プロローグ
土屋文太にはささやかな幸せがある。
通学電車内で聖女様——表川結衣を一目入れることだ。
(ああ……癒される)
土屋が座っている対角、端席に腰を落とす表川の外見は文字通り〝目の保養〟である。
黄金の河を連想させる金髪は神秘的な輝きを放ち、三つ編みのハーフアップ。白磁のように滑らかな肌には傷ひとつない。
容貌を形成する部位は一級品。
それでいて美人特有の近寄りがたい棘がない。
所作には気品があり、育ちの良さを感じさせる。
事実、表川が身にまとうは名門私立学園の制服。正真正銘の令嬢だ。
見返りを求めず、見る者を圧倒的な視覚情報で癒す姿はまさしく聖女のよう。
非の打ち所などあろうはずがない。
(聖女様ならオタクにも優しく接してくれるかも——なんて考えちゃう勘違い野郎がストーカーになったりするんだよね)
土屋文太は自己評価に長けていた。
容姿、学力、運動神経、内面が凡庸と自覚している彼は聖女様とお近づきになりたい下心がありながらもそれを態度に出さない。
(下手に話しかけて変質者扱いされたら二度とお目にかかれなくなるからね。それは是が非でも避けたい!)
オタク趣味を満喫するため、新聞配達をしている土屋にとって、疲弊した肉体を癒してくれる表川を拝することは大切な生活の一部。
だからこそ彼は不快な思いをさせない配慮を欠かさない。
一定の距離以上は近づかない。声をかけない。凝視しない。視界の端に写る程度の座席を選ぶ。視線を漫画やゲームに切り替える。
挙動不審と清潔感に細心の注意を払う。
舐め回すような視線、性的な視線は論外。
あくまで遠目から勝手に癒される。期待も勘違いもしてはいけない。
故に土屋は表川の名すら知らなかった。知る必要すらないと考えている様子である。
他校に通う高嶺の、否、異世界の住人、聖女様。
一方的な関係であることを自覚し、感謝を忘れない。
徹底した人畜無害の遂行。
それが土屋文太の信条であり、慰安させてもらっている者の礼儀。
悪く言えばヘタレ、意気地なし。良く言えば身の程を弁える。
それがどこにでもいる男子高校生、土屋文太である。
よもやこの日常に異変が生じることなどこのときの彼はまだ知るよしもなかった。
◯●◯
表川結衣には二つの顔がある。表と裏である。
前者は名家の令嬢であった。
表川の名を背負うということは言動に責任が伴うことである。
故に公共生活——周囲に他人の目がある環境——において仮面を決して外さない。
当初こそ女優のごとく切り替えていた彼女だが、現在では人格の一部になっていた。
装うことを意識せずとも表川家の令嬢としてふさわしい言動を取ることができる。
では後者。裏の顔。これこそ表川結衣の本性であった。端的に言えばギャルである。
流行に敏感。好奇心旺盛。メイク、ファッションに目がなく、イベントを愛する。情報発信もしくは収集のためにSNSは欠かせない。
令嬢としての表川を知っている者からすれば想像できないが、本来の彼女はノリが良く、誰にでもフレンドリー——話すことが大好きな女の子であった。
(うわあ……またオタクくんこっち見てんじゃん)
オタクくん——とは表川がつけた土屋文太のあだ名である。
通学電車内、令嬢モードの表川は視線に気がついていた。
しかし、異性に対して向けられていたものかと問われたら首を傾げずにはいられない様子である。
(うーん、やっぱり全然ギラついてない。男特有の〝モノにしてやる〟野心を感じないというか。視線を感じた次の瞬間にはもう漫画やゲームに夢中だし。もしかして一目見るだけで満足してるとか? わっかんないなー)
もはや語るまでもないが、表川結衣はモテる。
表川グループの長女ともなれば、その恩恵に与りたい男は絶えない。
経営者はもちろん、スポーツ、芸能、エンタメ関係者と、ありとあらゆる職種・人種からアプローチされ続けている。
人間観察には事欠くことのない環境。故に表川は幼い頃から人を見抜く目が養われてきた。
(私を一目見たオタクくんって憑き物が落ちたような顔をするんだよね。嫌な視線も全然感じないし……よし! ちょっと探り入れちゃおっと)
それは気まぐれ。そうとしか言い表せない行動原理であった。
一日の大半をお嬢さまとして過ごさなければいけない環境に歪みがたまっていたのかもしれない。
この思いつきが表川結衣と土屋文太の奇妙な関係ができるきっかけである。