪いクセだよ。由宇君が誰よりも優しいのは私が知っている。信頼を裏切らない子だということも知っている。そんな優しい女の子には、きっと素敵な未来と大きな感動が待っている。私はそう信じているよ」
由宇は顔をそむけ答えなかった。そして話をそらすようにもう一つ質問をした。
「どうして何十日も外に出ない?」
岸田博士の業務はある程度把握している。外に出られない理由はなかったはずだ。しかし岸田博士は曖昧な笑顔を見せるだけで答えてはくれなかった。
3
――五年後。
シベリアに出発するまであと十四時間というとき、由宇の部屋に伊達がやってきた。
伊達はガラス越しに話すのではなく直接部屋まで降りてきて、手には大きな包みを持っていた。
「何か用か? グラキエスの検討に忙しいのだが」
LAFIサードのモニターを見ながら、由宇は見向きもしない。
「これを」
伊達が大きな包みを置いたので、由宇は不審に思いながら手に取って開けた。中から出てきたのは少し古いクマのぬいぐるみだ。
予想外のものが出てきたことに驚き、由宇は目をしばたたかせて伊達を見た。
「十一年前、岸田博士がおまえへのプレゼントとして買ったものらしい。ただその直後、ぬいぐるみを使った峰島勇次郎の研究所の爆発テロが起こった。それで渡せなくなった」
由宇は口を開き何か言おうとしたが、結局何も言わないまま閉じてしまった。
「岸田博士はいつもこれをNCT研究所の私室の棚に入れていた」
なぜ伊達が今になってこれを自分のところにもってきたのか、由宇は解らなかった。表情から、口調から、心理を読み解くのはたやすいはずなのに。
ただ由宇は黙ってぬいぐるみを受け取る。長くロッカーに入れられていたぬいぐるみは、それでもふわふわと柔らかく、そして岸田博士の匂いがした。
「岸田博士はいつもおまえを信じていた。どんなときも道を踏み外さないとな。そんな調子だから、いつも俺とぶつかっていたが……」
「私を信じても、何も益はないというのに……」
「健やかに成長して欲しい。それだけが岸田博士の望みだった」
ぬいぐるみを見る視界がぼやけた。いくつもの涙がとどまることなく、ぬいぐるみにしたたり落ちた。ずっと、このふわふわとした柔らかく温かいものが欲しかった。欲しかった心を、あのテロ事件から封印してしまった。岸田博士はそんな由宇を誰より理解してずっと見守っていてくれたというのに。
「私はいままで、何をやっていた……」
いつもいじけて部屋の隅で膝を抱えていた。全員が敵だと思っていた。誰も信じられなかった。自分は慈しむ眼差しに甘えていたことに気づいた。
「それは俺も同じだ。峰島勇次郎にこだわるあまり、遺産という存在そのものを見誤っていた」
由宇は伊達の傍らにあるケースを見た。そこには彼女が外に出るときに使われる一定時間で融解する毒入りカプセルの注射器が入っている。
伊達は注射器を取ろうとし、しかし途中でその手を止め、注射器を元の場所に置いた。
「岸田博士はこんなものは必要ないといつも言っていた。父親とおまえは違うと。逃げも隠れもしないと」
「逃亡防止だけではないだろう。私が囚われれば頭脳が悪用される可能性もあった。実際海星に捕まった時は……」
伊達は首を強く横に振り、由宇の言葉を制止する。
「人としての信頼の問題だ。正しかったのは岸田博士だけだった。そんな岸田博士がおまえを信じている。これまでも。そしていまもだ」
「……信じている」
心にいくつも突き刺さっていたくびきがひび割れ、砕け散るのを感じた。心が解き放たれる。解き放たれた心に光が差しこむ。心の中でくすぶっていたものが霧散していく。
――私はいつか君に感動することを思い出して欲しいのだ。それは慈しみから生まれる感情であり、優しさから生まれる想いであり、愛がもたらすものなのだよ。
岸田博士だけではない。小夜子や横田和恵がくれた慈しみの感情。麻耶から受けた信頼と優しさ。なにより闘真が自分にくれた無償の愛。外に出た数ヶ月の間、どれだけのものを受け取っただろう。
スフィアラボで浴びた雨。闘真と二人で見た大海原に沈む夕日。あの日、自分は感動を、心を、取り戻したのだと今では解る。ただ単純に外に出られたからではない。闘真が自分を外に連れ出そうと、助けようと、手をさしのべてくれたからだ。由宇は敵ではないと闘真が信じたからだ。岸田博士と同じように。
「……私を信じてくれている」
その気持ちに応えたい。その方法を由宇は一つしか知らない。ずっと自制していた。自分を信じられなかった。遺産技術を恐れていた。かたくなに己への枷としていた。ただただ愚かだった。
やらなくてはいけないことから逃げていた。いまグラキエスと戦わなくてどうするのか。人類が滅亡するのを地下1200メートルでただ見ているのか。
IFC、サタンのチップ、旧ツァーリ研究局、それらが有機的に繋がっていく。すべてが美しく理路整然と由宇の中で咀嚼された。グラキエスに対するピースが綺麗に収まるのを感じた。人類を滅ぼそうとする忌まわしい遺産さえ、彼女の中で美しく組み立てられていく。
――ああ、世界はこんなにも美しいのか。
人の気持ちも、命も、人が生み出した数式も理論も、自然が造る決して人知の及ばぬものも、等しくすべて――世界とはなんと美しいのだろう。
岸田博士が幼い自分に言っていたことを正しく理解しているのかは解らない。だが心揺さぶられる感動が、今たしかに自分の中にあった。
同時に思う。自分は何を恐れていたのか。
今まで忌み嫌っていた遺産、というもの。父親が残した世界を、人を歪ませるばかりだと思っていたもの。
――違う。
海星に記憶と知識を奪われるようなことがあったら、殺してくれと闘真に頼んだ。遺産を自分以外の人間が使うことを恐れ、自分は遺産を使用することを自らに厳しく禁じた。
しかしそれは正しいことだったのか。父親を恐れ、遺産の持つ力を恐れ、遺産が世界を歪ませることを恐れた。しかし、一番遺産を恐れていたのは実は由宇自身ではなかったか。
――私の中の遺産の知識は、盗んだものでもない。奪ったものでもない。私のものだ。私が使い道を決め、私が使う。父が世界を歪ませたのなら、私は私の力で、美しい世界を取り戻してみせる。
「……伊達」
「なんだ?」
「決めたぞ。私は私の枷をとる」
決意は固く高らかに宣言された。
「遺産技術を解放する」
4
NCT研究所は様々な峰島勇次郎の遺産技術が保管されているが、その主な遺産保管庫はNCT研究所の地上と最下層のちょうど中間、地下600メートルにあった。NCT研究所内では最優先事項である地下1200メートル地点の次に重要な区画として厳重な警備が施されていた。
保管庫は厚さ12メートルのコンクリートで覆われ、遺産技術により強度は何倍にも増していた。入出するにはADEMの一級権限以上か一部の二級権限が必要で、岸田博士や伊達をはじめ、入出できるのは二十名に満たなかった。
海星がNCT研究所を攻めてきた事件のとき、一時期ここに保管されていた遺産技術のほとんどは最下層に移送されていたが、海星の事件が収まったいま、遺産保管庫はもとの場所に戻り、さらなる強化を施された。侵入者を撃退するためにより強力になった重火器に加え、何重もの強固な扉が増設されている。
警備員は久しぶりに本来の役割と場所に戻れたことをほっとしていた。
そこへADEMの総司令、伊達真治が姿を見せたのは、海星によるNCT研究所の襲撃以来のことであった。分厚い扉で閉ざされている保管庫の前で、伊達ともう一人の少女のスキャニングが始まる。
「大脳皮質番号一〇〇二〇〇七、伊達真治、一級権限、二十七項目の照合一致しました」
さらにもう一人の少女にセンサーが入る。
「大脳皮質番号の登録がされていません」
警備員は内心怪訝に思った。NCT研究所内に入るには最低でも一度はスキャニングを受けている。不法侵入でもない限り登録がないということはありえなかった。しかし隣に立っている伊達は未登録であることに驚いた様子はない。
「……、限定特級権限、四十六項目の照合一致しました」
特級権限はこの施設の最高権限で岸田博士しか持っていなかったはずだ。そもそも限定特級権限というのは初めて聞く。さらに名前は雑音でかき消された。
「限定特級? 初めて聞いたぞ」
許可された少女のほうがいぶかしんでいる。
「岸田博士の提案だ。最悪の事態を想定して、NCT研究所内に限り最高のアクセス権を持っている。外部へ出ることはできないが」
二人が保管庫に入ると、明かりがともる。野球ができそうなほどに広い空間に、大小様々な荷物が積まれていた。
「必要な遺産を言え。持ち出しの許可はそのつど判断しよう」
グラキエスに対抗するための遺産技術だ。破壊力の高い兵器が必要となるだろう。グラキエスに対抗できそうなものもある。ただたいていの遺産は数がそれほどそろっていない。試作品の段階で封印されているものが多いためだ。
「まずは――」
その名称を聞き伊達は戸惑う。
「待て、それはここにないぞ。OEランク、審査が通り民間にも使用許可が下りているものだ」
由宇が最初に要求したとある遺産は、予想に反してランクの低い遺産技術だった。
「ないのか? 数も必要なのだが」
「使用許可の出ている民間企業に掛け合ってみよう」
「多ければ多いほうがいい。最低でも十万個、できれば三十万個はほしい。輸送は私より遅れても大丈夫だ」
「三十万個……」
民間で生産されているとはいえそれほどの数がないのは明白だった。生産を許可している企業に掛け合いすぐさま増産させる。その前に生産数制限を取り払わなければならない。それだけでも足りないだろうから、新たに生産できる企業を探す。生産力だけでなく信頼性と機密性も兼ね備えていなければならない。他にも輸送手段、予算等々、考えなければならないことは山ほどあった。
「あいつに任せれば楽だったんだがな」
命令一つですべて滞りなく書類の山を処理する八代の存在がいかに大きかったか実感した。
「どうした、すでに疲れているぞ?」
「遺産の利用一つでこれほど大変なのかと実感している。これからは少し部下に優しくしようと思ったところだ」
ふうんと由宇は気のない返事だ。
それからも次々とあげられる遺産技術の名称は伊達の戸惑いを大きくするばかりだ。いくつかのものは戦闘にも役に立つ技術で納得できるが、なぜ必要なのか解らないものも多かった。
「未完成のソフトウェアはどうするつもりだ?」
「シベリアにつくまでの間に完成させてLAFIセカンドに置いていく。十時間ほど時間をくれ。それとこれも必要だ」
「おい、これは遺産技術じゃなくて米軍の兵器だろう」
「共同作戦を名目にフリーダムの供与を取り付けるつもりだろう? そのついでに交渉してくれればいい」
そのようなやりとりが何度も繰り返される。
「おまえが要求した遺産技術、今度の京都第三条約の改正で、グレーゾーンになる程度にはしておこう」
由宇の要求が終わると伊達はそのような言葉でしめた。
「こんな状況でさえ法にこだわるんだな」
「遺産技術が無法だからだ。無法に無法で対応するなど新たな火種になるだけだ」
その方法をやろうとしたのが黒川謙だ。伊達の方法は見方によってはまどろっこしすぎるだろう。しかし黒川謙率いる海星も、スヴェトラーナが率いるアルファベットも、組織として歪み、あるいは消えてしまった。
「おまえはともかく目の前の問題だけに集中し、煩わしいことはこちらに任せろ。おまえが先のことを考えるのは……そうだな一つだけあるか」
伊達はあごひげをなで、意味ありげに笑って見せた。
「グラキエスの問題が解決したら、私はNCT研究所に戻ってくる。心配するな」
「そっちじゃない。おまえが考えるべき先は、無事に帰ってきた岸田博士への感謝だ」
「む……」
世界最高峰の頭脳を持つ少女は、感謝という言葉に戸惑い困惑する。数学界の難問ですら、これほど難しい顔をしないだろう。日常を知らない結果だ。ならばいまここで助け船を出すのは己の責務だろう。
伊達も腕を組んで考えた。由宇と伊達が並んで悩んでいる姿は、二人の関係性を知っているADEMの人間ならば、あまりにもレアすぎる光景でとても驚いたに違いない。
「これはどうだ。おまえの部屋にあるストラディヴァリウスだが、購入資金のほとんどは岸田博士の私財だ。元々使う予定がないからちょうどいいと言ってな」
「ADEMの資金じゃなかったのか? フリクション・キャンセルと引き換えの」
「ヴァイオリン一本に億単位の金が出せるか。……帰ったらおまえの演奏を聴かせてやれ」
「それはちょっと、恥ずかしい……」
意外なことに由宇は気恥ずかしそうにしている。それは年相応の少女に見えた。この姿こそ岸田博士に見せたいものだと伊達は思う。
「いままでも普通に弾いていたじゃないか」
「それはそうなのだが……」
由宇の目はしばらく泳いでいたが、やがてまっすぐに伊達を見た。なぜか嫌な予感がした。
「伊達、おまえ、ピアノが弾けたな」
嫌な予感は高い精度で的中しそうだ。
「岸田博士を喜ばせるなら、私とおまえがいがみ合わない姿だと思う。ならば私のヴァイオリンとおまえのピアノによる二重奏を見せるのが一番いいのではないか」
「とんだやぶ蛇だったな」
意義の唱えようもなく伊達は頭を抱える。
「もう何年も弾いていない。まともに指が動くようになるまで練習が必要だ」
「練習は無駄にさせない」
由宇は笑った。その不敵にも見える笑顔を見るのは久しぶりだった。