二章 Siberia 4

1


 ――二日前。

 京都第三条約が締結され、シベリアで待機していた環あきら率いるLC部隊に命令が下り動き出すのとほぼ同時刻、もう一つ重要な役割をもった大部隊に命令が下された。


「ロ二十二号作戦決行ですね。了解しました。波号部隊、ただちに行動開始します」


 椅子に座っていた男は電話を受け取り、静かにうなずく。

 命令を受け、うなずいたのは福田武男。三週間前までは海星のトップ、黒川謙の副官として、組織を支えてきた人物だった。

 ――国連をねじふせ、我々を取り込むことを国際社会に容認させたか。

 海星の日本に対する謀反、そして遺産不正使用組織に対する暴力的な破壊活動は、日本政府への信頼だけでなく、フリーダムを兵器として極秘裏に開発した上に強奪されたアメリカ政府の大国としての立場も失墜させた。

 米国という巨大な後ろ盾と日本政府を決裂させ、京都第二条約によって与えられた超法規的な遺産独占権をADEMから奪い、かわりに海星が遺産犯罪を弾劾する唯一の権力を手にする。その目的は半ば成功し、そして失敗に終わった。

 実は日米は海星に敵対する立場であったことも、ADEMが遺産を不法に独占使用していないことも、海星の中枢にいた福田は誰よりよく知っている。だが真実を知らない世界がそう見るわけもなく、日米安保条約を結ぶ両国は世界中から疑惑と批判の眼差しを向けられることになる。

 六月に行われる国連理事会議において、新たに議決される京都第三条約。そこでADEMの権限は大きく奪われることになるだろうというのが大方の見方であった。

 ところが、ADEMは権限を奪われるどころか、反逆者でありフリーダムという強大な遺産兵器を持つ海星を、新たな部隊として配下に収めることを国際社会に納得させた。

 ――まさか私達にこのような運命が待っているとは。

 伊達が監禁されている福田の前に現れたのは四日前だ。そのときの話と要求は驚くべきものであったが、同時に国際社会がなぜ海星をADEMの配下に収めるなどという暴挙を許したのかを納得させるものでもあった。

 ――人類滅亡が迫っている。それを防ぐ手助けをしてくれ。

 しかし、突拍子もない話の内容はまだ現実感を伴わない。グラキエスという生命体と、そこから引きおこされる全有機生物の全滅など、想像の埒外だ。

 伊達はいま元海星の力がいかに必要か淡々と語った。説得ではなく、現状の理解を求めた。福田の疑問にも丁寧に答えた。

 なぜ伊達司令自らが話に来たのか。その質問だけは苦笑しか返ってこなかった。おそらく誠意、あるいは筋を通すと呼ばれるようなものなのだろうが、伊達と福田の間にそのような甘い感情は入る余地がない。だから伊達は苦笑しか返せなかったのだろう。

 伊達の去り際に、福田は胸の内に芽生えた感情を抑えることはできなかった。

 ――第三条約締結に、どんな手品を使ったのかと思っていましたが。今回の出来事は、我々を引き込むいい口実になったことでしょう。

 一方的に不利な立場に立たされていることへの憤りか、それとも黒川を死に追いやった恨みが知らないうちに胸の内に宿っていたのか。

 いずれにせよ愚かな言葉だった。

 ――否定はしない。我々ADEMも遺産技術を武器として使用してきた。

 伊達はそれだけを言い残して、福田の前から去った。

 おそらく返事はそのときに決まっていた。

 翌日に承諾してから、元海星の兵士の招集も装備の支給も数日で行われた。おそらく伊達は今回の遺産事件がなくとも福田と、残された元海星の兵士達をADEMに取り込むつもりだった。だからこそ迅速に必要なものを用意できたのだろう。

 福田は椅子から立ち上がるとプレハブの部屋を出る。

 外の陽光のまぶしさに目を細めた。まだ六月だが気候はすでに夏の暑さを予感させる。

 しだいに目が慣れると、光景が目に入ってくる。広大な大地がある。そこには千人以上の武装した隊員が並んでいた。全員が元海星の兵士だ。

 総勢、一千二十七名。三週間前のADEMとアメリカ海軍との戦いの生き残り一千五百四名のおよそ三分の二が集まった。

 残りの三割がここにいない理由は大きく分けて二つあった。一つは先の戦いで負傷した者、もう一つはADEMの提案に賛同せず刑務所に服役する道を選んだ者だ。

 兵士達の背後にはフリーダムの姿がある。数々のコンテナがフリーダムの巨大な格納庫に運ばれていく。列をなしたコンテナの中のほとんどが武器兵器であることに福田はどこか薄ら寒いものを感じた。

 海星として活動していたときは補給に制限があったため、ここまでフルに兵器類を乗せることはなかった。


「まるで戦争だな」


 福田の心情を代弁するかのようにつぶやいたのはアドバンスLC部隊の蓮杖だ。

 蓮杖は元海星部隊の補佐官としてADEMから派遣されてきた。事実上のお目付役だ。元海星――名称改め波号部隊は海星時代と指揮系統はさほど変わっていない。元テロリストの犯罪者集団なのだから監視役がつくのは当然とはいえ、ADEMの実戦部隊のトップがくるのは意外だった。


「アドバンスLC部隊は今、最前線にいると聞きました。トップのあなたがなぜ我々の補佐役に?」


 福田の疑問に答えたのは蓮杖ではなかった。


「黒川謙を直に知り、言葉を交わし、理解をした人物でなければ、監視役といえど軋轢を生むからでしょう。私はいい人選だと思います」


 驚いて振り返ると、髪の長い麗人がいつのまにか背後に立っていた。男か女かも判別がつかない中性的な魅力をもっている人物は、出撃準備をしているフリーダムの喧噪とは裏腹に静かなたたずまいだった。麗人のまわりだけ音が消失したかのようだ。

 麗人の目線が福田と蓮杖からフリーダムに運ばれる荷物に移ると、わずかに険しい表情になった。


「フリーダムに艦載されるVTOL機のステルス性能を犠牲にして、アビオニクスなど対グラキエス用に抜本的に性能を改革すると聞いていましたが……なるほど、こういう改造を施しましたか」


 麗人は感心したようにうなずきながら運ばれているフリーダムの装備を見ていた。


「あのコンテナの偽装は米軍特有のものですね。パターンを変えないと、外部にばれるのも時間の問題でしょうに」


 淡々と話す内容は内情に詳しい人物だと解る。極秘事項を簡単に口にする人間に、蓮杖は驚くそぶりもなかった。二人は既知の人物のようだがしかしADEMの人間には見えなかった。仕立ての良い黒のスーツと革靴は軍服ですらない。なによりもまとっている空気が違いすぎる。


「あの、あなたは?」

「自己紹介が遅れました。私は怜と申します。真目家当主のご息女である真目麻耶様の秘書をしております」


 うやうやしく頭を下げる。


「真目麻耶の秘書……真目家の? どうしてそんな人がここに?」

「乗機するためですよ。話を聞いていませんか?」


 ちょうどそのとき福田の元に伝令が届いた。伝令の内容はたったいま怜が言った内容と一致した。


「順番が前後してしまったようですが、どうぞよろしくお願いします」


 そう言って見せる笑顔に温度はない。なのにとても魅力的に見えてしまう底知れない怖さがあった。

 真目家は異能の家でもある。このような人物がいてもおかしくないのかもしれない。


「話はわかりました。断るいわれもありませんが、危険なところです。覚悟しておいてください」

「それはもちろん。これでも一通りの戦術戦略を理解しているつもりです。いざというときはお役に立てると思いますよ。一個人としても麻耶様の護衛をできるくらいには戦えますが、グラキエス相手ではさほど意味はなさそうですね」

「差し支えなければ、どうして同行するのか教えていただけませんか?」


 怜は少し考えるそぶりを見せたが、いいでしょうと同意した。


「ロシアの一件に真目不坐が介入しているという情報があります。また麻耶様の兄がグラキエスの生息域、クラスノヤルスク地方に行っているのです。まずはこの二点」


 グラキエスの一件に真目家が関わっているのだろうか。あるいは巻き込まれたのか。そこまでの判断はつかなかった。


「それともう一つ、これはとても個人的な理由なのですが」


 怜は忌々しそうにつぶやいた。


「私の実の兄もシベリアで行方不明なのですよ。縁を切ったとはいえ心配しないわけにもいかないでしょう」


 初めて見せた人間味のある表情に、福田は少しだけほっとした。


2


 ロシアのクラスノヤルスク地方はシベリア地帯とはいえ、六月になれば雪も溶けて春が訪れるのが普通だった。

 しかし現在、広範囲にわたり氷点下二十度以下という日々が続いていた。眼下に見えるのは一面真っ白の雪と氷の世界だ。

 ロシアの軍事ヘリコプターKa―52、通称ワニは偵察のため、旧ツァーリ研究局から50キロ西の地点の上空を飛んでいた。

 ロシアには偵察用のヘリというものが存在しない。その理由は様々な要因が絡むが、現実の対処として多用途ヘリを偵察ヘリとして使うことが多かった。Ka―52は攻撃ヘリで偵察向きとは言えないが、現在の基地の損害状況から他の選択肢はなかった。


「こちらクロコダイル1、現在基地より西北西50キロ、グラキエスの最前線より20キロの地点を飛行中。八代一および六道舞風の両名は依然発見できず」


 操縦席に座るアドバンスLC部隊の越塚清志郎が淡々と報告をした。ヘリを操縦しながらもその目は地平線近くのある一点を見つめたままだ。視線の先には奇妙な世界が広がっている。

 雪と氷に覆われた真っ白な大地が、ある地点を境に赤へと変わっていく。

 夕日に染まった赤ではない。ルビーのような深い赤は見ていると心が吸い込まれそうになる。赤い光の正体は無数の無機物生物だ。小動物の大きさから小山のようなサイズまで大小数千万を超えるグラキエスが、押し寄せている。


「……了解……。引き……き両名の……」


 通信機から聞こえてくる応答は途切れ途切れで雑音も多かった。一定距離以上になると、電波障害が大きくなるためだ。


「クロコダイル、了解」


 越塚は簡潔な答えで通信を切る。


「なあ、このクロコダイルって名称どうにかならないか? Cならふつうチャーリーだろう」


 並列複座式の操縦席で隣に座っている元ミネルヴァのメンバーのリバースが、控えめに不服を口にした。大きすぎる体を申し訳なさそうに座席に押し込んでいる姿は、ユーモラスですらある。


「環が決めたんだ。あきらめろ」

「あの赤毛の女隊長か? なあ、彼女はなんで俺のこと見て、クロコダイルって変更したんだ?」

「クロコダイル・ダンディーって映画に出てくる役者に似てたんだとさ。クロコダイル・ダンディーで通じるか? 邦題にするとき変更されるからな」

「ああ、こっちでもクロコダイル・ダンディーってタイトルだったよ。ずいぶん古い映画を持ち出すんだな。けど俺ってそんなに伊達男に見えるか。やあ、まいったな」

「ああ、主人公じゃなくてやられ役の誰かって言ってたな」


 まんざらでもないリバースの顔があっというまに曇る。


「一瞬でもあの娘を可愛いなと思った俺が馬鹿だったよ」


 二人は軽口を叩きながらも、眼下の景色を見渡す眼差しは真剣だ。八代とマモンが消息を絶ってからずいぶんと長い時間がたつ。


「俺にあんたくらい操縦の腕があれば、二人を助けられただろうに……」


 ヘリでスヴェトラーナとアリシアが率いる避難民を救出したとき操縦していたのはリバースだ。民間人優先で、二人を置き去りにするのはやむを得なかったとはいえ、責任を感じる気持ちがなくなるわけでもない。


「モンキーモデルであそこまで持たせられただけでもすごいことだ。並みの操縦士だったら避難民も他の味方も全員死んでる」

「……ありがとよ」


 グラキエスから追われたとき逃げる可能性の高い方角を捜索していたが、いまだに彼らが乗っていたスノーモービルの痕跡も足跡も見つかっていない。


「心配するな。八代さんはひょうひょうとしているが、力のある人だ。どこかで必ず生きている」

「まあ、あのマモンってお嬢ちゃんも只者じゃないしな」


 リバースは、眼下の景色に意識を集中した。


「見つかりそうか?」

「見えるのはぐちゃぐちゃに踏み荒らされた雪面となぎ倒された倒木くらいだ。荒らされてない方角は南の方角だが……」


 そう言いながらリバースは熱心に視線を動かしていた。


「……ちょっと待て、中規模の群れだがグラキエスが南に見える」


 慌てるリバースに落ち着いた口調で越塚が答える。


「そちら側の木々は無事なんだな? グラキエスが通ったあとにいるとは考えにくい。南に限界まで近づいてみよう」


 ヘリがまばらに生えている木々の上スレスレを飛ぶ。


「おい見ろ、あれは……?」


 リバースが指差した先に何か動いているものが見えた。木々の合間、少し開けた丘の上だ。ヘリで近づくと、それは二人の男女が手を振っている姿なのだと解った。



「いやあ、逃げに逃げたら、逆に基地から遠ざかってまいっちゃったよ。スノーモービルはガス欠になっちゃうし」


 まったくまいった様子もなく八代は頭をかいている。


「僕は悪くない」


 その隣でマモンがふてくされた様子で腕を組み、そっぽを向いていた。軽い口調のようだがマモンの横顔には疲労の色が濃くにじみでている。


「誰も君が基地はこっちって言った方向が間違ってたからだなんて言ってないじゃないか」

「言った、いま言った! 僕のせいだって言ってるだろ」


 鼻先に指を突きつけてマモンは叫んだ。


「言ってない言ってない」

「言った! だいたいあんたが何回もスノーモービルから落っこちるから、そのたびに戻ってわけわかんなくなったんだよ。燃料よけいにくったのもそのせいだし!」

「だってそれは、君がすぐ変なところを触ったとかセクハラだとか言うから。つかまれないのに急にカーブされたら落ちるだろ」

「おっぱい触っといて胸だかお腹だかわからないって、痴漢した上にセクハラ発言するからだよ」

「そんなことしてないし言ってない。分厚いコートの上からじゃ解らないって言ったんだよ」

「ほら、言ってるじゃん!」


 二人の馬鹿げたやりとりを見ていると、先ほどまで心配していたのが馬鹿らしくなってくる。しかし二人のかっこうをよく見ると分厚い手袋があちこ破れていて、小銃の銃身は連射しすぎたのか歪んでおり、八代の背中は服と皮膚が大きく斜めに裂けていた。あと1センチでも深ければ命に関わっただろう。


「やあ越塚君、君が迎えに来てくれるとは思っていなかったよ。こっちに来てたんだ」


 越塚は直立不動の姿勢で敬礼をする。


「ご無事でなによりです」

「なんとかね。でも実際迎えに来てくれなかったら危なかった。ほんとにありがとう」


 破れたコートを脱ぎ、渡された防寒着をはおりながら八代は白い息を長々と吐く。

 グラキエスの群れは視認できる距離まで迫っている。いま四人がいる場所も数十分以内にグラキエスの大群に吞み込まれるだろう。群れから離れた足の速い飛行タイプのグラキエスが、遠くに見えるのも珍しくなかった。


「俺はリバース。あんたとは初対面だったよな。活躍はヘリの上から見ていたよ。礼を言うのはこっちだ。ありがとう。あんたが残ってグラキエスを防いでくれなかったら皆死んでた。ああ、ともかく無事でよかった。いま基地は大変なことになってるから」


 リバースはマモンと八代の言い争いが再開しないよう、やんわりと話の流れを本題に戻した。


「そうそう。バカみたいにでっかいグラキエスの大群はどうなったんだい? 基地のほうに向かったと思ったけどいまは少し退いてるし、なにか対抗策ができたの?」


 越塚とリバースはどう答えて良いものか迷った顔をする。

 彼らは見た。小山のような巨大なグラキエスを、世界を埋め尽くすほどの無数のグラキエスを。立ち向かったLC部隊やロシア軍が何一つ歯が立たなかったことも、超常的な力を持ったスヴェトラーナや坂上闘真さえ無力であったことも。

 しかしそれらは質問の答えではない。


「どうもこうも、突然現れたお嬢さんが一人でみんな解決しちまったよ」


 リバースは困り果てた末になんとかそう答えた。そうとしか言いようがなかった。あのとき彼女が何をしたのか、リバースも越塚も正確には理解していなかった。

 解るのはただ一つ。グラキエスという超常に匹敵する頼もしくも空恐ろしい存在が、あの窮地を救ったということだけだ。


「ああ……、そういうこと」


 名前を言われなくても八代はそれが誰のことなのかすぐに解った。そして二人の戸惑いの意味も理解した。峰島由宇に接した人間は多かれ少なかれ、似たような反応を見せる。尊敬と戸惑い、恐怖に近い畏怖。彼女は意図しなくても周囲の人間を恐れさせ、ひれ伏せさせる。

 故に地下に十年幽閉される憂き目に遭ったのは皮肉に他ならない。

 越塚も以前彼女を見ているはずだが、その真価にはいままで触れる機会がなかったのだろう。戸惑いと苦々しさを混ぜた顔をしていた。


「ちょっと意外だけど、でも……」


 八代は由宇がロシアに来たことに驚きつつも、由宇が現地にくるからには何らかの解決方法が見出されたのだろうと期待した。


「ま、今はのんびり話をしている時間もないことだし、とりあえず早くここを離れよう」


 八代はそう言ってKa―52を見て首をかしげた。


「ところでどうして復座型の戦闘ヘリで捜索を? グラキエスと戦えるってのはわかるけど、二人乗りだよね。僕達はどこに乗ればいいのかな?」


 席が横にならんだ復座型の攻撃ヘリは、搭載できる武装こそ多種多彩でロシアが自信をもって送り出しただけのことはあるが、搭乗人数は二名だ。小柄なマモンならば、復座のコックピットのどこかに収まることはできるかもしれないが、八代は絶望的だ。何より人より一回りも二回りも体の大きいリバースも乗っている。


「現在、基地の損傷が大きく、使える航空機に限りがありました。コックピットにここの四人が搭乗するのは不可能です。恐れながら、これを使用してください」


 越塚が差し出したのは降下用ケーブルと落下防止用の上半身を縛り付けるハーネスだ。


「まさかヘリコプターに宙ぶらりん? ははは、まさかね」

「はい、そのまさかです」


 受け取ったハーネスを引きつった表情で見る。さすがの八代もここで笑えるほどの余裕はなかった。


「お渡しした防寒着はADEMの特注品です。風速が加わっても基地までの時間なら低体温にはなりませんからご安心ください」

「いや、そういう問題……?」

「気休めにもならないが、俺も付き合うよ。お嬢ちゃんは俺が座っていた座席に座りな」


 リバースが自分にもハーネスを取り付けようとするのを、横からマモンが奪い取って自分の体に取り付けた。


「おい、お嬢ちゃん……」


 出会いがしらの八代とのやりとりから、宙吊りなど絶対拒否し真っ先に機内に入り、ゴネる八代を笑うと思われたマモンが、なぜか率先してテキパキとハーネスをとりつけ始める。


「でかいおっさんは早く乗って。けっこう大きなグラキエスの群れがそばまで来てるよ。なんでだろう、突然現れた」


 マモンは焦った顔でそれでも手際よくハーネスを身につけた。


「だからといってお嬢ちゃんがぶら下がる理由にはならないだろ」

「なるね。僕はヘリの操縦ができない。横でゴネてる男は操縦できるみたいだけど、二人には及ばない。何かあったとき操縦士は複数いたほうがいい。あなたがコックピットに乗るのは当然でしょ。だから僕と情けない顔してゴネてる男は下。ぐずぐずしないで」


 マモンは珍しく真剣な顔で理路整然と話す。基地での時間と今までのマモンの言動から、きまぐれでわがままな少女だと思っていたリバースは面食らった。言っていることもハーネスをつける手際も場数を踏んだ優秀な兵士のものだ。


「いや、しかしヘリで上空から確認したが、まだ群れは……」


 越塚とリバースはまだ半信半疑の顔をしていたが、その隣で八代が言い返すこともなく真顔でハーネスをつけていた。


「舞風君が近くにいるというならそうなんだ。彼女の感覚を信じてほしい。だから僕らは生き延びてここまで来られたんだ」


 マモンの五感は変異体との融合で鋭くなっている。しかしその説明をしている時間もなかった。

 二人の急いでいる姿にただならぬものを感じたリバースと越塚はすぐさまコックピットに乗り込んで、ヘリの離陸準備を始める。リバースは兵器の確認を行い、いつでも攻撃できる準備を整えた。

 コックピットの風防越しに八代が安全確認完了のサインを出す。越塚はぶら下がる二人を考慮して、ゆっくりとヘリを上昇させた。


「近くにグラキエスの姿はないぞ」


 周囲を警戒していたリバースは上空から周囲を確認するが、遠くにいたグラキエスの群れは先ほどより近づいているものの、いますぐ飛び立たなければならないほどではなかった。


「やっぱりあのお嬢ちゃんの勘違いだったんじゃないか?」

「それならそれでいい。今は少しでも……え? どういうことだ?」


 越塚にしては珍しい感情をあらわにした驚いた声が出る。それと同時にヘリを急上昇させた。

 ヘリの真下に小型のグラキエスの群れがどこからともなく地上に突然現れた。マモンの言う通り、すぐ近くに急にだ。八代とマモンは既に地上から離れているものの、まだ低い位置にいた。

 実際のところ間一髪だった。ぶら下がっている二人に飛びかかろうとしたグラキエスも数十匹はいる。


「どこからこれだけの群れが……」


 越塚が慌ててヘリを上昇させると、グラキエスがどこから現れたのか判明した。地面に大きな穴が空いていて、そこから次々と現れてきていた。


「地下から? まるで蟻だな」


 リバースも身を乗り出して驚いている。


「地面の下にもいるのかよ。どうなってんだ、いったい」


 突然開いた直径一メートルに満たない穴。しかしそこから湧き出てくるグラキエスは尽きることなく、ヘリが離れていっても群れが拡大していく様子がはっきりと見てとれた。

 ヘリからぶら下がっている八代とマモンはさらに切迫した状況なのが把握できる。


「うわっ、やばっ!」


 さらに上空になり周囲が見えるようになると、地上を埋め尽くさんばかりのグラキエスの群れが眼下に広がっていた。


「あんなのに追いかけられて、よく生き残れたよね」


 顔を青くする八代を見てマモンは満足げだ。


「僕に感謝してよ。一生、毎朝、毎晩、いついかなるときも僕に感謝するといいよ」


 ふんぞりかえって落ちそうになったマモンを慌てて八代が抱きとめた。


3


 ロシア、シベリア連邦管区、旧ツァーリ研究局。クラスノヤルスク中央基地より西北西に30キロメートル、グラキエス第三観測塔。

 双眼鏡で地平の彼方を監視していた兵士の目に赤い光点が見えた。かと思えばその数は見る間に増えていき、光点は判別不可能なほどに密集し、地平線に一本の赤いラインを作った。その光は空の雲さえも赤く染め上げた。見ようによっては日の出の地平線に見えなくもなかった。

 観測員はすぐさま通信機に呼びかける。


「こちらグラキエス第三観測塔。グラキエスの大群を目視で確認。その数計測不能。数が多すぎる」

『こ……本部……、了……。すぐさま…収……』


 雑音がひどい。グラキエスの生息域に発生する通信障害だ。観測員は発光信号によるモールス信号を後方の別の観測塔に送った。


「撤収、撤収!」


 観測員は荷物をまとめて急いで観測塔を駆け下りる。途中、いくつかの荷物がこぼれても、拾う余裕などなかった。

 第七観測塔ではグラキエスを目視したとの報告後すぐに連絡がつかなくなり、誰も帰還することはなかった。第三観測塔に詰めていた兵士達はすぐさまヘリコプターに乗り込み発進させる。

 まるでその瞬間を見計らっていたかのように、地面が割れてグラキエスが現れた。巨大な顎がヘリコプターにむかって容赦なく閉じた。もし捕まっていたら巨大な顎にヘリコプターの外装は紙のようにひしゃげて墜落していたに違いない。

 眼下に見える地面では次から次へと、グラキエスが地下から姿を現す。あと数秒遅かったら生きてはいられなかっただろう。

 兵士達全員、顔面蒼白になった。



 環あきらはロシア軍基地の司令室で腕を組んで立っていた。


「第三観測塔からの報告。グラキエスの群れを目視で確認。その数、測定不能。グラキエスで覆い尽くされて、大地が見えないとのことです」

「接敵までの予測時間〇〇一五です」

「残り一時間四十五分ってところか。各部隊の配置状況は?」

「第三、第四部隊は配置完了。第一、第二部隊もまもなく配置が完了するそうです」


 次々と入る報告にじっと耳を傾ける。本音を言うなら今すぐ最前線に向かいたいのだが、いまは待つべきだと理性では理解していた。そのいらだちは二の腕を叩く指に表れている。


「我慢我慢……」


 数々の作戦に従事してきたあきらだが、今回ほどじれた気持ちになったことはない。それもそのはずだ。今回の作戦の成否は基地にいるロシア軍兵士二千名以上、LC部隊四十名、避難してきた民間人百数十名の命がかかっているだけではなく、人類の、ひいては有機物生物の存亡がかかっている。

 ――きついなあ。

 内心の弱音を打ち消すように、頭の中では基地周辺の部隊の配置図を展開する。基地から5キロの地点に控えている第一部隊がグラキエスと遭遇し戦闘に入るまでおよそ四十五分、そこからできる限りグラキエスを退けて基地に寄せ付けない必要がある。第一が突破されても第二、第三、そして最終防衛ラインの第四がひかえている。

 が、そこが突破されて基地に侵入されればおしまいだ。


「フリーダムとの通信回復はまだ?」


 じれた感情を押し殺して問う。


「いぜん通信不……、いえ、フリーダムとの通信回復しました! 繋ぎます」

「こちらアドバンスLC部隊の環あきらです。現在、作戦行動を継続中。ロシア軍の協力により、部隊の配備を行っています。先のグラキエスとの戦闘により、兵器の損耗率20パーセント、兵士の損耗率8パーセント。LC部隊は負傷者五名、戦闘の継続は可能です」

『こちら波号部隊フリーダムの福田です。作戦ポイント到達予定時間〇一一八。偏西風のあおりを受け、若干の遅れが発生しています』


 あきらは窓の外に見える巨大な竜巻に目を向ける。あの巨大竜巻の正体は判明していないが、周囲の気象に多大な影響を与えているのは想像に難くない。


「あんなのがあっちゃねえ」


 作戦行動三分の遅れは致命的になりかねない。


「彼我の戦力差はいかんともしがたく、兵士も兵器も限りがあります。ええと、もう少し早くこれない?」


 後半はもう祈るように言う。


『状況把握しました。VTOL機部隊を先行させます』

「助かります。一秒でも早い貴隊の到着をお待ちしています」


 矢継ぎ早に通信が入る。


『環か? 越塚だ』

「越ちゃん? うちらの上司は見つかった?」

『ああ、八代さんもマモンも無事保護した。今から帰還する』


 越塚の通信はいつも通り簡潔だ。


「よかったあ。二人とも無事だったか」


 安堵のため息をつくがすぐに表情を引き締める。手元にはうずたかく積まれた紙の束があった。


4


 あきらが書類とにらめっこして難しい顔をしているのを見た萌は首をかしげた。


「そんな顔してどうしたの?」

「ああ、うん。ちょっとね、難しい任務を真治さんから言いつかってたの」

「大変なの?」

「大変かなあ。あたしにできるかなあ。でも今回の作戦の命運を左右するって言うしなあ」


 あきらは腕を組んで首をかしげている。


「あきらなら大丈夫だよ。どんな敵だってやっつけちゃうよ。僕も手伝うから」


 大きな図体でおろおろしながら、握りこぶしを作って必死にあきらを励まそうとしている。


「萌ちゃんはいい子だね。でも今回は強敵だよ」

「あきらと二人ならどんな強敵もへっちゃらだよ!」


 そう言っていた萌だが、いざ戦う相手を前にするとあきらの背中に隠れた。とはいえ、巨漢の大部分はほとんど隠れていなかったのだが。


「何か用か?」


 強敵――峰島由宇はロシア基地の一室でLAFIサードで何かプログラミングらしい作業をしていた。


「戦う相手ってこの人なの?」


 由宇に対して苦手意識があるようだ。


「戦う? なんのことだ?」


 そう言いながら由宇の雰囲気が変わる。外見こそまるで変わらないが、雰囲気ががらりと切り替わった。予想以上にけんかっ早い。


「ちょっとストップ! そこまで! 私の武器はこれです」


 あきらは丸めた書類を剣のように目の前にかざして見せ、怪訝な顔をしている由宇ににっこりと笑う。


「真治さ……伊達司令からの伝言。『この作戦の指揮はおまえがやれ』だとさ」


 書類の束はこれから行う対グラキエスの作戦書類だ。


「何を言っている?」

「あんたが指揮を執ったほうが作戦成功率が7・5パーセント上昇するって結果が出た、って話」


 由宇はこめかみを押さえて反論する。


「私は人に指示をしたり軍を動かしたりした経験はないぞ」

「たぶんそうだろうなとは思っていたけど」


 あきらも伊達の指示に首をかしげていた。しかしそれは素人に任すという無茶な指示への不平不満というより、純粋に不思議に思っている様子だった。


「たぶん伊達司令にも何か考えがあってのことだと思うから。それに今回の作戦の立案者はあんただって話じゃない? なら全体の進行を正確に把握できるのもあんただからじゃないかな。最大限のサポートはするよ」


 由宇は十秒ほど難しい顔をしていたが、


「このあとやることがある。二十分以内にこれだけ用意して欲しい」


 決断から行動までが異様に早い。キーボードでスケジュールをあっというまに書きあげたようだ。

 ――分刻みのスケジュールが来そうだな。

 と予感していたが、


「秒刻みで来たかあ……」


 端末に送られてきた表を見て、あきらは嘆息する。必要な人材から武器兵器機材までびっしり埋まっていた。それでいてギリギリ可能そうなのは、さすがというべきか。いややはり綱渡りなスケジュールだ。


「フリーダムから届く荷物のテストを行うので、終わったら呼んでくれ」

「テスト?」


 由宇が窓の外を指さす。窓から見えるのは基地の滑走路だ。そこから上空に光点が近づいてきた。それは航空機だと経験上すぐに察した。


「フリーダムから届く荷物ってあれ?」

「フリーダムの搭載VTOL機だ。中には遺産技術の武器が入っている。ロシア軍もLC部隊の隊員部隊も戦力を増強しなければ、グラキエスの侵攻を止めることはできないだろう」


 グラキエスの侵攻を止める。あきらにはいまだに実感が湧かない。本当にそんなことが可能なのだろうか。故に自分が指揮官では駄目なのだろう。

 いまこの基地にいる人間の中でグラキエスを止められると本気で思っているのは、目の前の少女だけに違いない。


5


 ――いた。

 アリシアが少女――峰島由宇に話しかけようとしたのはいくつかの思惑があった。まず第一に、少女の正体を知りたかったこと。おおよその見当はついているが確証には至っていない。

 彼女を初めて見たのは映像の中だった。海星がロシアの軍事基地を襲撃したとき、たった一人でそれを阻止した謎の人物として。その後、アリシアがわが目で見たのは、ADEMと海星がフォーツーポイントのサルベージ船の上で決戦を行ったときだ。どちらのときも何十機ものレプトネーターを軽くあしらい、常人ならざる身体能力を見せつけた。

 遺産技術で改造されたアドバンスLC部隊の一人。そう結論づけるのが妥当だが、何か引っかかる。説明しきれない部分に深い謎が隠されていそうだと感じていた。

 ――もしかしたら峰島勇次郎の……。

 荒唐無稽な説だが捨てることはできなかった。それにもし予想通りの人物であったなら、ADEM最大の秘密を知ることになる。

 少女は超音速で飛来したVTOL機のチェックをしていた。

 この殺伐とした基地と状況には不釣り合いな美しい少女だ。無骨な兵器類に囲まれて長い髪が風に揺らいでいる姿は不思議と絵になっており、軍のプロパガンダではないかとすら思わせる。

 この姿を入隊募集の広報に使えば、人手不足などあっというまに解消されるに違いない。

 少女がチェックをしているのは、つい先ほど到着したフリーダムの艦載VTOL機だ。


「開発コードはLEAF。DIAが超最新技術を駆使して作製したVTOL機よ」


 遺産技術を超最新技術という言葉で濁すアリシア。この遺産技術の航空制御は、航空機の運動能力を二世代は引き上げたとんでもない代物だ。


「知っている。フリーダムの艦載機だ。この前の戦いでは超音速タイプは使用していなかったようだが」


 この艦載機はフリーダムのVTOL機の中でも特別製だ。戦闘機としての運動能力は群を抜いている。頭一つどころか三つほど飛び抜けていた。


「DIAは密かに遺産技術を導入したのだろう」

「そ、そうなの? 峰島勇次郎の遺産技術にも似たようなものがあるのね」


 言い訳としては苦しいが体裁は大事だ。DIAとの連携を考えれば情報の漏洩は避けたかった。


「言っておくが峰島勇次郎の遺産技術ではないぞ」


 由宇がスイッチを入れると機体が起動し、垂直上昇を始めた。強い風にアリシアと由宇の髪が大きく揺れる。


「遺産技術でないってどういうこと?」


 答えてからアリシアはしまったと気づく。これは暗に峰島勇次郎の遺産技術だと認めてしまったことになるではないか。思いがけない返答はアリシアから情報を聞き出すための話術だったか。しかし相手はそのようなことをしているふうでもなかった。


「言葉の通りだよ。このVTOL機に積まれているアビオニクスは峰島勇次郎が作ったものではない。私が確立した技術だ」

「……あなたが?」

「懐かしい、というのもおかしいが昔作ったものだ。遺産と呼ばれる技術の何割かは私が関わっている。中には勇次郎がいっさい関わっていないものもある。総じて遺産技術と言われるのは、不正確かつ不適切かつ不愉快なのだが、訂正してまわるのも面倒なので誤解がとけることもないのだが。ともかく、このアビオニクスはそのうちの一つ。私が作ったものだ」


 確定だ。この少女は峰島勇次郎の娘、峰島由宇だ。いや、目の前の餌に食いつきすぎたか。もう少し慎重に話を進めよう。


「へえ、すごいのね。いったいいつ頃作ったの?」


 VTOL機の慣らし運転をしてるのか、ホバリング状態のまま、前後左右へと動かしていた。

 少女はモニターとVTOL機を見比べながら、アリシアに指を四本立てて見せる。


「四……四年前ってこと?」


 ありえない。四年前なら峰島由宇を自称する少女は十代前半だ。アジア人は若く見られることが多いので見た目より年齢がいっているというのはよくある話だが、目の前の少女はどんなに高く見積もっても十代だ。

 しかしそれでもギリギリありえるかもしれないという数字は出してきた。VTOL機がいつ頃製造されたか解らない以上、四年前は妥当な年月だろう。


「違う。四歳の時だ」

「よ、四歳?」


 妥当な年月どころではなかった。


「しかしこんな稚拙な方法で喜んでいたのか。私も未熟だった」


 古いおもちゃを懐かしむ表情をしていた。


「ち、稚拙?」


 言った言葉を繰り返すことしかできない。もはやオウムになった気分だ。

 確定だ。この娘は峰島由宇ではない。いくらなんでも、はったりが過ぎている。海星と戦っている姿は見たことがあるし、サルベージ船の上では一緒に戦ったこともある。だから戦闘能力も分析力も尋常ではない少女と知っているが、いくらなんでもはったりが雑すぎる。

 おそらく遺産技術で強化された人間。そして遺産技術を狙う犯罪者をおびき寄せるための解りやすい餌に違いない。

 ――だとしてもお粗末ね。もう少しもっともらしい嘘をつけばいいのに。

 そこに若さが表れたのかもしれない。ただ戦力としては頼もしい。頼もしいがグラキエス相手に一騎当千が一人か二人増えたところで絶望的な状況なのは変わりがなかった。


「そう。整備頑張ってね」


 ここで得られる情報はもう何もない。アリシアはその場を離れようと背を向けて何歩か歩き出したところで周囲の変化に気づいた。

 滑走路にいたロシア兵が空を指さしていた。何人ものロシア兵達が空を見上げて騒ぎ始めた。まさかグラキエスが来たのだろうか。

 アリシアは後ろを振り返り、空を見上げた。そして信じられないものを見た。

 VTOL機が飛んでいる。しかしその軌道はアリシアの知る航空機とはまるで違っていた。加速と旋回が速すぎて直角に見える。いや、そんな生やさしいものではない。ほとんど減速なしにジグザグに飛んでいた。機体の軌道は見たこともないほど複雑で、一見すれば制御を失ってデタラメにきりもみしているようにしか見えなかった。

 この動きを見たことがある。真偽の定かでないUFOの映像だ。たまに軍の観測機にも記録される未確認飛行物体が見せる物理法則を無視したとしか思えない動きだった。

 他のロシア兵と同じくアリシアも口をあんぐりと開けて見入るしかなかった。

 いままで搭載されていたものより二世代は引き上げたというアビオニクスの比ではない。完全に異次元の性能だ。


「まあ、こんなものか」


 ただ一人だけ、少女――峰島由宇だけは平然としていた。


「え、あ、ええ、フリーダムの特別仕様VTOL機はこんなこともできるのね」


 それだけ言うのが精一杯だった。

 由宇は眉根を寄せる。アリシアはまた自分が何か間違ったことを言ったらしいと悟った。


「何を言っている? 性能はフリーダムの汎用型艦載VTOL機レベルに制限してるぞ。一機だけこんな動きができたところで、なんの意味がある。艦載機全部がこの動きをする」


 由宇がキーを叩くと、VTOL機はさらなる飛躍を見せた。UFOの動きを超えた。それ以上は理解が追いつかない。


「この機のスペックならこれくらいは引き出せる」


 人知を超えたとしか思えないVTOL機は、何事もなかったように目の前に静かに着地した。



 あきらが由宇を呼びに来たのはその直後のことだった。


「戦車乗りと飛行機乗り、全員集めたよ」


 由宇は簡潔にうなずくと、そのままスタスタと歩き出す。


「ちょっと待って、場所は聞かなくていいの?」

「把握している」


 少女の足取りに迷いはない。


「待って。なんでアリーまでついてくるの?」

「ちょっと興味が湧いたのよ」


 言い返そうとしたがここでアリシアを追い返すほうが手間だと感じたあきらは、まあいいかとあっさり承諾した。

 ロシア兵とLC部隊の隊員併せて千名以上が規則正しく並んでいた。由宇は五階建ての建物の屋上から兵士達を見下ろしている。その隣であきらは彼女が何をしようとしているのか興味深く観察していた。

 兵士を集めた理由は解らないでもない。激励や演説を作戦前に行うのは極めて普通なことだ。ただ目の前の少女の行動としてはイメージにそぐわない。

 そしてもう一つ、おかしなところがある。


「こんな高いところに登ってなんのつもり?」


 隣でアリシアがいぶかしんでいる。それもそうだ。わざわざ建物の屋上から見下ろす理由などない。

 あきらも同じ気持ちだ。


「簡単なテストを行う。君達の運動能力を知りたい。指示通りにやってくれれば数分で終わる」


 それから由宇が出した指示はとても奇妙なものだった。


「まずはその場で数回、ジャンプしてくれ」


 集まった兵士達は戸惑うが、やがて言われた通りに行動し始める。

 屋上からからじっと見ていた由宇だったが、


「イゴール・パシケビッチ上等兵、スタニスラフ・ティムチェンコ三等兵、なぜ跳ばない?」


 指摘されたロシア兵はぎょっとした顔で、慌てて周囲にならって指示通りに動き出した。


「知っている兵士がいたの?」


 ざっと見たところ、指摘された人物以外はそこそこ真面目にやっているようだ。たまたま不真面目な人間だけを知っていたのか。


「まさか……全員のことを知ってる、とか?」


 あきらは自分で言いながらも、まさかという気持ちが強かった。


「セルゲイ・クリムキン兵、その足の怪我は戦える状態ではない。君のやるべきことは医務室で治療を受けることだ」


 指摘された何名かの兵士はやはり驚いた顔をしていた。


「なるほど健康状態のチェックだったのね」


 そう言うアリシアはしかし心のどこかで納得はしていないようだった。あきらも同意はしない。高いところに登ったのは全員の動きを見渡すため。確信を持てるのはこれくらいだ。


「次は回れ右を二回、二歩下がり、さらに回れ右を二回、二歩前に……」


 怪我や協調性を知りたいだけだったら、こんな奇妙な命令を出すだろうか。


「次は左手をあげる。真横に……」


 由宇の奇妙な指示は五分ほど続いた。健康状態のチェックでないことはあきらかだ。だからといって何を目的としているのかまでは解らない。


「なんていうか、こう言うのが適切かどうかわからないけど……、パーツを検品しているみたい」


 アリシアは自信なさそうに言ったが、その表現はあきらの胸にもすとんと落ちた。


「そう、それ。動作チェック! あたし達が新しい銃器手に取ったときやるみたいな!」


 二人は納得しかけたがしかしすぐにおたがいに首をかしげた。


「でもなんのために?」



 疑問の答えを知る機会はほぼ直後にきたといっていい。

 由宇はまず戦車乗りに車両に乗り込むように命じ、数十台の戦車を発進させる。作戦行動のポイントに移動させるのだが、その前に簡単な演習を行うことになった。

 一列に並んだ車両を見て、由宇は指示を飛ばす。


「33―1から33―5まで微速前進、12メートル直進後、速度そのままで右に二十二度旋回」

「ねえ、二十二度って、そんな細かい旋回指示無理だと思うよ」

「33―1の車両から120メートル先にある杉の木が照準に入ったら、二十二度だ。他の車両は33―1の移動を追随。次に……」


 由宇はおかまいなしにそんな調子で指示を出し続け、慌ててあきらが止めに入る。


「ちょ、ちょっと待って! 指示が細かすぎるしギリギリすぎる。一歩間違えれば、いや指示の反応が一秒遅れただけで事故に繋がる。もっと余裕を持たないと!」


 少女は頭がいい。これだけ物事が見えていれば、もっと成果を出したくなるだろう。そしてもっと無茶な指示、綱渡りのような一歩のミスも許されない指示をするようになる。しかしそんなものがうまくいかないことはあきらはよく解っていた。

 ここは経験者としてきっちりいさめなければならない。


「12―3、10メートル進み停車、12―5、砲撃」


 戦車は指示より2メートル先に進んでしまい、そのすぐ後ろを砲撃が飛んだ。


「ほら、言わんこっちゃない。いまは指示通りに停止できなかったからよかったけど、味方を撃つ大惨事になったよ」


 由宇の指示通りに動けない車両はあちこちにあった。むしろ指示通りに動けるほうが圧倒的に少ない。兵士の練度のせいだけではない。由宇の指示が細かすぎるせいもあった。


「ああ、また! ギリギリ! よく事故らなかったね……」


 由宇の細かすぎる指示に対処できない戦車隊だが、それでも致命的な事故は起こっていない。ミスが重なっても不思議なくらいうまく廻っていた。しかしそばで見ていたあきらは気が気でない。だがいくら注意をしても由宇の指示の手が緩むことはなかった。だが一緒に横で見ているアリシアはまた違う感情を抱いたようだ。


「待って、あきら。違う。ううん、ちょっと自信ないんだけど、あまりにも馬鹿げているから間違っていると思いたいんだけど……」

「そんな奥歯に物が挟まったみたいな言い方、らしくないよ」

「そうね。一回や二回なら偶然だけど、さっきからもう十回は指示と違う動きを見せても、事故にも繋がらず回っている」

「そうだね。運がよかった? ロシア兵が寸前にミスに気づいて修正してきた? それはないか。練度は高くないし、それだけじゃ説明がつかない……、え、あ……」


 あきらはアリシアが言おうとしていることに気づき絶句する。


「これはあくまでも仮説、もしかしての話なんだけど……、指示通りに動けないのを見越して、指示を出しているのではないかしら? 10メートル動けと言われて、すぐに行動できる兵士もいれば、数秒遅れる兵士もいる。前後数メートルずれることだってある。でももし、もしもそれがすべて予測済みなら……」

「ちょっと待って、待って。その結論はおかしい。絶対おかしい。じゃあなに? さっきの兵士集めて色々身体動かさせてたのって、どれだけ正確に動けるか把握するため? あの場に何人いたかわかってる? 千人以上だよ」

「そうね。車両すべて有機的に動かすだけでも不可能だと思う。そこに能力の個人差を見越して指示を出すなんて不可能……よね?」


 二人の驚きをよそに由宇は淡々と指示を出している。何十両もの戦車隊はまるで一つの生き物であるかのように動いていた。


「……気持ち悪い」


 アリシアは率直な感想を口にした。無骨な戦車がこれほど有機的に連動して動くなどありえない。

 ひときわ大きな砲撃の音がした。二十台以上の車両が様々な角度から一斉に撃った。それらは様々な軌道を描き、2キロメートル先の丘の上に数十センチの誤差もなく同時に着弾した。もしその地点にグラキエスがいたらひとたまりもなかっただろう。

 そんな練度はロシア軍にない。まして度重なる戦闘で整備も行き届いていない車両で行うなど不可能に等しい。

 いまの演習の成果は奇跡に等しかった。


「さすがに誤差が出る。まだ車両の個体差、個人の能力差を把握しきれていないな」


 しかし由宇は不満を口にした。


『防寒着が身体能力把握の妨げになったか? そのあたりのデータは俺のほうが正確に出せるだろう。一連のデータをつなげ戦略に結びつけるのはおまえがやったほうがいい。攻撃ヘリ二十二機、戦闘機十七機、自走砲五十二台、装甲車六十台。すべてに指示を出すのはどのような方法を考えている? まさか口頭のみでやるつもりか?』


 由宇が持っているノートパソコンのLAFIサードから人の声が聞こえる。あきらは何度かは聞いたことはあったが、通信の相手にしては奇妙な方法で不可解な点も多かった。


「風間か。突然話しかけるのはやめてくれ。おまえの指摘通り無理だ」


 初めて人間らしいことを聞いて、あきらもアリシアもどこかほっとした。


「さすがに数百台同時に指示を出すのは無理だよね」

「当たり前だ。そこでキーボードの入力から合成音声に変換して指示の効率化を図る。さらに強烈な原体験と身体の動きを連動するように脳のシナプスに植え付けた。パブロフの犬のようなものだと思ってくれればいい」

『人間の行動を半自動化させたか』

「そういえば……」


 由宇がやらせた演習は必要以上に密集させ砲撃のタイミングは常に紙一重、一歩間違えれば大惨事になるという代物だった。もしかしてそんな意味があったのか。


「危機的状況に陥ったとき、フラッシュバックで手足が攻撃行動、あるいは防御行動を取るようにしてある。これである程度は指示の空白時間が生じても行動できるようにした。応急処置の域を出ていないが、いまはこれで妥協するしかないだろう。ふう、世の中の指揮官というものはこんなハードなことをしているのか」


 あきらもアリシアもそんなわけあるかと言いたかったが、様々な意味で話が通じそうになかったのでやめた。



 由宇はスプレー缶を振って、ロシア兵の一人に吹きつけた。大勢の兵士が興味深そうに見ている。

 あれから戦車隊や航空機でも同じように、人間離れした指示を成功させた由宇はすでに兵士全員の心をつかんでいた。

 ――この少女はただ者ではない。

 その認識が基地内に伝播しつつあった。

 グラキエスはもちろんだが、遺産技術を使うあきら、スヴェトラーナといった面々が尋常でないことは承知していた。

 しかし目の前の少女――由宇はまるで違う。遺産がもたらす暴力的で威圧的な戦闘力ではない。彼女がやることには理性と知性を感じさせる。


「借りるぞ」


 由宇はそばにいる兵士から小銃を受け取ると、フルオートにセッティングし、スプレーをかけた兵士めがけてためらうことなく引き金をひいた。三十発の装弾数をわずか数秒で撃ち切ってしまう。

 全員が青ざめた。いま目の前で仲間が銃殺された。至近距離でフルオートを浴びれば、人の形も保っていないだろう。誰もがそう思った。

 しかし撃たれてのけぞった兵士はいっこうに倒れることもなければ、血を流すこともなかった。


「うわああああぁぁぁぁ!」


 甲高い悲鳴を上げているだけだ。しばらくして兵士は自分の身体のあちこちをさわり、無事であることに目を丸くした。


「Cランクの遺産、スプレー式の防弾防刃コートだ。服だけでなく窓ガラスに吹きかけるだけでも割れなくなる。限度はあるが、生身でグラキエスと対峙しても生き残れる可能性が飛躍的に伸びる」

「すごいけど、撃たれた兵士トラウマになるんじゃない?」


 あきらの心配ももっともだった。


「すげえ、俺もついに遺産技術で超人になれたのか!?」


 予想に反して撃たれた兵士は浮かれていた。


「人選は間違ってないつもりだ」


 こともなげに言う由宇はどこか得意げだ。

 次に由宇が取り出したのは、手の中に収まりそうな小さいプラスチックの塊に、ひもがついているだけの代物だった。


「ひもを引けば、グラキエスが嫌う周波数を鳴らす。一時的に怯ませることができる。人間の耳には聞こえないから、引いたのに壊れていて鳴らなかったと勘違いしないように」

「安っぽい防犯グッズにしか見えないんだけど」


 あきらやアリシアも受け取った装置をしげしげと見る。


「その認識は正しい。市販のもののサウンドデータを書き換えただけだ」


 よく見ればプラスチックの表面はエンボス加工で商品名が書いてあった。


「八代のらい……なんとか鳴? と似たようなものね」


 血のにじむ思いで習得した技と言っていたが、安っぽい防犯グッズで同じことができると知ったらどう思うだろう。


「ずっと鳴らすわけにはいかないの?」

「なれてしまう。いざというときに一瞬相手をひるませる程度だ。さて次は……」


 まるで深夜の通販番組のように、誇大広告としか思えない性能の遺産技術が次々と披露された。


6


 八代とマモンをぶら下げたヘリコプターはグラキエスの群れの上空を横断し、基地まで一直線に飛ぶ。隠れていた大地が見えて、その先には基地の姿があった。

 上空からグラキエスと基地の距離を見ていた八代は、頬がひりつく寒さも忘れつぶやく。


「こんなに近い……。もう一時間もしないうちにつくんじゃないか?」


 足下から恐怖がはいあがってくる感覚に襲われるのは、なにも不安定なロープにつかまっているせいだけではない。

 基地に近づくと、すでに大勢の兵士や兵器の姿が所狭しと移動していた。グラキエスを迎え撃つ準備だ。


「なに、あれ?」


 基地には破壊の跡があちこちに残っていた。建物の三分の一は破壊され、路面や滑走路もえぐられているか瓦礫が四散していて、使い物にならない状態だった。ひっくり返った戦車や装甲車の姿もある。基地として機能するのか怪しかった。


「僕達が最後に見たときはカッコ悪くてボロかったけど、もっとまともな基地だったよ」

「そうだね」


 マモンが背後に目をやると、遠くにグラキエスの一団が見える。まだ数十キロ先だが、基地に到着するまでさほど時間がないことくらいは彼女にも解った。


「このまま着陸しないで、逃げちゃったほうがいいんじゃないの?」

「岸田博士を置いてそれはできないよ」


 マモンには彼女がいなくなったあとの経緯を簡単に話してあった。


「博士を見つけて保護して、無事に日本に連れ帰る義務が僕達にはある」


 マモンは押し黙ったままだ。見ているのは遥か先のグラキエス群。確実に広がっている無機物生物の生息圏では、人間の生存にいっさいの容赦などない。


「みんな死ぬのかな」


 この状況をひっくり返せる手段などどこにもないように見える。


「大丈夫、じつは増援が来るんだ」

「初耳なんだけど。嘘言ってない?」

「僕の目を見てくれよ。嘘を言っている目に見えるかい?」


 出発前、伊達が元海星の兵士達を組織に入れる手段を画策していた。成功していれば、フリーダムでこちらに向かっている可能性もある。しかし万が一フリーダムがあっても、この状況がどうにかなるとは思えなかった。


「濁った目はもう見飽きたからいいよ」


 不安からか視線をそらす。気の強いマモンですら不安を抱いている。ならば決して士気が高いとはいえないロシア軍は逃亡兵も続出しているのではないか。

 ――基地はひどい有様になってそうだな。

 規律が保たれているかも怪しい。グラキエスに殺される前に、人間同士の争いで命を落とすかもしれない。

 ――それでも彼女なら。

 あの天才少女ならば、思いもよらない方法を思いつくかもしれない。事実、一度はグラキエスを退けたと聞いた。

 それでも八代は知っていた。峰島由宇とて万能ではない。

 この基地にいる数千人を守れるだろうか。なによりグラキエスをどうにかできるのだろうか。

 そこへ轟音とともに五機の戦闘機が編隊を組んでヘリコプターのそばをかすめるように飛んできた。


「な、なに?」


 大きく揺れるロープにつかまって、マモンは編隊を組んでいる戦闘機を見る。五機は機首を大きく上げて上昇し、そこから綺麗に四方へ分かれた。まるでアクロバティックな飛び方をする曲技飛行だ。


「ロシア軍ってこんなに操縦うまかったっけ?」

「自衛隊のブルーインパルスかアメリカ海軍のブルーエンジェルスもかくやだね。ロシアの曲技飛行チームが派遣されてきた? わけないよね」


 眼下に戦車隊の演習風景が見えるようになると、二人はますます困惑した。

 数台の戦車が横一列に並んで走っている。しかしそれぞれの車間距離は数十センチしかない。整備されていない平原でそんなことをしたら、あっというまに激突する。しかしそうはならなかった。

 それどころか旋回し砲撃までのタイミングは完璧で着弾は一ヶ所に綺麗に集まっている。どれほど練度を上げればこれほど見事な射撃ができるのか。


「いやいやいや、おかしいでしょう! どうなってるの?」


 基地の外では大勢の兵士達が動いている。その動きはいまにも脱走しそうな兵士達のそれではない。あきらかに士気は高く、活気に満ちている。少なくとも悲観している様子はなかった。


「まさかグラキエスの接近を知らせていない? ないか。もう見張り台から見える距離まで来てるはずだ。それに飛行機や戦車の動きの説明がつかない」


 マモンも八代と同じように困惑してばかりだ。


「おかしいよ。僕がこの基地を離れたのはたった数時間前だよ。雰囲気がぜんぜん違う。みんなダレてて、ヘリを盗むのだって楽勝だったんだから」


 ヘリコプターは基地に着陸するための下降を始める。

 下降途中で目についたものを見て、八代とマモンは何度目かの絶句をする。


「なんなの、あれ?」


 巨大な何かが基地にうずくまっている。高さ100メートル以上、長さ400メートル以上。体の外見的特徴からグラキエス、さらに言えばクルメンと呼ばれる種であることは解るのだが、いままで色々見てきたグラキエスの中でも、抜きん出て大きかった。

 それほど巨大なグラキエスが微動だにせずうずくまっている。おそらく死んでいる。いったいどうやってという疑問は、同時に一人の少女のことを思い浮かべる結果となる。

 ヘリが下降して地面に足がつくや否や、八代とマモンはハーネスを外して巨大グラキエスの残骸の前に立った。


「なにこれすごくない?」

「こんな巨大なグラキエスもいるのか」


 そして倒してしまうのか。


「そうね。あの娘はタバコ一本でこのグラキエスを倒してしまったわ」


 そう話しかけてきたのはアリシアだ。いつのまにか二人の後ろに腕を組んで立っていた。


「タバコ一本?」

「そう、信じられない話でしょうけど」


 マモンは親しそうに話す八代とアリシアを交互に見る。正確にはアリシアへは顔を見て胸を見てのトライアングルな視線移動だ。


「この人誰?」


 アリシアを見るマモンの声のトーンが普段より一段低かった。


「アメリカの偉い組織のそこそこ偉い役職の職員さんだよ」

「ちょっと運転手、説明適当すぎない?」

「僕のことを運転手って呼ぶのもそれなりに適当じゃないかな!?」

「アメリカのそこそこしか偉くない人がなんでこんなところにいるの?」


 マモンの顔も声もさらに刺々しくなった。


「そう、そうだよ。もしかして僕のことが心配で迎えに来てくれたのかい?」

「まあそうね。あなたを見捨てた負い目があるから、無事に戻ってきてくれてちょっとほっとしたわ。そういう意味では隣の勇敢な女の子に感謝ね」


 思いのほか素直な言葉がきたので八代は面食らってしまった。


「とはいえ、いまから三十分足らずで津波のようにグラキエスが押し寄せてくるから、助かったと言えるのか微妙なところかもしれないわね」

「三十分? やっぱりその程度しか残されてないのか……」

「そう、残された時間はあと少し。基地には数千人がいる。避難しようにもとうてい間に合わないし逃げる時間もない」


 ならばいまのこの基地の雰囲気はどういうことなのか。


「ロシア軍ってこんなに練度高かったっけ? グラキエスとの戦闘経験があるから他のロシア軍に比べればマシって程度だったと思うけど」

「さっきまでは間違いなくそうだったわ」


 アリシアは力なく笑う。


「さっきまでは?」

「たった一人の少女が、あっというまに、凡庸な軍隊を精鋭部隊に変えてしまったのよ」


 少女とは峰島由宇のことだろう。そこまでは想像がつく。しかしその先が解らない。


「その顔を見ると心当たりはあるけどよくわからないって雰囲気ね。口で説明するのは無理。自分の目で確かめなさい」

「そうするよ」

「ねえ、運転手、あの娘何者なの?」

「何者なんだろうね? って、アリシアさん?」


 アリシアは愛用のライフルを八代の前に突き出した。


「優秀なスナイパーは自分で手入れをするか、腕のいい職人にしか相棒をいじらせない。弘法筆を選ばずってことわざが日本にあるみたいだだけど、やっぱり熟練の技で整備された銃は違うものよ。あの娘は私から銃を奪うと、ものの一分で、いい? 一分かそこらよ! ほんの少しノートパソコンの側面で叩いて、ところであの喋るパソコンはなんなの? 高度なAIサポート機能? 不平不満を口にするサポート機能なんて聞いたことないけど。ともかく、少し叩いて調整して、それだけして私に返してきた。あとは私の顔をじっと見て、右手を取るとねじ曲げてきた。痛くて悲鳴を上げたわよ。ともかくそれでおしまい。彼女は銃をかまえてみろっていうの」


 アリシアは銃をかまえると、いまにも引き金を引きそうな形相でまくし立てる。


「銃の精度が見違えるように変わっていた。そしてトリガーを引く指が楽になり安定した! 丸二年厳しい訓練を積んだってここまで仕上げるのは無理! なのに一分、一分よ!」


 アリシアは髪をかきむしりそうな勢いで取り乱していた。


「じつは腕のいい職人なんだよ」

「腕のいい職人は僻地でふてくされている軍人達を瞬く間に精鋭に変えたりできない。まだ遺産技術でドーピングして軍人を強化しましたってほうが納得できる! 私はいままでいろんな才能ある人も見てきたし、遺産技術も見てきたから峰島勇次郎がどんな天才かもわかってるつもり。でもあの娘はぜんぜん違う! とんでもない技術力とかそういうのじゃない! すべてが別次元すぎて自分は下等生物になったんじゃないかって思えてくる」


 八代は解るよと言いたげに何度もうなずいた。由宇の優秀さは能力のある人間の劣等感を常に刺激してしまう。八代にとっては見慣れた光景であることも手伝って、


「まあ気落ちしないで」


 となれなれしく肩を叩いた。


「ところで運転手、あなたのあの技。ほら、なんて言ったかしら? グラキエスを退けることができるすごいやつ」


 てっきりはねのけられると思っていた手をアリシアが優しく握り返してくる。


「雷鳴……、なんとかかんとかだね。名前はわけあって言っちゃいけないんだ」


 雷鳴動は八代家の秘技だ。うっかり外部に漏らしたら肉親に殺されかねない。


「そう。習得するのも大変だったでしょうね」

「そりゃあもう。血のにじむような努力が必要だったよ」

「大変だったのね」


 アリシアはにっこり微笑みながら、握った八代の手のひらにプラスチックの小さな塊を置いた。塊には引っ張るための紐がついている。


「はい、あの娘が発明した誰でもグラキエスを追い払える音波発生装置。なんとびっくり、あなたが血のにじむような努力をして習得した技と同じ効果!」

「は?」

「ちなみにアメリカではスーパーに3ドルで売ってる代物よ」


 八代はしばらく呆然と手のひらの防犯ブザーを見つめていた。



「ま、まあ僕の雷鳴動より効果があるって決まったわけじゃないし……」

「技の名前、言っちゃってるわよ」


 上っ面の平静はあっさりと見抜かれた。


「でも八陣家も大変ね。門外不出の技や掟があって」

「ななな、なんのことかな?」


 動揺に動揺が重なって、そのうろたえぶりは哀れにさえ思えてくる。

 アリシアはマモンに含みのある視線を向けた。


「あなた、七つの大罪のマモンね。そして六道家の六道舞風。真目家の関係者。フォーツーポイントでの戦いを見ていたわ」

「なに、何か文句あるの? とっくに捨てた家だよ」


 マモンの返事には棘があった。


「別に他意はないわ。ちょっと確認したかっただけ」


 マモンはそれでも警戒の姿勢を崩さない。


「そしてあなたは八代一。同じく真目家の関係者」

「実家からは勘当されてるけどね。っていまさら改めて確認することかな。……何かあった?」


 八代はもうあきらめた様子で平静を取り戻した。そしてアリシアの様子がおかしいことに気づく。


「……クレールが死んだわ。真目不坐が介入してきたせいでね。だから真目家に関わりのある人を見るとついね、何か身構えちゃうのよ。ごめんなさい」


 そう言って笑うアリシアの表情はいつもより曇っている。


「クレールって誰?」

「真目家の女の子だよ。まだ十二歳だった。ちょっと特殊な子だったけど、死ぬには若すぎる」

「そうね。いい子だった、と言えるかどうかわからないけど……。せっかく母親とも会えて、これからだったはずなのに……」

「はん、真目家なんてそんなものでしょ。僕が才火と競べられて落伍者の烙印押されたのなんて、十歳のときだよ」


 しんみりするアリシアと八代とは対照的に吐き捨てるようにマモンが言う。


「あなただって小さいときからミネルヴァにかかわってたよね、ダブルエースさん。チアガールに憧れた無邪気な子供時代なんてあったの?」


 ダブルエースと名指しされ、アリシアの片眉がわずかに上がる。


「そんなに驚くこと? あなたが隠してることを僕が知ってたらおかしい? ミネルヴァと七つの大罪は同業者だろ。あれ? 商売敵かな。ま、どっちでもいいけど。真目家の子供が不坐のせいで一人死んだからって何? こんな商売してるあなたから僕が六道ってだけで身構えられるほどのこと? ああ、やだやだ、大人って。子供はみんな無垢で純粋で愛すべきものだとか言うんだ。真目家の子なら、どうせその子だって人殺しだろ!」

「ストップ、舞風君。君の言ってることもわかるけど、でも言い方ってものがあるだろう」

「出会いがしらに人の出自に土足で踏み込んできたのはそっちだ。僕じゃない。ましてミネルヴァの人間がただの善意で真目家の人間とかかわるもんか。思惑があったに決まってる。それを残念だとか可哀想だとか、ごまかしてさ!」


 触れられたくない六道の名前をいきなり出されたことがよほど気に障ったのか、マモンが饒舌になる。その様子は八代に、劣等感から自分を敵視していた頃のエキセントリックな姿を思い出させた。

 しかしマモンの言うことにも一理ある。アリシアがなんの思惑もなくこの地に闘真とクレールを連れてくるわけがない。そこに真目不坐がからんできたとなったら、身構えたくなるのはこちらも同じだ。

 八代も言葉を探しあぐねていると、意外にもアリシアが折れた。


「そうね。私が悪かったわ。ごめんなさい。あなたが言う通り、おためごかしはやめるわ。私も私の目的があってここに来たの。はっきり言えば私欲のために真目家の一員と手を組んで利用しようとしていた。それも認める。でも、グラキエスの出現はまったく想定外よ。グラキエスは遺産の一種だと思うけど、今回の私の目的に峰島勇次郎の遺産はまったく関係なかった。これは本当」

「はん、信じろっていうの? そんな舌先三寸を?」

「ストップストップ、二人とも内輪で争うのはやめよう。いまの敵は人間じゃなくてグラキエス。グラキエス事件は、遺産が引き起こしたパンデミックだよ。僕はADEMの人間だ。もちろん目的は遺産犯罪撲滅。生まれもなにも関係ない。僕は自分の意思でADEMにいる。いまこの地には共通の敵がいるんじゃないかな?」


 八代は後ろの巨大なグラキエスの残骸を指さし言う。


「ふん。僕はADEMに連れてこられただけだけどね」


 マモンは不機嫌そうにそっぽを向いてしまったが、アリシアは逆に何か考え込んでいる様子だった。


「遺産事件、そうね。これは遺産事件なんだけど……。真目不坐はなぜあんなことを命じたのかしら」


 アリシアがことの顛末を簡単に話している最中もマモンはそっぽを向いたままだ。


「遺産技術保持者を殺せって、命令が曖昧すぎない? いえ曖昧にするのが目的だった?」


 不坐はスヴェトラーナと接触するためにクレールや闘真を泳がせていた節がある。ならば本当の標的はスヴェトラーナだった。しかしクレールに母親を殺せと言うのは直接的すぎて拒否される可能性があった。だから遺産保持者と間接的な殺害命令を下したのではないか。

 この推論は当たっている気がする。問題はなぜ不坐はスヴェトラーナを殺害しようとしたのか。


「なにブツブツ言ってんの。ワンミニットさん」

「ワンミニットって誰の事?」

「この優男が3ドルブザーなら、あなたはワンミニット」

「ちょ、ちょっと二人とも」


 アリシアとマモンが言い合いを始めたのを、八代が止めようとし、あっさり無視される。その三人をたまたま通りかかって見つけたのはあきらだった。


「八代っち、まさか……」


 慌てて駆け寄ると、八代に耳打ちをする。


「もしかして修羅場なの? 二股はいけない。絶対駄目。わかった? それにしても守備範囲広すぎない?」

「君が何もわかってないのがわかった」

「はいこれ」


 あきらは資料の紙の束を八代に渡した。


「これ読めって?」

「違う違う。雑誌の代わり。腹に巻いときなさい。いつ包丁で刺されてもいいように。一回痛い目にあったほうがいいと思うけど、死なれちゃさすがにあたしも寝覚めが悪いから」

「これ機密書類に見えるんだけど」

「包丁がシュレッダー代わりになってくれるって」

「刺されるの前提なんだ」


 あきらがよく言えば前向きで悪く言えば脳天気な性格なのは理解していたが、それを差し引いても表情が明るく見えた。

 周囲を見る。基地を復旧させる作業が急ピッチに進んでいた。瓦礫の撤去、兵器や重火器の整備が行われ、何台もの戦闘車両が基地の外へ向かう。グラキエスが進軍してくる方角だ。


「それで撤退する準備は間に合いそうなの?」


 グラキエスを少しでも長く基地の外に押しとどめ、その間に撤退する作戦。八代の目にはそのように映っていた。それでも全員が避難するのは無理だろう。人を輸送できる航空機や車両の数が圧倒的に足りない。

 ――民間人は一番後回しにされかねない。なんとかしないと。

 一緒に逃げてきたロシアの人々のことを考えると、暗澹たる気持ちになる。ここまで必死に逃げてきたのに、まさかロシア軍に見捨てられるとは思ってもいなかっただろう。

 八代の問いにあきらは目を大きく見開いて言った。


「撤退? なに言ってるの?」

「なにって、ここには避難民もいる。負傷した兵士も大勢。基地は半壊。グラキエスは掃いて捨てるほどうじゃうじゃ来ている。見たところ、人の輸送手段が乏しいようだけど」

「そうだね。こちらに向かっているグラキエスの数は推定二千五百万」

「え? 二千五百万? 二千五百じゃなくて?」


 聞き間違いであって欲しい八代の願いとは裏腹に、


「その二千五百万を迎え撃つ!」


 あきらは自信満々に握りこぶしを突き出した。


「は? 迎え撃つ?」


 自信たっぷりの笑顔が逆に怖い。


「大丈夫だって! 必勝の策があるんだから!」

「そんな方法があるの?」

「ざっくり説明すると、ロシア軍とLC部隊でグラキエスを防いでいる間に、基地のまわりに塹壕を掘るって作戦」

「え、塹壕?」


 芽生えた希望があっというまにしぼんだ。


「塹壕知らないの? 防衛用の堀だよ。兵士が隠れながらガガガガガって銃を撃ったり撃たれたりするところだよ」

「さすがに塹壕くらいわかってるよ。あきら君は僕をなんだと思ってるの? じゃなくて塹壕でグラキエスを防ぐ?」

「そっ! 外人部隊にいたころにやったなあ。塹壕掘りって地味にきついんだよね」


 らちがあかないのであきらから渡された機密書類に目を通す。


「なんだこれ……」


 別の意味で正気を疑う作戦内容が記述してあった。


「長さ10キロ。深さ1キロメートルの塹壕で基地を取り囲む? これはもう塹壕って言わないよ! ほとんどグランドキャニオンじゃないか!」


 そんなものを短時間で作れるはずがない。荒唐無稽すぎて絵空事にしか感じない。正気ならばこんな作戦など考えない。しかし一人だけ、理知的な知性を持ち、この突拍子もない作戦を思いつく人物に心当たりがあった。


「まさか、彼女の立案?」


 あきらは笑顔で親指を立てた。

 ――由宇君が立てた計画……。

 その事実だけで希望の光が見えた気がした。頭がおかしいとしか思えないキロメートル単位の巨大な塹壕――と言っていいか疑問だが、この塹壕作戦も現実味を帯びてくる。


「いや、でも……」


 いくらなんでも時間がなさすぎる。そんな都合のいい遺産技術があってそれを持ってきたのだろうか。しかし作戦の書類をざっと見ただけでは、そんな記述はどこにもない。

 それ以外にも気になる点があった。使用される遺産の数はそれでも多い。いくつかは以前の条約だと使用の難しいものだった。なにより計画立案しているのが峰島由宇ということは、これらの遺産使用を決めたのは彼女ということになる。遺産技術の多用を避けていた彼女にどのような心境の変化があったのだろう。

 ――そうか。なにか吹っ切れたのかな。

 NCT研究所の地下で初めて由宇に会ったのはもう五年も前だ。そのとき八代は由宇の力になれなかった。そのときの後悔はいまなお心に残っている。

 だから由宇が素直に一歩前に踏み出したのだとしたら、素直に喜ばしかった。


「なにニヤニヤしてるの? 気持ち悪いよ」


 マモンが機嫌悪そうに、八代の足を蹴飛ばした。


7



「ところで肝心の由宇君はどこにいるの?」


 八代の疑問を聞いていたかのようなタイミングで建物の中から由宇が姿を現した。強烈なライトが背後から彼女を照らし、光の輪郭を作る。


「うわっ、なにあのヒーローみたいな登場の仕方」

「真治さんが視覚的効果も必要だって用意した」

「伊達さんが? なんのために? それにあんな目立つこと、嫌がったんじゃないの?」


 この中でいつもの伊達と由宇を一番よく知っている八代はいぶかしむ。しかし理由はすぐに解った。

 由宇が姿を現した途端、大勢の兵士が声援を送り拍手をする。口笛を吹き、駆け寄って握手を求める姿まであった。


「え、何が起こってるの?」

「見ればわかるでしょう。この基地ではあの子はもう英雄よ。誰も彼も彼女の魔法の言葉を待っている。本当にもう、魔法としかいいようがないわ。進んだ科学技術は魔法にしか見えないって言葉があるけど、あの子の言葉や行動はまさしく魔法そのもの。アメコミや映画の中にしかいないスーパーヒーローってわけ」


 アリシアもはやし立てるように口笛を吹いた。

 あきらはこの状況を伊達が用意したと言ったが、発案者は真目麻耶だろうと八代は思った。彼女は由宇を自由にしたいと言っていた。これはきっとその計画の一部に違いない。

 近づいてきた由宇は彼女らしからぬ戸惑った様子を見せていた。周囲から向けられる好意に、どのように対処をしていいのか解っていなかった。


「なぜ行く先々で拍手される? ロシアにそんな風習があるという文献は読んだことがない。やはり知識は経験をともなわないと駄目ということか」


 アリシアは両肩をすくめてみせる。


「いまいち本人にその自覚がないのは玉にきずなんだけど。完全無欠のヒーローってのも面白みに欠けるから、これはこれでいいのかもね」


 アリシアは由宇に近づき、軽く手を上げる。


「ねえ、そこのあなた。さっき話したときは名前を聞きそびれたんだけど……」

「峰島由宇だ」


 由宇はあっさりと名乗る。面食らったアリシアはしばし絶句した。


「峰島由宇って、峰島勇次郎の娘の?」

「ちょ、ちょっと待って。いまのなし! ちょっとこの子は虚言癖があるから」

「3ドルブザーはちょっと黙ってて。そう、やっぱりそうなのね」


 ただ自称であり、アリシアも推論でしかたどり着いていない。どこにも確証と呼べるものはなかった。しかしすべての歯車がかみ合ったかのように納得ができた。

 由宇は滑走路のほうにスタスタと歩いて行く。アリシアは慌てて追いかけた。


「質問は後にしてくれ。いまは時間がない」

「じゃあどうして私に正体を明かしたの?」

「協力を仰ぎたい。ならば私の正体を隠してはまどろっこしい。それにどうせ推論で正解にたどり着いていただろう」


 端的で無駄がなく理知的だ。取引相手として悪くない。

 由宇は滑走路の端に足を止めると、空を見上げた。つられるようにアリシアも八代も空を見上げる。


「ところで何をしているんだい?」

「次の荷物が届く」

「荷物?」

「あれだ」


 東の空に広がる雲の中で何かが光った。それは見る間に大きくなり飛行物体が接近しているのだと解る。


「戦闘機、にしちゃ速すぎる」


 いつのまにか滑走路にネットが何重にも設置されていた。

 飛行物体がさらに接近するとようやく航空機らしいシルエットが視認できる。滑走路に着陸態勢に入っているのも明らかだった。



 その飛行物体はマッハ10の超音速で飛来してきた。空気を切り裂き雲を突き抜け一秒に三キロ以上の距離を進み、一直線に目的地に向かう。

 飛行物体の正体はVTOL機で、その軌道がそのまま基地の滑走路を目指していると気づいた人々は驚いて伏せるか逃げ回った。

 その中で一人、滑走路の中央に立っている人間がいた。峰島由宇だ。彼女は飛来するVTOL機をじっと凝視していた。

 VTOL機は着陸寸前、急制動がかかり分解した。中から黒い箱が三つ現れて、マッハを超える速度で滑走路に落下していく。それぞれの黒い箱からパラシュートが開き、音速にブレーキがかかる。それでもなお音速を超えた三つの箱は、滑走路に墜落しそのまま転がると、何重にも張られていたネットを何枚も突き破った。四枚目のネットを突き破り、滑走路の上をすべる三つの黒い箱は、滑走路の途中に立っている片手にノートパソコンを持った小柄な少女の足の裏で受け止められて完全に停止した。


『時間通りだな。しかしそれほどギリギリの場所に立つ意味はあるのか?』


 ノートパソコン――風間の声にはやや非難の色が含まれている。


「すべて計画通りという側面をロシア兵に見せる必要がある。異常な事態に対抗するには、異常な行動しかない」


 滑走路から離れていた八代やロシア兵が、おそるおそる由宇に近づく。


「なんかすごく、はた迷惑いや、無茶苦茶な輸送方法だったけど……」

「風間もおまえも小言が多いな。時間は一秒でも惜しい状況なんだ。最速手段を選ぶのは当然だろう。荷物は無事に届いたぞ。呆けている時間が許されるほど、私達に時間は残されていない」


 よく通る声が滑走路に響き渡ると、兵士達は雷に打たれたように己のやるべきことを思い出し、各自の持ち場に戻った。

 車両や航空機が使えるように瓦礫を撤去し、武器の装備、整備がテキパキと行われる。

 マモンは興味深そうに黒い箱をのぞき見た。それだけ急いで運ばなければならない荷物の中身が気になっている。


「こんな方法で運んで、中のモノは頑丈なの?」

「損傷率、一割といったところか。マッハ10の超音速無人VTOL機。フリーダムから荷物を届けるのはこれが一番早い。作戦の要となるモノを優先的に届けさせている」


 ようやく落ち着いた八代は箱を持ち上げようとしたが、微動だにせずよろけてしまった。


「うっわ、なさけなっ!」


 その様子をマモンが手を叩いて面白がる。


「いや無理だから。これいったい何キロあるんだよ?」

「コンテナ一つあたり240キロ超。コンテナの中には60キロ超のケースが四つ入っている。そのための人材も呼んである」


 腕自慢で現れたのは巨漢の二人だ。


「力仕事なら任せてくれよ」


 リバースは腕を振り回し、顔を真っ赤にして持ち上げると、そばにあったカートに乗せた。


「うお、重い上に熱いぞ」

「摩擦熱だ。死ぬほどじゃない」


 由宇は容赦なく運べという。


「これ運ぶの使命」


 もう一人の巨漢、萌は両手に一つずつ鉄の塊を持ち上げた。その膂力に腕っ節には自信のあったリバースが目を見開く。


「あんた、すげえな」


 三つのコンテナ、計720キロ超、軽自動車並みの重量が積載されカートは今にも潰れそうだ。八代はカートを押そうと試みて、一声うなるだけでやめた。一ミリも動いていない。


「あきらめるの早くない?」

「時間が惜しいんだ。僕より適任がいるなら潔く任せるさ」

「うわあかっこわるう。……で中に何が入ってるの?」


 由宇が箱を開けると黒い霧が立ち上った。


「うわっ!」


 興味深くのぞき込んでいたマモンが尻餅をつく。

 霧は四方に薄れながら広がり、やがて完全に見えなくなった。


「なんだよ、脅かしやがって」


 マモンは目の前の空間を拳を振ってつかんだ。指先で羽虫のようなものをつまんでいた。


「これってミツバチ?」


 小さな球体に四枚の羽根がついた羽虫のようなロボットは、環境の調査や維持に使われるEランクの遺産技術だ。


「どうしてこんなものを使うの? こんなところで受粉や採取やるつもり?」


 ミツバチはその名の通り、管理された環境下で植物の受粉を行ったり、樹液の採取や検査を行う。かつてスフィアラボでも使われていたオープンな遺産技術だ。


「数が必要だった。地上に二十万、地下には三十万。それだけの数をADEMは持ち合わせていない。公開されて民間で生産されている遺産技術が好都合だった」


 それだけの数のミツバチをいったい何に使用するのか。


「グラキエスの生息域は通信障害が起こる。その対策だ。地上二十万のミツバチは基地周辺の半径20キロ圏内に、安定した通信の中継網を構築する」


 周囲をよく見てもミツバチがいるかどうかほとんど解らなかった。


『ミツバチの分布が不均一のところがある。電波障害が強くなれば輻輳を起こす可能性があるぞ』


 突然風間が口をはさんできたので、その場にいた皆が戸惑う。


「シベリアの強風下では完璧な動作は見込めないか」

『しかし動作スペックは満たしている。地下では想定通りの結果を出すだろう』

「フリーダムと日本が通信可能になるまで、あとどれくらいかかる?」

『上空にミツバチの通信網を広げれば、グラキエスの妨害の範囲外だ。あと三分待て』

「通信が可能になったら、日本とフリーダムにつなげ。今後の作戦会議をしたい」

「会議はいいけど、ここはちょっと会議に向いてないんじゃないかな?」


 八代が周囲を見渡す。由宇達はいまだ滑走路上にいて、多くのロシア兵の関心を引いている状態だ。

 通信回線が開くまでの時間、由宇は場所を建物の一室に移動した。由宇と一緒に八代とマモン、さらにアリシアとリバースもいる。あきら達は作戦行動の所定位置に向かっていった。

 主要メンバーが集まったところで通信網が確立したことを風間が告げた。


『無事に繋がったか』


 伊達の声がした。続いて福田の声が入る。


『フリーダムはあと三十分で到着します。予定より遅れて申し訳ありません』


 フリーダムとの通信も繋がった。


「岸田博士のことは申し訳ありませんでした」


 八代は深々と頭を下げた。


『弁明はあとで受ける。いまは目の前の問題に集中しろ』


 八代はかすれた声ではいとだけ答える。気楽な口調で生きてるよと背中を叩くマモンに、曖昧な笑みを返すのが精一杯だった。


「話を始める前に一つ尋ねたい。なぜ私に作戦の指揮を任せた?」

『俺がおまえのどこが一番信用できなかったか解るか? 遺産技術の使用の制限を自らに課していたからだ。本気を出さない人間を俺は信用しない。それともう一つ、この作戦は精密機械のような行動を要求される。おまえ以外に誰がそんなことをできる』


 由宇は不機嫌な顔をしたがそれも数秒のことだ。


『風間、ブレインプロテクトの解除コードだ』

『わかった。EZ7GG9RRQM864……』


 風間が二十桁以上の英数字を口にすると、ほとんどの人間が一瞬、頭痛を覚えて頭を抱えた。


『解除コードだと? なんだこの頭痛は?』

「ここにいるほとんどの人間はブレインプロテクトで機密事項の発言に不自由が生じる。そんな状況で一秒を争う作戦会議ができると思うか?」

『解除コードがあるなんて知らなかったぞ!』

「当然だろう。教えていないのだから。もう一つ言い忘れていたが、ここにはアルファベット……元か? のメンバーもいる。アリシアとリバースだ。彼らの戦力も必要だ」


 通信機越しに伊達の深いため息が聞こえてきた。本気を出さない人間は信用しないと言ったばかりだが峰島由宇の本気は底が知れなさすぎる。


「文句は帰ったらいくらでも聞いてやる。いまは今後の作戦会議だ」

「基地のまわりに大きな塹壕を作る作戦のことだよね? 根本的な疑問なんだけど、本当に可能なのかい?」


 八代の問いにあっさりと首を縦に振る由宇。


「VTOL機のアビオニクスをバージョンアップする。自動操縦のAI、慣性航法、通信システム、いたるところに手を入れた。グラキエス相手に以前より最適な行動を行うはずだ。ただしVTOL機のメンテナンスや兵装の整備はフリーダム内でやってもらうことになる。万が一のミスも許されない」

『入念にチェックを行っています』


 福田の声は緊張していた。続いて蓮杖がいることや真目家から怜が同乗していることも伝える。


「福田さん元気? 僕もいるよ。福田さんもADEMの悪辣な書類にサインさせられたの? 狭苦しいフリーダムが懐かしいよ。ここは寒すぎてさ」


 マモンが海星にいたとき、福田は直接会話をしたことがある数少ない人物だった。


『いまは重要な打ち合わせ中です。生き残らなければ狭いも寒いもありません』


 そっけなく答える福田にマモンは不満そうにしたが、


『つもる話はすべて終えたらいたしましょう』


 その一言で笑顔になった。


「次にロシア軍」


 由宇は淡々と話を進めていく。


『全部隊、通信状態良好』


 百以上の通信が発生するロシア軍は風間を介した管理によって円滑に行えた。


『こちらLC部隊隊長環あきら。所定位置にて待機中、準備は万全、あとは号令を待つだけです』


 あきらの声音はいつも明るい。いまのように真面目な報告をしているときでさえ、どこか状況を楽しんでいるかのようだ。

 そんな中、アリシアは一つ気になることがあった。隣に立っている八代の表情が徐々に曇っていくことだ。


「運転手、どうしたの?」

「……伊達司令、僕は峰島由宇に一任するのは反対です」


 話しかけられたことで踏ん切りがついたのか、八代は強い口調で言った。


『八代っちは見てないからわからないかもしれないけど、全軍を同時に完璧に動かしてたよ。ゲーム大会に出れば圧倒的勝利で優勝間違いなし』

「逆だよ。完璧だからこそ僕は反対なんだ」

『どういうこと?』


 八代は横にいる由宇を見て答える。


「グラキエス相手にどんなに完璧に軍を運用したところで、絶対に犠牲は出る。どこかで何かを切り捨てなくちゃいけないときがくる。チェスや将棋で一つの駒も犠牲にしないで勝つなんてできない。いや、駒じゃない、人間の兵士を犠牲にする瞬間が絶対にある。個を犠牲にして有利に進めるチェスでいうところのギャンビットが発生することだってある。人の生死すべてを彼女が背負うことになる。だから僕は反対です」

「私は!」


 異を唱えようとする由宇を手で制す。


「悪いね。こればかりは譲れないよ。君のためじゃない。自分の命令で誰かが死んで平静でいられるかい? 無理だよ。平静を失うに決まってる。判断に狂いが生じる。それはほんのわずかかもしれないけど、わずかに生じた狂いはさらに大きな狂いにつながり、やがては取り返しのつかないことになる。そして君が駄目になったら作戦は根元から崩れてしまう。危うい、いや失敗すると解っている作戦を僕は承諾できない。犠牲は多くとも、作戦が継続できる可能性の残っているほうを選びたい」

『八代、おまえの言い分はわかった。ではどうする?』

「すみません。開始直前に口を出してしまい。通常なら僕が陣頭指揮、蓮杖と環の二名に補佐としてついてもらうのですが、状況を把握していないので指揮系統から僕を外してください。蓮杖を陣頭指揮、環と越塚を補佐にするのがベストかと」

「犠牲の多い手段を承認できるか。だいたいギャンビットは序盤で行う戦術だ。八代、おまえの指摘は不適切だ」


 由宇は珍しく感情的にくってかかった。

 あきらは内心、最初しぶっていたではないかと由宇に言いたかったが、人間離れした指揮を見たあとだけに、とても人間らしい反応は安堵と微笑ましさを感じる。


「ギャンビットはあくまでたとえだから。確かに犠牲は多く出るだろうね。全滅の可能性だってある。でもアドバンスLC部隊のメンバーは、自分の指示で死者が出ても取り乱さない。作戦を最後まで遂行できる。生死を背負う覚悟には大きな差があるんだ」

「生死ならもう十年前に背負っている」


 顔を背けた声はか細かった。


「背負っても変わらない判断力が必要になる。歯を食いしばるだけじゃ駄目なんだよ。君は五年前、遺産で危険になったネズミさえ殺せなかったじゃないか。あの時ネズミを撃ったのは誰だい?」

「あの時のことをここで持ち出すのか? 卑怯だぞ!」

「卑怯者でけっこう。これが僕の仕事だよ」


 由宇と八代がしばしにらみ合う。


『はい、はーい。いま決めました。LC部隊は遊軍となります。あたしの気分と判断でLC部隊を動かします』

「気分で動かされては困るなあ」


 あきらが場の空気を変えようとして言ったのは解っていた。


「そういうことなら私も自由にさせてもらうわ。細かく指示されるのなんて性に合わないもの」


 アリシアがあきらに続いた。


『伊達司令、提案があります』


 それまで黙って聞いていた蓮杖が発言する。


『彼女にはやはり指揮系統をやってもらいます。ただし前半だけです』

『ふむ、それで?』


 伊達が次を促した。


『その間、私が彼女のやり方を学習し模倣します。この作戦で犠牲が出るのは終盤です。そこは私が担いましょう』

「え、でもいくら隊長でも、あんな曲芸じみた指揮、模倣できます?」


 あきらは素直に疑問をぶつける。


『俺にはコーザリティゴーグルがある』


 コーザリティゴーグルを使うというのは悪くない着想だった。由宇の分析能力を技術化した遺産と言える代物だからだ。

 因果律の名を冠するゴーグルは空気や熱の流動などあらゆる要因を計測し、そこから過去の出来事を導き出す過去視と呼ばれる機能がある。しかしロストランクというランク付けなしの不良品の烙印を押されていた。過去の予測が多岐にわたりすぎていて、使い物にならないのである。

 それを実用レベルにもっていけるのは蓮杖の経験則があってこそだった。


「過去視では私の模倣はできないぞ」

『未来視の機能を使う』


 コーザリティゴーグルのもう一つの機能、計測データからこの先起こることを予測する未来視の話を持ち出す。しかしそちらは過去視以上に使い物にならない代物だった。計測データから一秒先の未来を予測する計算に十秒近くかかる。まったくの役立たずだ。


『状況をグラキエス戦に絞ることにより、余分な情報をはぶく。グラキエスの行動原理はシンプルだ。兵士も指示以外の行動はしないという前提で行う。ここまで限定すれば五秒先の未来くらいは割り出せるはずだ』


 由宇は数秒の思案ののち、納得したのかうなずいた。


「私のやり方がどれだけ参考になるか解らないが、後半の指揮は任せよう。ただし初期の布陣、役割の分担は私に任せてもらいたい」

『いい落としどころだな。八代、よく指摘してくれた。皆、その手順で作戦を遂行してくれ』


 伊達が最終的な決定を下し、由宇は作戦の説明を再開した。


「憎まれ役ご苦労様」

「なんのことかな?」


 アリシアが小声で話しかけると、八代はおどけたように肩をすくめた。


8


 作戦の打ち合わせは最終的な詰めに入った。


「そしてこの作戦の要である地下空洞の構造調査、および行方不明になった岸田博士の捜索だ。作戦上必要不可欠な地下空洞の調査が岸田博士の探索に結びつくため、ほとんどリソースを割かずにできるというメリットがある」


 だから捜索をしても問題はないと言外に匂わせていた。


「地下空洞の調査は少数で行う。理由は二つ、一つは地下のグラキエスは地上のグラキエスに比べると性質はおとなしいため、戦力を割く必要が薄い。地下グラキエスは身体を構成する珪素の補充に地下の鉱物を利用している。有機物生物で言えば草食生物に近い立場だろう」

「その理屈だと地上のグラキエスは他のグラキエスを狩り珪素を補充する肉食生物ということになるけど、その推測って正しい? 僕と岸田博士は地下でグラキエスに襲われたよ」


 異を唱えたのは八代だ。地下空洞に行ったときのことを思い出すと必ずしも由宇の推測は正しいとは言えないのではないか。答えは単純明快だった。


「イワン・イヴァノフと一緒だったのだろう。ならば警戒を呼びかける音波を使ったと推測する。それに草食動物がおとなしいとは限らない。カバなどがいい例だ」

「やっぱり危険なんじゃん……」


 マモンが小さくつっこむ。


「地上のグラキエスに比べれば安全というだけの話だ。だから大人数で向かえば警戒心を高め、いらない争いを生む可能性がある。これが二つ目の理由だ。したがって少数なおかつ万が一のために戦える人間でなくてはならない。構造調査は私がいなければ不可能だ。他に数名、いざというときグラキエスに対抗できる、そして見つけた岸田博士を助けにいける人材が欲しい」

「これはもう迷うまでもないでしょう」


 八代が手を上げる。


「岸田博士を守れなかった。このままでは引き下がれないよ。それに僕にはグラキエスを退ける手段があるからね」

「3ドルブザー」


 アリシアが意地悪く笑う。八代は聞こえないふりをして無視を決め込んだ。


「私の地下での作業は解析に指揮にと忙しい。あと一人は、グラキエスに対抗できる戦力になる人間が必要だ。大きな戦力を持ちつつも指揮系統に組み込みにくく、扱いに困る人間がちょうどいい」


 そう言って由宇は八代の陰に隠れているマモンを指差した。



「いーやーだー!」


 歯医者に連れて行かれるのを嫌がる子供のように暴れるマモンを、由宇は無遠慮にずるずると引きずっていった。


「なんで僕なんだよ! もっと適任者がいるでしょ!」

「グラキエスとの戦闘経験があり、なおかつ部隊にいなくてはならない人物ではないこと。簡単に言えば暇人だ。その条件を満たすのは君しかいない」

「だからその言い方!」


 マモンは闇雲に暴れるが由宇は軽くいなして、巧みに目的地へと進む。うしろからついていく八代は、その手際の良さに感心していた。似たような状況でマモンを引きずらなければならないことがあるかもしれないと思い、由宇のいなし方をじっくりと観察する。

 三人が向かうのは基地の地下に広がる巨大空洞だ。

 グラキエスが巣くう地下空洞に向かう道は一つしかなかった。イワンが研究所として使っていた建物にあるエレベーターだ。

 つい数日前、八代と岸田博士がイワンに連れられて降りたエレベーターだ。マモンもエレベーターから降りないまでも、ここから地下に降りる由宇を見送ったことがある。

 そしていま地下に向かおうと足を建物の奥へと進めたが、意外なものが立ち塞がった。

 イワンが秘密裏に活動していた建物の地下に降りる階段は、LC部隊の手によって完全に塞がれていた。八代や岸田博士が乗ったエレベーターシャフトも同様だ。


「そういえばあきら君、グラキエスの侵入を防ぐために、速乾性のコンクリートで塞いだって言ってたね」

「なんだ。それじゃ地下に行けないじゃない。残念だな。やっとやる気になってたのに」


 マモンの態度が見事なまでに一変する。

 由宇は無言のまま、目の前のコンクリートの塊に、小型のスティックのような機械を押しつけた。そのままスイッチを入れると、完全に固まって見えた速乾性コンクリートは簡単に溶けて液体になり、あっというまに階下に流れて消えてしまった。


「え、いまのなに? 霧斬、じゃないよね?」


 用事を思い出したと言って逃げ出そうとするマモンを素早く捕まえる由宇に、八代は問いかけた。


「そもそもこれを速乾性のコンクリートと思っているのが間違いだ。液体と固体の両方の特性を併せ持っている物質で、Eランクの遺産技術だ」

「粘土みたいなもの? コロイドかなんか?」


 もはや逃げることを観念して涙目になっているマモンは、少しでも気をまぎらわせようと問いかけた。あるいは隙をうかがっていた。


「惜しいな。しかしコロイドとは違う。コロイドは大雑把に説明すると液体と固体が混じったものだ。これは液体であり固体。両方の性質を併せ持っている。名称は……まだ考えてなかったな。流動特性固体とでも言うべきか」


 由宇はたったいま押しつけた手の中の小さなスティックを振る。先端に電極のようなものがあり、見ようによってはスタンガンに見えなくもない。


「一方こちらのスティックは遺産技術でもなんでもない。一定の電圧のパターンを流す機能しかない。流動特性固体は電圧のパターンで固体と液体の性質を切り替える。そうだな。形状記憶合金のようなものだ」

「それにしても綺麗に流れていくね」


 八代はくぼんだ場所以外、液体化した流動特性固体が完全に流れたことに気づいていた。


「粘度はアンモニアと同程度で水の十分の一しかない」


 由宇は解説しながらエレベーターの中にマモンを放り投げて、自分も乗り込む。八代もあとに続いて中に入った。


「待って、僕は降りる!」


 往生際悪く逃げようとしたマモンは、突然現れた荷物にぶつかって阻まれた。


「ここでいい?」


 萌が先ほどミサイルで届いた遺産の箱をカートで運んできた。何十キロもあるケースが十個近く積まれて、重さ600キロを超える大荷物になっていた。マモンがぶつかった程度ではびくともしない。

 マモンが腹を打ってもだえている間にエレベーターのドアは閉まり、由宇と八代とマモン、ミツバチの入った箱を乗せたエレベーターは下降を始めた。


「地下にはうじゃうじゃグラキエスがいるんだよ。もうやだ。なんか対策あるんだよね?」

「もちろん対策は用意してるが、成功するかどうかは神のみぞ知ると言ったところか」

「はは、またまた。由宇君らしくもない」

「神のみぞ知るって神様なんか信じてないくせに。ああもう、僕、なんか悪いことした?」


 エレベーターシャフトのガラス越しに見える外の景色を見て、マモンは恨めしそうな声を出す。

 暗闇の奥に目をこらすと、赤い光のようなものが見えるときがある。グラキエスの発光色だ。


「検証データが少ないのだからしかたない。相手は不明な部分も多いグラキエスだ。どのような反応を引き起こすか未知数の部分も多い」


 まばらにしか見えなかった赤い光の数は、降りるにつれて増えていく。いつのまにか赤い光が見えないところはなくなり、やがて一面埋め尽くしかねない勢いで爆発的に増えていった。


「しかしどのような状況でも私達はやり遂げないとならない。作戦のためのデータを集め、岸田博士も見つける」

「ありがとう」


 八代は神妙な顔で礼を言った。


「何がだ?」

「僕達に名誉挽回のチャンスを与えてくれて。何があっても絶対に守らなくちゃならなかったのに」

「礼を言われる筋合いはない。私も何もせず、NCT研究所の地下に引きこもっていた」

「だよね。偉そうな態度とってるけど、肝心なときに引きこもってたじゃないか。バーカバーカ! とんだとばっちりだよ!」


 マモンがここぞとばかりに責め立てた。


「そう言われると立つ瀬がないな。私としてはADEMの中で、あらゆる状況に対処できる人材としておまえを推挙したつもりだったのだが、重荷になってしまったか。すまなかった」

「ふん、ふんっ! 重荷になってるわけないだろ! こんな任務お茶の子さいさいのへのかっぱ、泣きっ面に蜂なんだからね! グラキエスがなんぼのもんだよ!」

「そうか。なら地下空洞の調査、任せても心配なさそうだな」


 マモンは恨めしそうにうなっていたが、


「絶対吠え面かかせてやる!」


 と指先を突きつけた。


「ところで由宇君、一つ聞きたいんだけど聞いていいかな? デリケートな問題だから聞きにくいけど思い切って聞くね。闘真君と何があったの? 挨拶しなくていいの? 会ったとき無視してたって、アリシアからもあきら君からも聞いたんだけどケンカした?」


 ためらってるようで全力で聞いてくる八代の姿勢に、マモンは若干引いていた。


「うわぁ……結局ずけずけ聞いてるし。でもとうまって誰? どこかで聞いたことあるような……」


 マモンは首をひねってすぐに思い出した。


「ああ、そうそう、思い出した! こっちに来てからちょっとだけリーディングしたよね。そのとき闘真って人を次に会ったとき殺さなきゃって思い込んでた。うわあ、ぶっそう! 怖っ! マジで怖っ!」


 いままで平静に見えていた由宇だが、初めて気分を害した表情を見せた。


「事情がある。あいつの力は危険なものだ。世界を壊しかねない。なのにロシアで考えなしに使い続けて……」


 このことについては話しかけるなと不機嫌な表情を隠しもせず、由宇は顔を背けた。


「とりあえず殺してみたらいいんじゃない?」


 マモンはあっけらかんと言ってみせる。


「そいつ、おとなしく殺されるような相手じゃないんでしょ? 殺されるのはあなたのほうかもよ?」


 由宇は目を見開いたまま、まじまじとマモンを見返していた。


「なにその鳩が豆鉄砲を食ったような顔は。とりあえず殺してみようよ。なんとかなるかもしれないよ。あっ、言っておくけどこれ経験談だからね。テキトー言ってるわけじゃないからね」


 マモンは八代をぞんざいに指さし、


「僕が殺そうと思った相手」


 とこれまたあっけらかんと言う。


「聞いてよ。ひどいんだよ。殺そうと思ったのにこいつに騙しうちで殺されかけて、今度こそ殺してやろうって思ったけどなかなか死んでくれなくて、結局また殺されかけた挙句に拉致監禁されて、二週間密室で、さんざんおもちゃにされてもてあそばれたんだけど」

「まって、最後のあたりものすごく語弊がある言い方……」


 八代は慌てて弁明しようとするが、


「チェスの恨み、忘れてないから」


 マモンの冷たい眼差しに黙らされてしまう。


「とにかくごちゃごちゃ考えすぎだよ。頭の中でウダウダやってるだけじゃ何も変わらないよ。相手のあることなんだから、何もかもあなたの思い通りにはいかないんじゃないの? なんとかなるよ。ほら、僕だって、殺し殺されを繰り返して、人権剥奪された上に、6000メートル上空から身一つでダイブさせられて……? あれ? なるようになってないっ! もしかして騙されてるっ!」


 ぎゃあぎゃあわめくマモンはやがて一つの結論に落ち着いた。


「やっぱり殺していいかな、こいつ」

『殺していいと思うぞ』


 ずっと静観していた風間が絶妙のタイミングで口を挟んだ。


「待って、ちょっと落ち着こう? 風間さんもなんでサラっと同意してるの?」


 ナイフ片手に迫るマモンから逃げるように後ずさりする八代の背後で、ちょうどいいタイミングで最下層にたどり着いたエレベーターのドアが開く。八代はそのままよろけてつまずいてひっくり返ってしまう。

 そのあまりにも情けない八代の姿に、マモンのやる気はそがれてしまった。


9



「旧ツァーリ研究局に、荷物が無事届いたようです」


 オペレーターの報告に、フリーダムの司令室にいる福田はほっとした表情をした。


「まずは第一段階突破、と言ったところでしょうか。しかしあんな無茶な運搬方法がよく成功するものだ」


 感心と呆れを半々に織り交ぜて、嘆息する。


「あの少女と接していたら、このようなことは日常茶飯事ですよ」


 隣にいた怜は柔らかく、どこか親しみを感じさせる笑い方をした。冷たい麗人の印象を抱いていた福田は、こういう笑い方もできるのかと半ば驚いていたが表に出すことはなかった。へたに指摘して、おそらく貴重に違いない怜の表情を引っ込めさせるのはもったいない。


「慣れるしかなさそうですね」

「私も何度か彼女の偉業を目の当たりにしましたが、慣れることはないですね。毎回驚かされます」

「なるほど……。では驚くことに慣れますか」

「それが賢明でしょう」


 この共感こそが怜の表情を和らげたのだろう。


「さてと談笑している場合ではないですね。格納庫、艦載機の準備はできているか?」


 後半はオペレーターに向けて投げかけた言葉だ。


「作業の78パーセント、三十七機に取り付け完了しています。作戦実行時間までに意地でも間に合わせるとのことです」

「頼むぞ。これがもう一つの作戦の要。在日米軍と近隣の国の米軍すべてからかき集めたバンカーバスター四十七発。不発は許されない」

「うちの整備士を信用してください。世界中のどこにいっても引けを取らない自信があります」


 フリーダムは長時間飛行する運営方法が求められているため、整備に関しては常に入念に行われていた。これは元海星が自負するスキルの一つだ。


「しかし、これだけ特殊な兵器を集めて積載することになるとは」

「出発時にはすでに作戦の概要を決めていたことになりますね」


 事前の情報は少なかったはずだ。わずかな手がかりの中、あの天才少女はどれだけシベリアの状況を読み対策したのだろう。


「黒川さん、やっぱりあなたは凄かった」


 七つの大罪の力を借りたとはいえ、あの峰島由宇に唯一黒星を点けた偉業はとても追いつけるものではないと思った。



「37号BB、準備完了しました」

「35号BB、搭載完了」

「38号BB、若干の遅れがでている。二分待ってくれ」


 フリーダムの格納庫では、兵器の整備が急ピッチに行われていた。


「四十七発のバンカーバスターか」


 バンカーバスターは落下エネルギーとブースターによって地表を貫通し、地下施設にまで到着して爆発する特殊な兵器だ。第二次世界大戦で初めて使用され、近代の戦争においても使われている兵器だ。

 本来バンカーバスターは地下数十メートルまで貫通するのが関の山だったが、米軍が所持していたバンカーバスターは特殊仕様で、ロケットブースターにより数百メートルまで潜り爆発することができる代物になっていた。


「しかし在日米軍にまさかこんな特殊なバンカーバスターが数多くあるとは思いませんでしたよ。こんな特殊な爆弾、どこに向けて使うつもりだったのか。日本の近隣を見渡しても、使用の必要性を感じない」


 首をかしげる福田に怜は皮肉というのがぴったりの笑みを浮かべる。


「一つあるではないですか。地下深くに攻撃をしかけたい場所が」

「ああ、そうでしたね……」


 日本には地下1200メートルにもっとも重要な施設があることを思い出した。


10

 由宇は転んだ八代をまたいでエレベーターを出ると周囲を見渡した。

 八代は一度見たことのある光景。マモンは初めての光景だ。どこまで広がっているか解らない暗闇の向こうで赤い光がうごめいている。


「何かじっとこちらの様子をうかがっているみたい……」


 周囲の様子はほとんど解らない。エレベーターの明かりに照らされて、周辺がむき出しの岩だらけだと解るくらいだ。


「襲って、こないね? 何かやったの?」

「まだ何もしていないぞ。この周辺にグラキエスがあまり近づかないのは調査済みだ。とはいえ、いつ動き出すとも限らない。刺激するようなことはするな」


 三人はエレベーターの中の箱を手分けして運び出し開けた。側面の蓋を上にスライドして開けると、小さな穴が規則正しく無数に並んでいた。


「ハニカム構造? 蜂の巣にそっくり。ほんとにミツバチだね」


 箱の中から羽音がしたかと思うと、次々と指先ほどの大きさのものが穴から飛び出した。無数の小さな点の集合体は、まるで黒い霧のように頭上に広がった。


「ミツバチは本来は花粉や蜜の運搬や採取、植物の健康状態を調べるのを主とした小型ロボットだ。このミツバチは改良版。採取機能を取り払い、軽量化と速度向上、活動時間の延長を可能にした。膨大な地下空間を調べるのに活用する」


 十二個の箱から次々とミツバチが飛び出す。外見は黒いのでハチというよりも黒い霧だ。


「重さは4グラム。十円玉とさほど変わらないが、一箱に一万五千体格納されている」


 一箱の重さは60キロを超える。マモンが気軽に持ち上げようとしても動かないはずだった。


「一万五千かける十二箱で十八万体! そんなに大量のミツバチをいったいどうするの?」

「短時間で調べるには物量作戦しかないだろう」


 ミツバチはそのまま広がって地下空洞の四方に飛び去ってしまった。


「調べるって何を?」


 八代の疑問に由宇は黙ってLAFIサードのモニターを指さす。地下空洞の3Dマップの地形が次々と広がっていった。


「超音波の反響音をLAFIで解析して地形データに落とし込んでいる」

「反響定位って言ってくれれば通じるよ。あなたの記憶は読み取ったんだから」

「ミツバチに驚いていたから、これも忘れている可能性が高いと判断しただけだ」

「なにそれ? 嫌味? 嫌味なの? 嫌味だよね?」


 モニター上では地下空洞の構造が刻一刻と増えていく。ミツバチが周囲に広がりながら地形データを送ってきた。


「どれくらいの範囲を調べるの?」

「ミツバチの平均時速は24キロメートル。数が多いとはいえ調査範囲は限られている。基地の周辺5キロメートルを調査するのが精一杯だろう」


 由宇は状況を見て調整しているのか、LAFIサードを使ってミツバチに何か命令を送っていた。後ろから見守っていた二人だが、マモンのほうがすぐに飽きて周囲を見渡した。


「前来たときも思ったんだけど、基地の地下にこんなエレベーターを誰にも知られずによく作ったね。こっそり作ったにしても、みんな気づかなすぎじゃない?」

「こっそりではない。正式に作られたものだ。ここは本来は地下廃棄施設になるはずだった」

「廃棄ってなんの? あ、いいや。なんとなく察しちゃった。放射性物質とかだよね」


 マモンは怖々と周囲を見た。


「そうそう。そうだったね。シベリアの中央にそんなものを作ろうとしたのが露見して、国内外からの非難を受けて廃棄施設は中止になったんだよ。そういう意味ではこっそり作ろうとしたんだけど、ばれないどころか公にされて、大バッシング。いやあ、隠し事はするものじゃないね。だからそんなにおびえなくても大丈夫だよ」


 八代が由宇の説明を補足した。


「地下でやることは三つある。一つは地下構造の調査。いまシベリアは穴の地下はグラキエスが食い散らかして穴だらけだ。構造のもろいところをつけば崩すことも不可能じゃない」

「それで塹壕作戦か」


 地下がこれだけ空洞化が進んでいるなら、キロ単位の巨大な塹壕を作るのも不可能でないように思えた。


「もう一つは岸田博士の行方だ。これは空洞の構造調査の副産物として捜索することができる。もし見つかったら、二人の出番だ」

「わかってる、任せてくれよ」

「うーん、それにしてもここって寒いね。地下ってこんなに寒いものなの?」


 マモンは白い息を吐き出しながら、ふいに首をかしげた。


「あれ? 僕の知識が間違ってなかったら、地下に行くほど温度は上がるんじゃなかったの?」

「そうだ。100メートルで三度気温は上昇する。地下1000メートル以下なら、地上よりここは三十度以上気温が高くないといけない」

「でも地上よりも寒いよ。由宇君、もしかしてシベリアの終わらない冬の原因、異常気象はこの異常に寒い地下のせいなのかい?」

「その原因こそが三つ目の理由。作戦のもう一つの要だな」


 モニターの表示が変わり、風間が顔を出した。


『その要となるものを発見したぞ』


 構築された地図のところどころに水色に色分けされた部分ができた。


「地底湖? にしては小さいね。全部くぼみにあるから液体だと思うけど」

「その推測は正しい」


 ミツバチが広げていった3Dマップの端に新たな液体を示す表示が増えた。それが次々と増えると、八代もマモンもさすがにおかしいことに気づく。


「自然にたまったにしては、なんだか不自然に感じるんだけど」

「この地下がこれほど冷えている理由だ」

「え、どういうこと?」

「実際に見たほうが早いだろう。一番近いものならここから220メートルだ」


 由宇はそれだけ言うと歩き出した。いつグラキエスが襲ってくるとも解らない状況下で、その立ち居振舞いはいつも通りだった。

 しかたないので二人はついていく。


「わざわざ確認しなくてもいいよ。危ないから戻ろうよ」


 マモンは周囲のグラキエスを気にして小声で文句を言う。


「そうもいかない。原因となっているモノの有無が、今回の作戦に大きく関わる。それにもうすぐそこだ」


 由宇が進んだが方角からひときわ冷たい冷気が流れてきた。


「え、なんなのこれ?」


 マイナス二十度どころではない。おそろしく冷たい空気だ。


「マスクをつけろ。この先の空気は危険だ」


 三人がマスクを装着してさらに進む。静かだった周囲から物音が聞こえるようになってきた。硬質な足音だ。


「グラキエスが近づいてきているな。下手な挑発で刺激したくない。八代、近づいてきたグラキエスを雷鳴動で適当に追い払え。あまり強くやりすぎるなよ。度が過ぎるとただの挑発行為だ」

「さらっと難しい注文だね」


 八代はクナイを両手に持つと、ツバサのように羽ばたいてクナイ同士をぶつけて、独特の音を鳴らした。足音が遠ざかり再び静けさが戻ってきた。


「ふう、成功したみたいだね」


 緊張に冷や汗をぬぐった。


「成功してもらわないと困る。これだけの数のグラキエスに一斉に襲いかかられたら、私でもひとたまりもない。マモンはグラキエスの気配を感じ取れるんだったな。ならばこれからは事前に近づいてくるグラキエスの方角を教えてくれ」


 マモンがふんと鼻で笑う。


「つまり僕の力が必要ってことだね。もうちょっと丁寧な言葉でお願いしてくれたら聞いてあげないこともな……まって、近づいてくるグラキエスがいるよっ!」


 マモンが事前にグラキエスの気配を察知した。八代は指示された方角に雷鳴動を放ち追い払う。

 グラキエスは次々と近づいてくる。マモンは気配を探ることに集中しなければならず、話を続けるどころではなかった。それからしばらく三人は歩き続けた。八代とマモンはうまくグラキエスを追い払い、戦闘することはなかった。

 三人の口数が少なくなってきたのは、緊張や警戒ばかりのせいではなかった。寒さがさらに増してきた。皮膚に痛みが走る。マモンは温度を確認しようとしてADEMで支給されているツールの温度計を見たが、マイナス四十度までしか対応していなかった。


「まだなの? このままだとグラキエスに殺される前に凍え死ぬよ」

「気温が下がっているということは、それだけ目的地に近づいているということだ。……あった」


 由宇が指さした先には、いままで岩肌ばかりだったものとは違うものが見えていた。


「なにこれ? 綺麗な地底湖だね」


 そこには小さな池のようなものがあった。LEDライトに照らされて、透明度の高い青い色をした数メートル程度の小さな池だ。

 マモンが好奇心のおもむくまま近づこうとするのを、八代が慌てて引き留めた。


「ちょっと待って。これって安全なものなの? グラキエスの新兵器とかだったりしない?」

「グラキエスが作ったものだが兵器ではないぞ。とはいえ近づいても平気ではないがな」


 由宇の言葉にマモンははてしなく微妙な顔をする。


『おまえがダジャレを言うとは珍しい』


 由宇は無言でLAFIサードをねじ曲げようとして、風間は慌てて前言を撤回した。

 八代はおそるおそる青い液体をのぞき込む。


「しかも冷気やばそうだよ。ADEMの特殊防寒具越しにもわかるくらいあそこは冷たい」

「そんなに冷たい水なら普通凍ってるんじゃないの?」

「水ならな。これは二酸化炭素を空気中から排除するための副産物みたいなものだ」


 由宇の言葉にマモンはしばし考えて徐々に顔を青ざめさせて言った。


「二酸化炭素を排除する副産物で、青い液体って……まさか? ちょっと待って。おかしいでしょ。これって液体酸素!? ありえないよ。いくらシベリアが寒いからって」

「正解だ」

「液体酸素はマイナス百八十三度。地下が寒いのはこれが原因か。さすがに冷えるわけだ。でもどうしてこんなところに……」


 八代の体が震えているのは寒さばかりのせいではない。得体のしれない出来事が不気味でならなかった。


「超低温で空気中の成分を分留して、弱点である炭素を含んだ二酸化炭素を排除しているんだ。低温で固体化した二酸化炭素、つまりドライアイスだが、ここにはないようだな。どこか別の場所に運び出したか」


 そのとき液体酸素の池の中で何かがはねた。液体の中を何かが動いているように見えた。見間違いかと思った八代は何度も目をしばたたかせる。


「まさか液体酸素の中で生息できる生き物なんていないよね」

「サタン!」


 マモンが急に叫んだ。


「そうだ。サタンもそうだった。彼も体が消耗すると液体窒素に浸かって体を取り戻していたんだった」

「つまり液体酸素の中に生息するグラキエスもいるということ?」


 八代の問いに答えるように、液体酸素の池でまた何かがはねた。今度は赤い体表がはっきりと見える。


「予想はしていたが、グラキエスが操れる分子はケイ素だけではないようだ。酸素も液体化させ、こうしてここでとどまらせている。普通ならすぐに蒸発してしまうからな」

「酸素の液体化の維持って、どうやって?」


 珍しく由宇は肩をすくめて解らないというゼスチャーをする。


「超低温による空気の分留をどう行ったかはわからない。いまある技術では、どうしても複雑で大規模な設備が必要になる。さらに液体の状態で安定している理由はもっと不可思議だ。グラキエスは多種多彩な進化をした。その中には人間の知識を凌駕するものもあるということだ。自然界の可能性は人間の知性より豊かだということを忘れてはならない。いまある技術の多くは人の知性が作り出したものではない。自然を解析し学び取ったもののほうがずっと多い」

「グラキエスは自然のもの、という解釈なのかい?」


 由宇の言い方に違和感を感じた八代は疑問を投げかけた。


「自然という言い方が気にくわなければ、無数の偶然と選別が行われた結果だ。その過程は自然の進化のそれと酷似している。時間があればこの空気の分留手段を解析したかったが、かなわぬ望みだろうな。もしこの技術が安価に再現できるものなら、多くの環境問題や技術の発達に貢献しただろう」


 由宇が珍しく饒舌になっている、彼女なりに何か思うところがあるのかもしれなかった。


「このような液体酸素の溜まりは洞窟内にいくつもあるだろう。これがあることを確認したかった。液体酸素の有無で作戦の成否は大きく変わる」


 八代が手を打つ。


「これが今回の作戦の切り札ってわけだね。あの方法は錆び付いた技術だけど、これだけ大量にあるなら使わない手はない。弱点である二酸化炭素を排泄するための進化が、別の弱点を生み出す欠点となってしまう。行きすぎた進化はときに諸刃の剣となる。いやあ皮肉だねえ」


 納得している八代と正反対の反応をしているのはマモンだ。


「ちょっと、二人だけでわかったつもりになっててなんなの? なんのことだよ」

「いずれ解るよ」


 したり顔でウィンクする八代の胸ぐらをマモンは容赦なく揺さぶった。


「なんなのその顔、むかつくんだけど」

「そんなに揺らさないで、吐きそう」


 二人のやりとりを由宇は冷ややかに見ていた。


『うらやましいのか』


 LAFIサードのきしむ音が洞窟内に響いた。


11



『作戦開始まであと五分です』

『全軍配置完了しました』


 作戦開始が間近になり、次々と報告が入ってくる。


『全部隊、配置についたぞ。ここからはおまえの独壇場だ』


 風間が表示した作戦マップにはグラキエスの進行度合いとロシア軍、LC部隊の配置が詳細に表示されていた。

 由宇は静かな表情でそれらの通信を聞いていたが、おもむろに手を動かし作戦の初期行動を入力し始めた。グラキエスの進行状況にあわせて最適な行動が由宇の頭の中にはすでにあった。軽やかにリズミカルにキーボードを打つ姿は、著名なピアニストのようにも見えた。


「いやあ、あいかわらず鮮やかだね」


 マモンは由宇が作業している様子をすぐ真横からのぞき込んだ。しばらく作業に没頭していた由宇だったが、


「近くないか?」


 と体温を感じるほどそばにあるマモンを横目で見た。


「気にしないで。見てるだけだから」


 とマモンは顔の位置を一ミリも動かすつもりはなかった。


「そ、そうか」


 由宇はやややりづらそうに、それでもリズムは崩さずに作業を続けていた。横顔がやや緊張している。

 由宇の戸惑う態度が珍しい。あのような距離感で純粋な好奇心で詰め寄ってくるのを苦手としているのか。

 ――あるいはむずがゆいのかな。

 好意より敵意悪意になれた少女だ。マモンは感情の起伏が激しく、他人への好悪もコロコロと変わる。いまは由宇のしていることへの好奇心がまさって、先ほどまで恨みがましく思っていたことなど綺麗さっぱり忘れているようだった。


「なんかニヤニヤ見てて気持ち悪いんですけど」


 などと思っていると、マモンが八代に冷たい眼差しを送ってきた。


『作戦開始まであと一分だ』


 風間が告げるとほぼ同時に、由宇の手は止まった。


「なんとか作戦の初期行動の設定入力が終わった。最初の十分は予想外のことが起こらない限り、これでなんとかなるだろう」

「一つ一つに指示が二十以上、秒刻みのスケジュールが組まれてるんだけど」


 マモンはあきれた顔で相変わらず間近から見ている。由宇はやや顔をそらし身体をのけぞらせていた。


「これでもだいぶ簡略化したつもりだ。これ以上指示を細かくしても、成果は3パーセントもあがらない。私のやり方を引き継ぐフリーダムもやりにくいだろう。……やはり足りないか?」

「もう充分! 時間もないしこれで行こう!」


 八代はおしまいとばかりに手を叩いた。

 由宇の作戦指示はフリーダムにもリアルタイムで送られているはずだ。彼らはいまごろ由宇の指示の細かさに頭を抱えていることだろう。


『作戦開始まで十、九、八……』


 風間がカウントダウンを始めたので、由宇もそれ以上指示を細かくするのをあきらめた。代わりに作戦の意図を注釈として付け加えている。

 その内容はグラキエスの行動を予測し、誘導すらしているものだった。普通に考えれば絵に描いた餅だ。

 八代は直接見たわけではないが、あきらやアリシアから聞いた訓練の様子、由宇の頭脳を駆使した運動能力、洞察力や分析能力、それらを総合すると、荒唐無稽な作戦内容がとたん現実味を帯びてくるのが不思議だ。

 はたして由宇の天才性はこのような大規模作戦でも通用するのか。それとも絵に描いた餅で終わるのか。

 グラキエスが迫るのは脅威だが、いまは彼女の真価があきらかになるのが不思議と楽しみで恐怖心も薄らいだ。


12



「ぬおっ!」


 ゴーゴリは飛び起きると、すぐに時計を確認した。午前零時を過ぎている。グラキエスが基地に到着するまでまもなくだ。もっと早く起こすように指示していたはずだが、誰かが起こしに来る様子もない。

 窓の外から戦車の駆動音が聞こえてくる。急いで窓に駆け寄ると、ロシア軍の陸上部隊がいままさに移動しようとしていた。

 グラキエスとの戦闘で破壊された兵器は多いものの、それでも圧倒的な数がロシア軍には残っている。

 自走砲八十七台、装甲車百十二台、152㎜砲六十二門、攻撃ヘリ二十四機が動き出す。千名以上の歩兵も残っていたが、それらはすべて基地周辺の最終防衛ラインに配置された。

 何十台もの車両が一糸乱れぬ様子で移動を開始した。流れるような移動は誰が見ても惚れ惚れとするほどのもので、ゴーゴリも例外ではなかった。


「うおおおっ、ここにきてついにわしの指導の成果が表れたか!」


 その一挙一動すべてが由宇の指示とは知らないゴーゴリは、感極まった声を出し喝采する。

 ゴーゴリは急いで作戦司令室に行くと、


「皆のものご苦労である!」


 と上機嫌に入ってきた。ほとんどの兵士はゴーゴリは放置されていたことに怒り、怒鳴り散らすと思っていたので、完全に予想外で面食らっていた。

 司令室にはLC部隊のあきらの姿もあったが、気にかけないほど上機嫌であった。

 ただゴーゴリがこれ以上ないほど笑顔なのもわずかな間だった。司令室に飛び交う数々の過剰なまでの指示。各戦車の進行速度、走行距離、角度、あらゆる指示が行われていた。それも一台や二台ではない。絶えず指示が何十も重なって飛び交っていた。すべて同じ声なので、おそろしく聞き取りにくい。


「いったいこの通信はなんだ?」


 通信で呼びかけている車両らしきものがちょうど司令室から見えるところを走っていた。


『20メートル直進、一秒停止、右に二十二度、前方車両の右履帯を目指し……』


 通信から聞こえてくる指示の細かさは常軌を逸している。指示の細かい教官でもここまでは言わない。だいたいこれほど細かく指示されてもその通りにできないし、混乱するだけだ。

 なのに眼下の戦車の行進はなめらかに動いている。指示を無視しているようにも見えない。そして同系統の指示が、様々な車両に下されている。


「これは、なんだ?」


 目を見開いたままゴーゴリはあきらを見た。こんな真似をする者は己の傘下にいない。ならばこの基地の異物であるLC部隊の仕業だと結論づけることができる。


「ゴーゴリ司令、お怒りはもっともですが、作戦の指示は我々に任せてくれませんか?」


 あきらはごまかすことはせず、まっすぐにゴーゴリを見た。


「あの指示は遺産技術なのか? あのような真似もできるものなのか……」


 あきらはどう答えるべきか迷った末に、


「一人の天才がやっていることです」


 答えられる範囲で正直に答える。


「そうか。たいしたものだな……」


 岸田博士達三人がロシアに到着した当日に、ゴーゴリは対グラキエスの派手なデモンストレーションを行った。いかずち隊という特殊部隊とダイヤモンドを使った対グラキエス兵器という切り札を惜しげもなく披露した。

 そのときと比べて今回の出動はどれだけ心細いことか。対グラキエス用のダイヤモンド兵器はあるかもしれないが、いかずち隊はいない。彼らの存在が戦局を左右したと言っても過言でなかったのに、いかずち隊はイワンの制御下にあり、いまは使えない状態だ。

 ロシア軍の撤退もありえた。

 なのにいま進軍している兵士達は、遠目にも士気が高いのが解る。いったいどのようなマジックを使ったのか。軍全体がこれほど高揚しているのを見たことがない。


「これぞ軍隊の理想の形であろう。ならば戦いあとは勝利するだけだ」


 あきらはゴーゴリに感謝をした。軍の上層部は逃げるという選択肢もあったし、ゴーゴリならその可能性もあると考えていたからだ。指揮系統を混乱させないため、いろんな思いを吞み込んでいるのだろう。

 あきらが隣に立つとゴーゴリは一度だけ見たが、すぐに行軍を続ける部隊へと視線を戻す。


「こんな僻地に配属される辞令が届いたとき信じられない気持ちだった」


 ゴーゴリは外を眺めながらぽつぽつと話す。ロシア語が堪能ではないあきらにも解りやすいようにかあるいはそういう気分だったのか、口調はゆっくりだった。


「いったい自分はどんなヘマをしたのか心当たりもなかった。しかしすぐにイワン・イヴァノフという研究者がやってきて、見たことも聞いたこともないような研究を始めた。ロシアが誇る天才科学者セルゲイ・イヴァノフの再来、いや峰島勇次郎の再来かと思った。この施設を守る任務に誇りが生まれた。ここはロシアのほぼ中央だ。軍事基地の意味合いは薄い。しかしわしは兵士の鍛錬を怠ることはしなかった」

「大変だったのですね」

「ああ、そうとも。兵の士気も低い。それはしかたない。左遷も同然に感じただろう。兵士達の多くはイワンのやっていた研究の成果すら知らぬ。ここを守る意味を見いだせずに、脱走する兵士も少なくなかった。しかしそれでもなんとか兵士を鍛えてきた。練度を高めてきた。やっと満足のいく軍隊が完成しようとしていた。そのときだよグラキエスが現れたのは」


 地平の彼方に見えるぼんやりとした赤い光に目をやる。


「正直に言うと、やっと報われるときがきたと思った。グラキエスを退ければ、わしとわしの軍隊は認められる。そう思った。イワン・イヴァノフはこの基地が認められる要だ。ある程度の蛮行は見過ごしてきた。その報いがきたのかもしれん」

「報いを受けるべきはあなたじゃないですか? 一般の兵士達じゃない」


 あきらの厳しい言葉にゴーゴリは表情を歪ませた。


「そうだな。わしの報いとなっては兵士達もうかばれまい……。兵士の半分は戻ってこないだろう。それ以下かもしれん。わしが手塩にかけた兵士達だ。きっと任務はこなしてくれる。無駄死ににはならないだろうな?」

「お約束します。いまここは人類の、いえ全有機物生物の最前線です」

「そうか、そうか……」


 ゴーゴリはそれが聞ければ満足だと言いたげに何度もうなずくと、おもむろにマイクを手に取った。


「貴様らはロシア軍人だ。誇り高く戦い誇り高く死ね。ここは全人類の最前線だ。貴様らの死はロシアの人々の、隣国の、ユーラシア大陸の、全世界の人々の命を守った結果となる!」


 手塩にかけた部下達に死ねと命じるのはどんな気持ちか。あきらは唇をふるわせて必死に感情を抑えているゴーゴリの横顔を見て、最終的に人の気持ちは同じなのだろうと思った。



 基地から5キロ離れた地点には可能な限り兵器、武器が投入された。ここがグラキエスとの戦闘のフロントラインになる。

 部隊の配置が終了してまもなく、無線回線と有線回線がとたんに慌ただしくなった。

 グラキエスの姿が確認されたのだ。


「目視可能な距離に到達します」


 目視可能な距離は戦車の高さから観測したとしても7キロメートルもない。最初に目に入ったのは、地平線を縁取るように現れた帯状の赤い光だ。日の出の地平線を連想させる雄大さだ。

 しかし赤い帯状の光が日の出の明かりでないことはすぐに判明する。赤い光は上ではなく手前に伸びてくる。光が奥から手前へ大地を塗りつぶすように赤く染め上げていく。光の津波が大地を覆い隠していく。

 モニター越しと肉眼で確認したのとでは、感じる脅威に雲泥の差があった。モニターで確認したときでも充分に脅威は感じていたつもりであったが、いざキロ単位に広がりを見せる厄災が迫っているのを目の当たりにすると、恐れの感情しか湧いてこなかった。

 あれがグラキエスか。かなうわけがない。恐ろしい。逃げたい。

 ひたすらにネガティブな感情が心を塗りつぶそうとする。それでも彼らが最前線に踏みとどまったのは、あれを止めねば地球上の生物は全滅してしまうというのを実感できてしまったからだ。

 家族や恋人、大事な人のために大勢の兵士はその場で正気を失うことなく、なけなしの勇気を掘り起こし、その場に踏みとどまっていた。

 グラキエスの大群と接触するまであとわずかしかなかった。

 先頭をきるのはグラキエエスの中でも巨大なクルメンだ。巨大な山が迫っていた。誰もが思う。あんな巨大なものを倒せるはずがないと。全員が怖じ気づいていた。


『最前列のクルメンを破壊し壁代わりにする。全員、配置に付け』


 そのとき神のごとき一人の少女の声が聞こえてきた。

 百以上の車両がいっせいに動く。砲撃は二段階に分かれて行われた。一度目の砲撃はすべてクルメンの右側面に当たり身体の向きを変えさせた。さらに次の砲撃が足下を崩し、巨大なクルメンは横転する。しかしそれだけだ。クルメンの破壊には至らない。

 多くの兵士にもう駄目だという諦めの感情が湧く。

 兵士達の絶望をよそにクルメンは起き上がろうと暴れた。しかし身体の一部が崩れた地面にはまり、いくらもがいても起き上がれずにいた。それだけではない。もがくクルメンは周囲のグラキエスを吹き飛ばし破壊していた。破壊されたグラキエスの残骸が、ますますクルメンの自由を奪いさらに暴れさせ、周囲のグラキエスを破壊するという悪循環を生む。


『横転の姿勢で暴れ続けたクルメンはいずれ自重で破壊される。標的を変更する』


 巨大なクルメンを生きた壁としてグラキエスへの攻撃手段として利用する。それを理解した兵士達は沸き立った。士気の高さは振り切れんばかりに高まった。



 戦闘開始から十分、戦力の損耗率は瞬く間に増えていくだろうと予測していたゴーゴリはその認識が間違っていたことを思い知らされた。

 最前線はじわじわと後退している。大地を埋め尽くすほどのグラキエスの大群を押しとどめるなどできるはずもない。

 各種車両は併せて二十両以上破壊され、攻撃ヘリの三分の一は墜落した。どの兵器も最後は道連れとばかりに効果的なタイミングで爆破し、多くのグラキエスを巻き込んだ。

 しかし重軽傷者は出ているが、いまだに死者はいなかった。撤退のタイミングは常に完璧だった。

 それらを可能にしているのは軍全体をまるで一つの生き物のように動かしている、異常な数の指示だ。

 すべてを目の当たりにしていたゴーゴリは全身を震わせていた。


「なんと……なんと、なんだとお! いまわしは奇跡を見ているのか! 素晴らしい、素晴らしい、素晴らしい!」


 規格外すぎる戦果を前に、人は妬みの感情すら湧かない。あるのは喝采だけだった。


13


 蓮杖は震えた。

 数々の戦闘、戦場を体験している蓮杖は、常に冷静に分析するのを得意としていた。いっさいの感情を交えず、状況判断ができる。それが蓮杖の強みであり、だからこそコーザリティゴーグルを使いこなせていた。

 しかしいま蓮杖は初めて大きな感情に心を震わせていた。

 ――まさかここまでとは。

 基地で見せた由宇の指揮の一端をあきらから聞き解っているつもりだった。しかしそれは大きな間違いだった。

 由宇の指揮は完全に常識外だ。

 コーザリティゴーグルの補助と戦場での経験値があれば、峰島由宇に迫れる。あるいは非情になれる分、うまく立ち回れると考えていた。

 とんだ思い上がりだ。


「手伝います」


 一緒に戦局を見ていた福田が申し出る。


「私もやりましょう」


 怜が続いた。

 三人が手分けをして由宇の思考を、判断を、戦略をまねて指揮を執る。いまはまだ指揮権は由宇にある。三人は予行練習とばかりに、由宇の戦略を模写しようとした。


「まだ足りない」


 一分ももたず、蓮杖は冷や汗が出る。

 福田が優秀な軍人なのは解っていたし、怜にも並々ならぬ知識があるのは解った。なぜこれほど軍事も長けている人物が麻耶の秘書をしているのか疑問だった。あるいはそれほどでなければ真目家の秘書は務まらないのか。それでもまだ足りなかった。

 由宇の思考の速さは尋常ではない。指揮の正確さは舌を巻くばかりだ。ロシア軍人一人一人のクセを解っていなければ無理だ。


「戦術に長けている人間があと五人は必要だ」


 コーザリティゴーグルで状況を総括できる蓮杖をトップに、福田と怜が補佐、さらにその下に五人つける。フリーダムの八人が由宇の戦術を模倣していく。

 蓮杖は声もなくうめき、福田は天を仰ぎ、怜はらしからぬ冷や汗を流した。優秀な作戦参謀五名はただただ驚愕していた。


「八人でも足りませんね」

「さらに五名、増やします」

「頼みます」


 それでも由宇に及ばないだろう。しかしこれ以上人数を増やしても、統率がとれなくなるだけだ。非情になれる、十の兵士を生かすために一の兵士を犠牲にできる、そのアドバンテージでやっと並べるかどうかだ。


「私はそれなりに優秀だと思っていましたが、その自負を完膚なきまでに壊してくれますね」


 怜は憂える姿まで完璧だった。

 それすらも持ち合わせていない福田は横目で怜を見て、


「彼女の前で自信を保てる人間なんていないでしょう」


 とぼやくしかなかった。

 いるとしたら峰島勇次郎くらいか。いやもしかしたら、かの天才科学者でさえ、娘の前では自信をなくしていたのかもしれない。


14



『峰島由宇と峰島勇次郎の天才性はまるで異なる』


 ある日、ある時、風間は珍しい相手に語っていた。ロシアでグラキエスの問題が発生する前のことだ。


「ほう、何かね?」


 岸田博士は蜂蜜をたっぷりと入れた紅茶を口ひげにつけて、目の前にいるノートパソコンに詰め寄った。


「君の見解はとても興味がある。差し支えなければ聞かせてくれないか?」


 モニターの中で風間はうなずき語り出す。彼もまた、NCT研究所を支えるもう一人の天才と語りたいと思っていたのかもしれない。


『峰島勇次郎の天才性は人類の歴史を一人で突き進む速さがあった。対し峰島由宇の天才性は思考の並列性にある。同時にこなせる作業の数が尋常ではない。CPUの発展がシングルコアプロセッサからマルチコアプロセッサに移行したのは、シングルコアの限界が見えたからだ。確かにシングルコアの速さは勇次郎が圧倒的だっただろうが、マルチコアであらゆる状況に対応できる峰島由宇の思考は、津波のように押し寄せてくる不気味さがあっただろう。追いつかれたらおしまいだ。あっというまに吞み込まれてしまう。そのためがむしゃらに走るしかない』

「それほどかね?」


 岸田博士は目を丸くしてモニターをのぞき込む。


『たとえばマルチコアを活かしやすい戦術で勝負したら、あの勇次郎でさえ敗北するだろう。いまなら解る。峰島勇次郎は娘を見ていなかったのではない。目を背けていたのだ』

「やっぱりそうか。だから勇次郎君は、自分の名前をあげたんだな」


 それはいつか来るであろう敗北宣言だったに違いない。


「しかし君は勇次郎君の助手として働いていたときに何度か会ったことあるが、あのときよりずっと人間らしくなったね」

『LAFIの中に戻り一度は人間性を捨てたつもりだったが……。人間の赤子とて、狼に育てられれば狼のように育つ。それと同じだ』

「ははは、そうかそうか」


 目を細めて笑う岸田博士の穏やかな雰囲気に、はからずも風間も笑みをこぼした。


15


 この戦場でただ一人、喝采していない人物がいた。それどころか不満そうですらある。


「やはり完璧とはいかないな」


 由宇は己の戦果にいま一つ満足していなかった。


「ちょっと何を言ってるんだい。これ以上ないほどの戦果じゃないか!」


 八代には何が不満なのかさっぱり理解できない。すべて作戦通りに進んでいると言って過言ではない。マモンも目を丸くして戦況成果を見ていた。


「後退の速度が予定より7パーセント早い。フリーダムの到着までもう少し耐えたい」

「いま以上の奇跡が必要ってこと?」

「奇跡が起こってくれて欲しいところだが、現実に奇跡なんてものはない。もう一工夫必要か」


 考えているように見えたのはほんの数秒。すぐに由宇の手はリズミカルに動き出す。その作戦内容はさらに舌を巻くものだった。

 由宇は奇跡が欲しいと言っていたが、八代やマモン、作戦参加者全員にしてみれば、奇跡はすでにリアルタイムで起こっていた。


『あまり無茶はするな。完璧を目指しすぎると、おまえの戦法の引き継ぎが困難になるぞ』

「わかっている。徐々に指揮権の委譲はすませている。私が担当している区分はもう半分もない。ただ……」


 由宇の懸念がなんであるか八代とマモンにはすぐに解った。わずかだが、前線の動きに乱れが生じている。どれだけうまく模倣しても、どうしても齟齬が生まれる。模倣の精度の問題というよりは、どうしても発生してしまう由宇と上空のフリーダムとのタイムラグが問題だった。


「どれだけ完璧に行おうと、絶対に撃ち漏らしはでてくる。とくに飛行タイプは一気に内側に来るだろう。どうしても0・5パーセント前後は抜けてくる」


 言った矢先に前線のわずかな乱れの隙を突いて、基地内部にまで侵入してきたグラキエスの一群が表示された。

刊行シリーズ

9S<ナインエス> XIII true sideの書影
9S<ナインエス> XII true sideの書影
9S<ナインエス> XI true sideの書影
9S<ナインエス> X true sideの書影
9S<ナインエス> IXの書影