それでようやくからかわれていたと気がついたロレンスは、大人気ないと思いつつもホロを無視して扉のほうへと歩いていった。
ホロはケタケタ笑いながらついてくる。
ただ、もちろんこんなやり取りが嫌ではなかった。
「暖炉の前には他に人がいるからな。ボロは出すなよ」
「わっちは賢狼ホロじゃよ。それにパスロエの村にたどり着くまでは人の形で旅をしてたんじゃ。まあまかしとき」
振り向けば、ホロは外套の下に顔を隠して、もうその気になっているようだった。
町と町の広大な距離の間に点在しているこういった教会や木賃宿は、商人にとって重要な情報収集の場だ。特に教会には色々な人が訪れる。木賃宿には筋金入りの商人か金のない旅人くらいしか泊まらないが、教会には町のビール職人から裕福な者まで様々な宿泊客がいる。
ロレンスとホロの二人が飛び込んだ教会も、先客と後から来た客を含めて十二人がいて、見たところ数人が商人、他はそれぞれ別の職業のようだった。
「ほほう、ではヨーレンツのほうから?」
「ええ、向こうで塩を仕入れてそれを納品し、代わりにテンの毛皮をもらってきたところです」
各々が床に直接座って服についたノミをつぶしたり飯を食べたりしている中で、その夫婦は椅子に座って暖炉の前を独占していた。大広間といってもそんなに広くもないので、十二人いて暖炉に惜しげもなく薪がくべられていればどこにいても服は乾く。しかし、見たところ夫婦の服は濡れたあとなど少しもなかったので、大方たくさん寄付をしたからここにいるのが当然と思っている類の金持ちだろう。
ロレンスはそう当たりをつけてその夫婦の途切れがちな会話を耳ざとく聞き分け、ひょんな拍子に会話にもぐりこんだのだ。
旅の疲れからか黙りがちな妻に代わって会話に飛び込んできたロレンスを、その初老の男は快く歓迎してくれた。
「しかし、ここからまたヨーレンツに帰るのは骨じゃありませんか」
「そこは商人の知恵です」
「ほほう、興味深い」
「私がヨーレンツで塩を買った際、そこでお金は払いません。私は別の町にあるその塩を買った先の商会の支店にほぼ同額の麦を売っていたからです。私はその支店から麦の代金を受け取らない代わりに、塩の代金を払いません。お金のやり取りをせず、二つの契約が完遂されるのです」
百年以上前に南の商業国で発明された為替のシステムだ。ロレンスも師匠になる親戚の行商人からこれを聞いた時ひどく感動した。ただ、それは二週間ほど散々悩んでようやく理解してからのことだ。目の前の初老の男性も、一回聞いただけでは理解できないようだった。
「ほ……それは、なんとも、不思議なできごとですね」
そう言って、何度もうなずいた。
「私はペレンツォという町に住んでいますが、私のぶどう園のぶどうの支払いにそんな不思議な手段を用いたことがありません。私のところは大丈夫でしょうか」
「この制度、為替と呼ぶのですが、これは色々な地方の人を相手に商売する商人達が発明したものです。ぶどう園をお持ちの領主様なら、ぶどう酒業者が良いぶどうを悪いと言って安く買い叩かないかに注意すればよいでしょう」
「んむ。毎年毎年それで口論になるのです」
そう言って笑うが、実際はこの領主に雇われた会計員なりが顔を真っ赤にして海千山千のぶどう酒業者と渡り合っているのだろう。ぶどう園を持つ者には貴族が多いが、貴族が直接土をいじったり金の話をすることはほとんどない。パスロエの村やその近辺を治めるエーレンドット伯爵は、だからかなり変わり者の部類に入る。
「あなた、ロレンスさんといいましたか。今度ペレンツォ近辺に来た時はぜひ当家を訪ねてください。喜んで歓迎いたしましょう」
「ええ、ぜひ」
ペレンツォに住む誰である、と言わないのは、貴族としての癖だろう。自分は名乗らずとも相手が名前を知っていて当然である、という考えから、自ら名乗ることは下品であると考えるのだ。
それに、きっとペレンツォに行ってぶどう園の領主、といえばこの男性しかいないのだろう。もしかしたら、ペレンツォの町ならとてもロレンスなど軽々しく口を聞ける相手ではないのかもしれない。教会はこういった人間にコネを作るのにも最適な場所だ。
「それでは、妻がちょっと疲れているようなのでね。お先に失礼します」
「また神のお導きがありますように」
教会での決まり文句だ。男性は椅子から立ち上がった妻ともども小さく会釈をして、広間から出ていった。ロレンスは薦められるがままに隅から持ってきて座っていた椅子から立ち上がり、夫婦の座っていた椅子二つも持って部屋の隅に片付けた。
広間で椅子を使うのは貴族か金持ちか騎士だ。どれも人から嫌われる上位三人だ。
「へへ、だんな、なかなかの人物だね」
椅子を片付けて部屋の中ほどに座っていたホロの横に戻ると、すっと近寄ってきた男がいた。身なりと風体から、同業者だろう。ただ、髭の下にある顔は若い。まだ独り立ちしてすぐくらいのものだと当たりをつける。
「どこにでもいる行商人さ」
ロレンスはそっけなく答えたが、ロレンスを挟んで男と反対側にいるホロが少しだけ居住まいを正した。その時頭からかぶっている外套が少しだけ動いたが、耳を動かしたのだと気がついたのはロレンスだけだろう。
「いやいや、あっしもさっきから狙ってたんですがね、なかなか会話に入り込めなかった。だんなはそれをすっとやっちまった。この先だんなみたいなのを相手に商売やっていくのかと思うと気が滅入る」
にか、と笑って男が言うと、欠けた前歯が愛嬌だ。もしかしたらわざと歯を欠いて、間抜けな笑顔から駆け出しであることを強調しているのかもしれない。商人なら、自分の顔がどんな印象を相手にもたらすか絶対に把握しているはずだからだ。
油断ならないな。
ただ、ロレンスは男の言葉そっくりのことを駆け出しの頃に思っていたので、そこだけは同意したのだった。
「なに、俺も駆け出しの頃は行商人全部が化け物に見えた。今でも半分以上が化け物だ。それでもなんとか食っていける。頑張ることだ」
「へへ、そう言ってもらえると安心だ。あ。あっしの名前はゼーレンと申します。お察しのとおり駆け出しの行商人です。よろしくどうぞ」
「ロレンスだ」
昔、ロレンスも駆け出しの頃に顔見知りの行商人を作りたくてやたら滅多ら話しかけたものだが、皆の対応が冷たいことに腹を立てたりした。けれど、今こうやって駆け出しの者から話しかけられる立場になると冷たいあしらいをされたのもよくわかる。
駆け出しの行商人は、自分が得るばかりで相手に渡すものが何もないからだ。
「えーと……あ、そちらは、連れの方ですかね?」
やはり渡すものが何もないのか、それとも駆け出しにありがちな、いかに何も出さずに自分だけが得ることができるか、という勘違いをしているのか、そんな話題の切り出し方をした。これがベテランの行商人同士なら、すでに二つか三つの地方の商売情報を交換していることだろう。
「妻の、ホロだ」
一瞬、偽名を使うか迷ったが、そんな必要もないかと思いなおしそう言った。
ホロは名前を呼ばれてから小さくうなずくように挨拶をした。
「へえ、夫婦で行商ですか」
「風変わりな妻でね。町の家にいるより馬車の上のほうがいいと言う」
「しかし、だんなも外套なんかすっぽりかぶせてよほど大事にしてらっしゃる」
なかなか達者な口に少し感心したが、もとは町のごろつきかもしれない。少なくともロレンスは親戚の行商人から、こういう類の口上はするなと教えられたものだ。