第二話①
【土屋文太】
「うぷ……臓物が飛び出しそう」
裏川さんに叱咤激励された翌朝。
僕は聖女様を一目入れることができる時間・車両のホームで電車を待っていた。
妹曰く「兄さんがいなくても世界は回る」らしい僕がよもや主人公の真似事をする日が来ようとは——!
だって考えてみてよ。チラチラと視界の端におさめていた女の子に声をかけるんだよ?
その一面だけ切り取ったらナンパじゃん!
実態は違うにしても周囲からすればそう見えるわけで。
しかも、それだけじゃない。
盗み見ていたこと、勝手に姿を消したことを謝罪するという、二段階の試練。
ぶっちゃけ無茶振りだ。
近づいたら聖なる気で昇天してしまう可能性だってある。
だけど……やる。いや、やらなくちゃいけない。なぜならもう僕一人の問題じゃないからだ。
ここで男を見せなくてどうするんだ土屋文太!
できるかできないじゃない。やるか、やらないかだろ⁉︎
「次は桜坂、次は桜坂」
——はっ! もう聖女様が降りる駅⁉︎
勇気を振り絞って乗車したものの、ガチガチに緊張していた僕が我に返ったのは耳に入ってきたアナウンス。
次いでぷしゅーと扉から空気が抜ける音。
やばいよやばいよ。このままじゃ裏川さんに顔向けできない!
聖女様が降りちゃう——!
きっと窓ガラスに映る僕の両目は盛大に渦を巻いているに違いない。
視界の端には洗練された所作で立ち上がる聖女様。
どっ、どどどどうしよう⁉︎ あとを追いかける? でもストーカーぽくない?
かと言って電車内で引き止めるわけにはいかないし——ええい! もう考えていても仕方ない! こうなったらヤケクソだ!
降りてすぐのホームで声をかけよう! それしかない!
動揺を隠しきれない僕。
きっと錆びたロボットのようにぎこちない動きをしているに違いない。
この光景を目にした聖女様に不審者だと思われていないことを願うばかり。
絶対に話しかける、その決意だけは本物である僕を神は見捨てなかった。
聖女様の座っていた席に上品な模様の布——たぶん、ハンカチだと思う——が落ちているのが視界の隅に入ったからだ。
これだ! これならあとを追いかけて呼び止める絶好の口実に——!
聖女様が下車したのを横目にハンカチを拾って、駆け足で追いかける。
後ろ姿でも神秘的な輝きを放っている彼女を見間違うなんてあるはずがない。
「待って!」
特徴的な髪型——三つ編みのハーフアップが翻り、聖女様がこちらに振り返る。
遠目から異世界の住人だとは思っていたけれど、手を伸ばせば届く距離の破壊力は凄まじく。
見事にその魅力に当てられた僕は——、
「あにょ、ひょれ、落とひみゃしたにょ!」
(↑あの、これ、落としましたよ!)
はい終わったー!
今まで視線を感じていた変質者予備軍から呼び止められ、あにょひょれ言語で話かけられてみてよ。
不審者確定!
案の定、聖女様は僕から視線を逸らし、口元を手で隠しながら全身を振るわせていた。
めっちゃ無気味がられてる……⁉︎
ごめんなさい裏川先生、諦めなくても試合終了でした。バスケは特にしたくありません……!
もはやあまりの絶望っぷりに現実逃避するしかない僕をよそに、聖女様は聞き取れない声で何か言ったあと、
「ありがとうございます」
淑女のような笑みを浮かべてハンカチを受け取った。
——ありがとうございます(ニコッ)
——ありがとうございます(ニコッ)
——ありがとうございます(ニコッ)
頭の中で繰り返し再生される奇跡の光景。
まるで天使のように温かく優しい声が脳内で反響する。
幸せホルモンであるドーパミンがドパドパ分泌しているのがわかる。
表現すると何だろう。汚れていた洗濯物が真っ白になり、世界平和を願う境地にいたるというか。
すっかり浄化され、冷静さを取り戻した僕は勢いに任せて思いの丈をぶつけることにした。
「……実はずっと視線で追ってました!」
「えっ?」
首を傾げる聖女様を視認。困惑しているのが見て取れる。
ごめんなさい。僕のようなオタクは勢いのチカラを借りるしかないんです。
つまり、ここで止まれない。ここまで来たら一気に行くしかない!
「そのせいで……不安や怖い思いをさせてしまっていたら本当にごめんなさい!」
「あの……」
「信じてもらえないと思いますけど、不快にさせるつもりはなかったんです! だから姿を消せばいいって安直に考えて——だけど、そのせいで要らぬ心配までかけてしまって。悪いのは全部僕で、貴女が気に病むことはないと伝えたくて!」
言うまでもなく早口。伝えるべきことを吐き出した僕は鼻息荒く、汗びっしょりになっていた。
額から大粒の汗が滑り落ちていくのがわかる。
僕がやってしまったのは相手の言葉も待たず一方的に情報を伝達すること。
オタク典型のコミュ障っぷり。
聖女様からすれば、顔見知りだとさえ思われたくないような自己中心っぷりだったかもしれない。
その証拠に僕は自分さえ良ければそれで良かったところが否めない。
場所もタイミングも弁えず、ただ、己が罪悪感から逃れたい、すっきりしたいという一心から嘆願に走ったからだ。
実際、言うべきことを言い切った僕は達成感や安堵を覚えていた。
これで聖女様を一目入れるのが本当に最期になってしまったとしても後悔はないからだ。
ピークを避けた時間帯で、学生や社会人は散在、周囲の目が少ないとはいえ、視線を感じる。
ただでさえ目を惹く聖女様がキモオタから告白されているような光景。
さぞ迷惑をかけてしまったことだろう。
ああ、やっちゃった……! また醜態を晒して——!
ジェットコースターで急降下したように自我を取り戻した僕は聖女様の言葉を聞くのが怖くなっていた。
ぶっちゃけこの場から全力疾走で逃げ去りたいぐらい。
瞼を閉じて後悔の念に耐えていると、労うような優しい感触が。
急いで目を開けると聖女様が僕の額にハンカチを当ててくれていた。
「えっ、あのっ、えっ——⁉︎」
「ジッとしていてください。汗が落ちてしまいますよ」
ぽんぽんと軽く押し当て僕の汗を拭っていく聖女様の顔は母性にあふれていた。
いや、僕が勝手にそう判断しただけで、お腹に黒い物を抱えていた可能性だってあるけれど。
でも、表情から不快さは感じられなかった。
きちんとお遣いを済ませた我が子を労うお母さんのような、そんな温かい何かを感じる。
裏川さんの言葉がふいに過ぎる。
《「勇気を振り絞って謝った男の子を表ちゃんがそんな風に評価する女の子だって思っているわけ?」》
「お話は裏ちゃんからお聞きしていました」
一通り拭き終えた聖女様が手を引いたのと同時。そんなことを言う。
……裏ちゃん?
——ああ、裏川さんのこと⁉︎
「裏川さんからお聞きしたというのは……」
「はい、オタクさんが悪い人じゃないと」
オタクさんと呼ばれることに思うところがあるけれど、でも、そんなことはどうでもいい。だって事実だし。
それよりも裏川さんに対する感謝が大きい。
本当に「悪い人じゃないかも」って伝えてくれていたんだ……。
いやもうこれってオタクに優しいギャルじゃない⁉︎ いや、正確には親友に優しいギャルであることは重々承知しているけれど。
なんにせよ勇気を出してよかった……!
これで裏川さんの親切にも報いることができたんだから。
「そうだったんですか」
「もしもお気を悪くされていたら、ごめんなさい。謝らなければいけないのはこちらです。裏ちゃんの詮索も私のためで——」
「わああああ! 頭! 頭を上げてください! チラチラと視界に入れていたのは僕なんですよ⁉︎ お二人の言動は当然ですよ!」
いきなり謝罪する聖女様を慌てて制止する。
ちょっとやめてくださいって心臓に悪い! 誰がどう考えても謝る必要があるのは僕じゃないですか⁉︎
お気を悪くしたら——というのは裏川さんの視察や僕が通学時間・車両を変更したことを言っているんだろうけど、謝る必要なんて微塵もない。
「怒ってないんですか?」
「怒る? 何に⁉︎」
いや、もう本当にどこに僕が腹を立てる要素がありました⁉︎
「……私たちがやったことって、その、不審者扱いと取られてもおかしくないことですよ?」
ああー、そういうことか。
つまり、車両内でチラ見+漫画やゲームをしていることからキモオタと決めつけそうになったことを申し訳なく思っている、と。
裏川さんも『僕でもワンチャン』みたいな勘違い野郎の一人に見えたと言っていたし。
でもそれって普通じゃない? だって、
「可愛い女の子が
ここ十何年でオタク趣味はすっかり市民権を得たものの、通学中も傾倒している男子生徒だよ?
しかも聖女様を一目入れることを生活の一部にしていた。
同じ時間・車両に乗車し続け、その間、なんと半年!
できるかぎりの配慮はしていたつもりだけれど、警戒されてしかるべきだと思う。
というようなことを伝えるため、彼女に非がないことを口にしたわけだけれど、
「……可愛い女の子」
まるで何かを確かめるように呟く聖女様。
やらかしてしまったことを把握するや否や、僕の体温が再び上昇する。
「あっ、待ってください! 可愛いというのは違——いや、可愛くないわけじゃなくて、えーと、その、下心があって『可愛い』と口に出したわけではなく! 僕を不審に思うのも無理はないという話でして——⁉︎」
オタク丸出し、乙!!!!
期待や勘違いしないことを信条としてきた僕があろうことか聖女様に面と向かって『可愛い女の子』ときた。
裏川さんに「異性として見ていたわけじゃない」と豪語したにもかかわらず、この発言。
タイミングも最悪だ。まるで見計らったようじゃないか!
この失態で、僕も結局は打算や下心による接触——聖女様に吸い寄せられては裏川さんに払われてきたであろう男たちと一緒——と思われても仕方がない。
終わったぁぁぁぁ! あにょひょれ語で話しかけて、この失態。ダブルパンチ!
泣きっ面に蜂だ! いや、それを言いたいのは彼女の方ではあるんだろうけれども!
聖女様は見定めるかのような視線。俗に言うジト目だ。
それをヒロインから向けられる主人公を羨ましいと思っていたけれど。
これは——いたたまれない!
「オタクさんはそういう目で私を見ないとお聞きしていたのですが……裏ちゃんが聞いたらどう思うでしょうか?」
「きっと養豚場の豚でも見るかのような視線を僕に向けてくると思います……」
やらかしを悔やむことしかできない僕は諦めて聖女様を見る。
彼女はイタズラっぽく微笑んだあと、
「では、聞かなかったことにしますね」
人差し指を顔の前で立てながら「秘密ですよ?」と言わんばかりのジェスチャー。
おうふ! 破壊力! 圧倒的視覚情報を持つ少女がそれやったらヤバいですって!
言うまでもなく骨抜きにされてしまっていると、
「こうしてハンカチを拾って声をかけてくださったわけですし、何より誠実に謝っていただきましたから。安心してください。オタクさんのことを今さら勘違いはしないですよ」
あれもしかして僕いつの間にか死にました? 目の前に天使がいるんですが。
どうして背中に翼がないんだろう。あっ、そっか、天使じゃなくて聖女様だからか(放心)。
優しく包み込むような慈悲を目の前に平静さを取り戻していく僕。
ふと、聖女様のハンカチが視界に入る。
汗をぬぐわせてしまったせいで、今日一日使えなくなってしまったに違いない。
「あの、洗って返しましょうか? 僕のせいで汚してしまったわけですし」
このときの僕は純粋に申し訳ないとばかり思っていたわけで。
『また会うための口実』に聞こえたかもしれないことを後々気づき、悶絶することになる。
「いえ、お気になさらないでください。だいじょ——」
うぶ、と言い終えそうなところで静止してしまう聖女様。
ハンカチに視線を一瞬落とす。
おそらくこの間、コンマ何秒の世界だとは思うんだけど、今の僕にはなぜかすごくスローに見えていた。
えっ、あの、もしかして——臭います?
大丈夫だと言いかけた次の瞬間に逡巡って、心臓に悪すぎるんですが。
目の前にいるのは見知らぬ男子生徒が半年間、一目入れていたことを許してくれた女の子なわけで。
そんな慈悲深い彼女が嘘でも「大丈夫」と言い切れないハンカチ⁉︎
もしかして僕の汗ってヘドロですか⁉︎
「——そうですね。ではお願いします」
「ヘドロだったんですか⁉︎」
「えっ? ヘドロ? 何のことでしょうか」
「あっ、いや、失礼しました。気にしないでください。ちょっと自分の世界に入ってました」
今度こそ危ないヤツだと思われただろうか。
「ふふっ。オタクさんってちょっと変わっていて面白いです」
パリーン! パリーンパリーンパリーン!
僕の心のガラスが全滅した。
ただでさえ、老若男女問わず目を惹く容姿なのに、おかしそうに微笑む顔と入ったらもう!
絶対モブ卒業できないマンの僕じゃなかったら勘違いしてたね。いやあ危ない。
「それじゃ、これ、お願いしますね」
「はい! 承知しました!」
ハンカチを受け取った僕は、踵を返した聖女様を見届ける。
一歩ごとに花でも咲かせているんじゃないかと本気で錯覚してしまう後ろ姿だ。
彼女は死角で見えなくなりそうなところでもう一度振り返り、軽く会釈。
僕も会釈。やがて見えなくなったところでようやくまともに息ができるようになる。
ふわああああああああああっー!!!!
きっ、緊張したァァァァァァ! ナマ聖女様、ナマ聖女さまと会話しちゃったよ!
きょどりまくり、慌てまくり、動揺しっぱなし。むしろよく気を失わなかったと自分で自分を褒めてやりたいぐらいだ。
さっきまでの体験が全て幻想だったんじゃないかと思うぐらい濃密で信じられない。
けれど僕の手に握られたハンカチの感触が現実であることを証明していた。
あの聖女様が手離したくなるほどのハンカチとは一体……?
僕は借りた手ぬぐいで再び汗を拭うふりをして匂いを嗅いでみる。
なんとなくオチが想像できるとは思うけど——とりあえず感想を独白するね。
めちゃくちゃ良い匂いがしました。洗濯せずにこのまま永久保存したいぐらいです。
さすがにこの発想はキモがられること必至なので墓場まで持って行く所存。
「それにしても表ちゃんに裏ちゃんか……。なんか運命を感じる呼び名だね。こんな偶然あるんだ」